抱擁 Opus 1
運河の水音を、渉が引くスーツケースの音が消し、私の耳元には嫌な音が残った。
渉は私と話しながら、どんどんと前に進んで行く。私は、渉の腕を取り、少し歩くスピードを緩めるようにする。
石畳の道を折れた所に、渉が泊まるホテルがあるのだろうか? 前に進むたびに、私の緊張が増していく。
ホテルに着いたら、直ぐにフロントに行き、部屋を取ろうと決めた。
ハンスの店で渉はキスをしたけど、それも一時の勢いのように感じる。日本から、ヨーロッパまで渉を捜しに来たのに、それとこれとは別だからと、自分に言いきかせた。
それでいながら、ドイツまでやって来たのに、学生時代の関係から進歩がないのは、またもどかしい。
渉が好きで、渉と一つになりたい思いは、おかしいのだろうか? いっそう、渉に思い切り抱かれて、何もかも忘れたかった。
ドラマなら、このまま二人が会ってハッピーエンドで終わるはずだけど、現実は違うと思い知らされている気がする。
成田を発った翌日には渉と会っている状況なんて、まるで想像できなかった。それだけに、この後の、何も具体的な行動なんて頭になかった。
二人でこうして並んで歩いているのは、まるで夢見心地で幸せだ。なぜか整然と並んだマロニエやポプラに、組木細工のようなカイザースブルクの街並みが、猛然としたスピードで後ろに進んでいくように感じた。
前に進むに連れて、私たちの言葉は少なくなっている。私だけではなく渉まで、言葉にし難いものを意識しているはずだ。
渉は、どう? いや何を考えているのだろう? ただ、重いはずのスーツケースを軽々と転がし、私が腕を押さえなければ、直ぐに体一つ前に進んで行こうとする。
「渉、歩くのが早くって追いつかないわ」
私は、どんどん前に行こうとする渉に注文をつけた。
「えっ、普段通りなんだけどな」と歩くスピードを緩めた。
「重くないの?」
「これくらいだったら、どうってことないよ。向こうにいた時は、いつもテレビカメラを持つか、重い機材を背負っていたから。ときには、両方だってあったし」
息も切らさずに、しっかりと話す。
学生時代の鍵盤と睨めっこしていた青白き音楽青年であった頃とは、全くといっていいほど、違う人になっていた。ピアニストではなく、無精髭が似合うアルピニストと一緒にいる気がする。
バス停のそばで会った女性に紹介されたホテルが見えた。渉と会わなければ、たぶん今晩泊まっていたはずのホテルだ。建ってそれほど経っていない、瀟洒なホテルのようだ。渉が、あのホテルに入って行くのかなと思ったら、そのまま通り越して行った。息ができないほど高鳴った、胸のときめきが、ため息に変わった。
歩いている途中に、渉からハンスの店でピアノを弾いた経緯を聞いた。渉は、今日は、ストラスブールに行き、宿泊する予定だったと言う。
もし渉が、ハンスの店で『ラ・カンパネラ』を弾かなかったら、どうなっていただろう。これから行く渉が泊まっているホテルに、私が探し尋ねても、宿泊客の情報を簡単に教えてくれる保証なんてどこにもない。運命の悪戯次第では、渉を見つけることができずに、カイザースブルクを去っていたかもしれない。それだけに、本当に赤い糸の伝説を信じたくなった。
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