ラ・カンパネラ Opus 1
この小説は、二人の主人公がタイトルごとに視点を変える構成になっています。
プロローグを飛ばした方は、是非最初から読んでいただければと思います。
「グーテンモーゲン」
俺に声をかけてきたのは、店主のハンスだ。たぶん七十歳は越えているのだろうが、ブロンドの豊かな髪をしているため、年齢などわからない。
俺は、一ヶ月前、カイザースブルクでバスを降り、宿を探して歩いていた時に、偶然ハンスの店を見つけたのだ。
最近は閉めているが、その頃は、夜もハンスは店を開けていた。
「夜はやっていないの?」と、一度訊いてみたら、「体調が冴えないんだ」と、笑った。
今は、どうも夕方までには閉めてしまうようで、コクのあるドイツビールが飲めなくなったのが残念でならない。
だが、昼間なら何時間いても気にしないでいてくれるため、俺にとっては居心地が良い。ほとんど毎日のように訪れ、朝食にも昼食にもなる時間に来ては、食事をしていた。
店主のハンスは、今日は転た寝でもしていたのか、いつもは整えられた髪が、少し歪な形になっている。本当に体調が悪いのか、昨日よりも少し土色に見える肌の色が気になった。
「ショウ、今日はどうする?」
ハンスは、席に座ったばかりの俺に、英語で話し掛けてきた。ドイツ語が、からっきしわからない俺のために、ギムナジウムで習っただけだと顔をしかめた英語で話しかけてくれる。
ハンスの「今日はどうする?」は「今日、何を食べるか?」ではなく、「今日は、どうやって過ごすつもりなのか?」の意味だ。
俺は、ハンスが出してくれるものの他には、昼間にはコーヒーのお代わりしか頼んだ覚えがない。
朝、散歩がてら初めて訪れた時に「朝食を食べに来た」と話したら、何も言わないのに、パンとコーヒーとチーズを出してきた。
それ以来、いつも俺が来ると、パンとコーヒーとチーズを出すのだ。
「ストラスブール……、いや、シュトラスブルクへ行くつもりだ」
どうするつもりだというハンスに答えたのだが、なぜかストラスブールとフランス語で発音し、《シュトラスブルク》と言い直した。
「いいさ、そんなことは……」と言い終えた時のハンスは、ほんの一瞬だが、今までとは違う顔になった気がした。
「いつもそうやって、ガイドブックを見ていたが、とうとう川を越えるんだな」
ストラスブールに行くのは、国境を越えてフランスへ、つまりライン川を越えることになる。
俺は「ああ」と返事をした。
ハンスは、カウンターにパンとコーヒー、それにリコッタチーズを置き、いつものように「チーズはサービスだ!」と笑った。
俺は、パンとチーズが載った皿と、コーヒーカップを手にし、さっきまで座っていた席に運んだ。
「どうしてよりによって、今日のような天気の日に出掛けるんだ」
確かに、今にもヴォージュの山の雪が、降りてきそうなほど冷えてきた。朝よりも、気温が低くなっている気がする。
「ショウ。シュトラスブルクには、何か特別な用事でもあるのか?」
以前、カールスルーエやフライブルクに行くと話した時は、ハンスはこんな風には訊いて来なかった。今日は、どういう風の吹き回しか、口数が少ないハンスにしては、いつになく饒舌だ。
「ただの、観光さ!」
俺は、いつもと違うハンスに、少し戸惑いながらも答えた。すると一瞬、ハンスの顔が輝き、口を開いた。
「じゃあ、大聖堂か?」
「ああ、時間があれば、カテドラルには行くつもりだ」
「行くつもりか、ショウ。シュトラスブルクに行けば、嫌でもカテドラルに行くはずさ」
ハンスは、俺をちらっと見ると、コーヒーを淹れるために使った道具を洗い始めた。
「シュトラスブルクなら、川向こうのバス停から、ケールまで行けばいい。この街からケール行のバスは、昼間でも三〇分に一本はあるはずだ。ケールに着いたら、ドナウ川を渡すユーロップ橋を通れば、フランスだ。橋はバスでも、歩いても渡れる」
真面目なドイツ人そのものの正確さで、ハンスは教えてくれた。
「ああ、ありがとう」
ハンスが話してくれたストラスブールへの交通手段は知っていたが、礼を言った。
「渉、時間があれば、カテドラルに登ればいい。カテドラルに登れば、すべてのものが見える……」
ハンスは、流していた水を止めるため、水道栓を締めた。力を入れすぎたのか、キュッ、と音が響き、そのせいかハンスの顔が赤く染まった。
「全てのものが見えるって、カテドラルに登れば、何が見えるの?」
頬を染めたハンスに、俺は途中になった言葉の続きを促した。
「カテドラルに登れば、すべてのものが見える。すべての綺麗なものも汚いものも……」
「汚いものって?」
ハンスが言った『汚いもの』が気になり、つい尋ねてしまった。
ハンスは焦点の定まらない目をして「俺さ!」とボソッと言った。俺は、ハンスが英語を間違ったのかと思いながらも、気になる言葉を、もう一度は確かめられない。
《カテドラルに登れば、すべてのものが見える。すべての綺麗なものも汚いものも、汚いものは、俺さ……》と、ハンスは言った。確かに「汚いものは、俺さ」と……。