再会 Opus 5
それからしばらくして、俺たちはハンスの店を出た。
店を出る時に、ハンスにしては珍しく「明日は来るか?」と尋ねてきた。
「いつもの時間に来るから」と返事をすると、なぜか、ちょっと嬉しそうな表情を見せた。
陽子と俺は、俺の泊まっているホテルに向け歩き始めた。
外は、朝よりも冷え込み、厚い雲が出ていた。数時間後には、雪か霙でも降りそうな様子だ。俺が引く陽子のスーツケースは、静かな街に似合わない大音響を立てている。
「実は今日、ストラスブールに出掛けるつもりだったんだ。ホテルの人にもそう話して出掛けたから、陽子が一緒なのを見たら、きっと驚くだろうな」
女性を連れて行く俺は、満更でもない気分だ。
「ストラスブールに行くのを止めて、大丈夫なの? ホテルの予約とか、していないの?」
と、心配そうに尋ねてきた。
「ああ、気ままな一人旅で、何も予約なんかしていないから」
俺は首を横に振った。
「今日は、コーヒーを飲んで、出発しようとした矢先に、ハンスがピアノを弾かないかと誘ってきたんだ」
あのまま、ピアノを弾かないで外に出たら、俺は陽子と入れ替わるようにカイザースブルクを出ていったのだ。
「本当に、偶然だったのね」
陽子は俺の腕に、そっと手を回して、ぐっと引っ張った。
「ねえ、毎日、あのお店で、ピアノを弾いていたの?」
「いや、初めてさ。一ヶ月前に、ハンスの店に初めて行った時に『ピアノを弾かせて欲しい』と頼んで、今日の陽子のように、断られたんだ。といっても、俺の場合は『あなたは、プロだから』とは言われなかったけど」
「さっきのハンスの『プロフェッショナル』が、まだ私の体の中を木霊しているみたい。いつもは、自分がプロのピアニストだとそれほど意識しなかったけど、あらためて言われると、なんか、特別な意味があるように感じたわ」
陽子に話した時のハンスの言葉の力強さは、それまでとは全く別人のように、俺にも聞こえた。
ひょっとして、ハンスはプロのピアニストだったのか? 第一関節の先がないハンスの右手の人差し指を思うと、この考えは複雑になる。
「俺、ちゃんとしたピアノを弾くのは、七年ぶりだったんだ。そうしたら、陽子がやってきた」
カイザースブルクに陽子が来たのも信じられないが、たまたま弾いた俺のピアノの音に誘われて、陽子がハンスの店に来たとなると、まるで奇蹟だ。
「ピアノが、私たちを引き会わせてくれたのね。ピアノの神様が私たちを赤い糸で、しっかり結んでくれていたんだわ」
「ああ。でも、陽子がドイツに来る気にならなければ、逢えなかったんだよ。それに『ラ・カンパネラ』の演奏も、自信がないから止めようとしたら、陽子が励ましてくれたんだ」
「えっ 私が?」
陽子は、不思議そうに俺を見る。
「そう、陽子が……。昔、器楽棟の練習室で課題曲が弾けなくて悩んでいたら、『完璧な音楽なんて存在しない』って、陽子が励ましてくれた。ハンスに『ラ・カンパネラ』の楽譜を渡された時も、今の自分では弾けるかなと躊躇したけど、陽子のあの時の言葉を思い出したから演奏できたんだ」
今、こうやって会っている俺と陽子は、偶然の上に、偶然を幾重にも重ねていた。
「最初のカンパネラだって、そんな自信のない演奏には、聴こえなかったけど。でも、奇蹟なのかもしれない。私だって、ハンスが渡した楽譜が他の曲だったら、渉が演奏していても、きっと通り過ごしていたわ」
しんみりとした陽子の気持が、俺にも伝わってきた。




