プロローグ
Opus 2
「ブラボー!」
カーテンコールに応えるため、舞台の中央に立った。三階席まであるホールはいっぱいで、どの顔も高揚し、手を叩き、私を見ている。
奥のほうで、立ち上がった人が、何か大きな声で叫んだ。拍手が邪魔をして、声は届かなかったが、それが何であるかは、容易に想像がつく。
誰もが、私が“あの曲”を弾くのを、望んでいる。
舞台の袖に下がったが、場内からの割れんばかりの拍手は鳴り止まない。さすがにクラシックの観客だけあって、ポップスのライブのような「アンコール!」の連呼はないが、拍手が一定のリズムに変わり、今も続いているのは、他のピアニストの場合とかなり異なっている。
アンコールのために用意した曲は、全て、弾き終えていた。仕方なく、今晩八度目か九度目になるカーテンコールに応え、ステージの前に立った。
赤い薔薇の花束を持った人が、近寄ってくる。最近、急に増えて来た二〇代の女性ファンだ。花束を受け取る時に「とっても、良かったです。次は『月光』を聴かせてください!」と、強く握手をしてきた。
久木田陽子=『月光』と思われるのが嫌で、今日の演奏曲目から除き、アンコールからも敢えて外した。
決して『月光』が嫌いなわけではない。ただ、一つの曲だけで、ピアニストとしての自分を語られたくはなかった。
テレビドラマの挿入歌に『月光』を用いる話があるとレコード会社から連絡があったのは、ちょうど一年前、銀杏の葉が色づき始めた頃だった。まさか、これほどヒットして、一躍、自分が“時の人”になるとは夢にも思わなかった。
今年の一月に、月曜九時という人気の時間帯にドラマ『夜のソナタ』がオンエアーされた。ドラマ自体は、人気の若手ミュージシャンと、父親が歌舞伎役者の女優が出るラブ・ロマンスで、売れっ子脚本家の台本の良さもあって、平均視聴率は二〇パーセントを軽く超えていた。
ドラマの中で私が弾く『月光』が使われ、まずCDの売り上げが伸びた。今まで、小さなホールでもチケットが捌けなかったソロ・コンサートが、発売即日にソールド・アウトしたと聞いたのは、ドラマの終盤の頃だ。
レコード会社は、二年前にスタジオ録音した『悲愴』『熱情』と一緒になった『月光』が入った、『ベートーヴェン三大ソナタ集』を新しくプレスし、その際に『久木田陽子の月光』とタイトルを変えると伝えてきた。
テレビで得た人気など一過性のものであるのはわかっているため、強く断った。だが、そんなことは関係なく、言葉巧みに押し切られていた。
ドラマの最終回の頃には、《『月光』の久木田陽子》と呼ばれるほど、『月光』は私の代表作になっていた。
ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第十四番 嬰ハ短調 幻想曲風ソナタ 作品二七の二》は『月光』と呼ばれ、世界中で親しまれている。『悲愴』『熱情』を含めた三大ソナタの一つとして、多くのピアニストがCD録音しているのは、三曲を合わせても一時間を少し上回る程度の量だからだろう。
この曲は、曲ができた時から『月光』と呼ばれたわけではない。当初は『夜のソナタ』と呼ばれたという。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十四番を、同名のドラマの挿入歌に用いた人は、きっとクラシックに造詣が深いのだろう。
客席は、誰一人として席を立たない。私が『月光』を弾くのを、待っている、いや、きっと弾くと確信しているから、帰ろうとしないのだ。『月光』は、全てを弾いても、第三楽章まで十三分程度の小作品だ。今から、全楽章の演奏もできる。
だが、ここは耳が肥えた聴衆が多いヨーロッパではない。きっといつものように、第一楽章を弾くだけで満足して、帰ってくれるはずだ。
第一楽章アダージョ・ソステヌート――六分余りの曲は、ベートーヴェンの残したソナタの中では決して難しいものではない。
それどころか、ベートーヴェンの全ソナタの中で、技術面でこれ以下の楽章はないとまで言い切れる。シャープ四つまでの曲が弾ける技術を身につけた人なら、初見でもまず演奏できるはずだ。
ただ、弾き終えられても、第一楽章をむらなく弾くのは、誰もができるわけではない。第一楽章を完璧に弾く難しさは、一年前よりも弾き慣れた今のほうが、強く感じる。