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ラ・カンパネラ  作者: Opus
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運命 Opus 7

 もう三〇時間以上、ずっとお風呂にも入っていなかった。風が冷たく、頬の感覚がない。ホテルを見つけて、荷物を置くだけのつもりでいたが、早く、部屋を使わせてもらおうと考えて歩いている時に、かすかにピアノの音が聴こえた。

 音のするほうに、耳を傾けた。

「『ラ・カンパネラ』だ!」

 それも、聴き覚えのある、すごく懐かしい音が、響いていた。

「渉? まさか……」

 思わず口にすると、釣られて自然と、歩くスピードが速まる。前から? 音が大きく聴こえる方角に向けて、急いだ。

「渉だ。渉に、違いない」

 気がついたら、スーツケースを置き、運河に沿って前方に向け、掛けていた。間違いなく、渉のピアノの音が、聴こえてくる。

「渉、渉……」

 ただ、ひたすら懐かしい名前を繰り返して呟きつつ、音がよく聴こえる辺りまで来た。運河の向こう側から、はっきりとあの音が聴こえてくる。

 だが、運河を渡ろうにも、右にも左にも橋が見当たらない。幅五メートルくらいしかないが、飛び越えられるわけではない。小さなラインの水を運ぶ川が、まるで大河のように感じる。

 どうしようと途方にくれていると、演奏が終わり、プツリと音が消えてしまった。

「ねえ、渉なら、もう一度、弾いて」

 私は願うように、運河の向こうを見た。だが、ピアノの音は、響いて来ない。

 とにかく、音が聞こえるほうへ。運河の反対側に行こうと、スーツケースを置いた場所まで戻った。

 バス停の前に、橋があったのを思い出した。

 スーツケースを手にして、再び石畳の道を音を立てて引き返し始めると、今度はショパンの『ノクターン 第三番ロ長調』が響いてきた。

 今度の音は、渉なのか、わかない。さっきの『ラ・カンパネラ』は、渉に違いないと思ったけど、この『ノクターン』は自信がない。

 とにかく、音が何も聴こえなくなったら、ショウかどうかも、何処にいるのかも全然わからなくなる。音から離れるのは嫌だが、橋を渡るために来た道を戻った。

「渉、渉なら待っていて……、今、行くから」

 何度も願いを込めて口に出して呟き、橋を渡り、ちょうど往復するような形で、音がする建物の間際まで戻って来た。

 ピアノは、ビアジョッキのある民家なのか、店なのかわからない家から響いていた。

 流れているのは、ショパンのワルツ第十四番だ。抑制の取れたピアノで、大人の響きがした。渉のピアノと似ているが、でも全然違った。

 やはり、そんなにうまく行くわけはなかった。

 直ぐに渉が見つかるなんて思ってもいなかったのに、「なーんだ!」と失望の言葉を呟いていた。

 期待し過ぎていた自分が馬鹿だったのだ。

 ピアノは、また『ラ・カンパネラ』に変わっている。さっきは、渉に違いないと感じた音だが、良く聴くとやはり違う。かなり年配の人が弾く、スケールが大きい、落ち着いた音が響いていた。

 渉のピアノと同じように、人を楽しくさせる音を持つが、でも違う。プロのピアニストとして十分に通じる、そんなレベルの演奏だ。運河の向こうで聴いた時は、渉に違いないと自信があったのに、よく聴くと、こんなにも違っていた。

 荷物を持って、ビアジョッキの店を背にし、教えられたホテルに向け歩き始めた。

 ピアノがまたショパンのノクターンに変わった。今度は、第六番だ。単調な旋律の曲だが、渉が好んでよく演奏した曲の一つだ。

 リストやショパンは、渉が好きな作曲家だった。

「一八三〇年代にヨーロッパで生まれていたら、リストやショパンを生で聴けたのに」

 渉から、何度か聞かされていた。レコードやCDのない時代のピアニストの音は、霞んでいるだけに、想像以上の綺麗な音を、いつも頭の中で響かせた。

「きっと渉ではない」ともう一度、否定する言葉を繰り返しながらも、聴こえてくる音に心惹かれ、店の前に立った。

 ノクターンを弾き終え、静かになるのを待ち、丸くなった木製の把手をゆっくり押した。

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