再会 Opus 3
俺は、七年前に日本を出て、それから二年近くの間に、いくつもの国を訪れた。地球を半周して、安宿を探しに訪れたロンドンのヴィクトリア・ステーションで、見知らぬ東洋人が声を掛けてきた。
「Are you Chinese or Japanese?」
男に「why?」と訊くと、
「You are Chinese!」
その男は、俺を中国人と決めつけた。日本人だと言うと、笑った。
人懐っこい笑顔に、旅に疲れた俺は気が休まった。男が俺を中国人と思ったのは、たいていの日本人は、少しでも中国人かと疑われると、Japaneseとムキになる。それなのに俺が「why?」と冷静に訊いたからだと言う。
声を掛けてきた男は、藪木といい、ビデオカメラ一台で暮らすジャーナリストだ。
藪木は、俺を近くのパブに誘うと、とうてい美味いとは言い難いエールを奢ってくれ、「このエールは最高だ」と一気に飲み干した。だが、その時のエールは、貧しい旅ガラスをしていた俺でも、藪木のようには感じなかった。そんな様子の俺を見た藪木は、
「不味いと言うのだろう。日本からロンドンに来たり、ヨーロッパの他の国からイギリスに来ると、ビールだけではなく、食べ物が口に合わない者は、けっこう多いようだ。でも、このビールが凄く美味く感じるヨーロッパもあるんだ」
藪木は、彼の仕事の話をしてくれた。俺にとっては、こんな世界があるのかと思うほど、驚くような話の連続だった。
俺は俺で、自分の身の上話を軽くした。ちょうど、安ホテルを探して泊まり、日本人を見つけて、何か仕事にありつけないか尋ねるつもりでヴィクトリア・ステーションに来たことも……。ロンドンに来るまでも、いくつかの国で、何度か働いた。東京から持ってきた金は、大事に使いたかったからだ。バイトを見つけなければいけないが、ロンドンは旅行者が仕事にありつくには、難しい所だった。
そんな俺に「サラエボで、生きることを感じてみないか」と、藪木は誘ってきた。一九九二年の秋だった。
あの頃のサラエボは、一番ひどい戦場だった。空港は閉鎖され、わずか一年余りで死者の数は二十万人から三十万人、人口の半分の二百数十万人が家を失った。
一九八四年の冬季オリンピックに使われた屋外スケートリンクは墓場となり、多くの人が埋葬された。
「サラエボは、善悪など存在しない『人殺しのバザール』」とシニカルに言う奴がいたが、生と死が毎日、いつ果てるともなく延々と売買される場所だった。
最もひどかった戦争の嵐が過ぎ、戦場が落ち着き始めた頃、ブルーヘルメットの国連軍がやってきた。
国連軍が来て、戦争が終わると思ったが、平和は遠かった。終焉へと向かうはずの戦争が、長引くのだ。平和を維持するはずの国連軍が、サラエボでは戦争を維持するための軍隊にしか過ぎなかった。
藪木は「生きることを感じてみないか」と誘ったが、戦場にいると、生と死の垣根が低くなり、生きている感覚が失せてしまう。ジャーナリストでもない俺は、ただ一日を終え、食べて、寝るだけの世界だった。
嫌なら出ていけばよい。そもそも、異邦人の俺は、生き続けたいなら、サラエボから出れば良いだけだった。だが、生きる目的をなくしていたため、サラエボで十分だった。
死がそばにあっても、ピアノと離れて生きていけるなら、何処でも良かった。それなのに、俺の頭の中は、銃声を掻き消すように、あるはずのないピアノの音だけは、いつも高く鳴り響いていた。




