運命 Opus 4
東都芸大の器楽棟校舎には、同じドアが並んだ一角がある。ピアノ科のレッスン室の前に並ぶ練習室だ。
大学の一年生の時だった。学期末の課題曲のレッスンを終えて、練習室を出たときに、気になる音が響いてきた。
ショパンのエチュードだが、他とは違う、透明感のある音が虹色に輝きながら、部屋から洩れていた。荒削りで、テクニックの点では、少し問題があるかも知れないが、なぜかわくわくとさせるピアノに心躍らされ、足を止めずにはいられなかった。
何度か、それからも練習室やレッスン室から響くあの音を聴いた。誰が弾くピアノか気になりながら、無理に気にしないように努めていた。洩れてくるピアノの音が、一ヶ月、二ヶ月と、時間が経るたびにテクニックが増して行くと、音の持ち主を確かめたくなった。
レッスン室から出てきた男性を見た時、一瞬の驚きは、たちまち不安に変わった。
「神崎君!」
ピアノを弾いているのは、語学の授業で親しくなった、同じ一年生の神崎渉だ。デビューを終えた四年生や、大学院生のピアノだと考えていたのに、その音の持ち主が、一緒に机を並べていた渉だと知った時は、ショックだった。
それから時々、練習室で弾く渉のピアノを間近で聴かせてもらった。
東都芸大に入るまでは、北海道にいた渉は、ピアノを叩く時に、指を丸くする癖があった。渉が今まで学んだピアノ教師は、指を伸ばさないで弾いたという。
大学に入ってからは、渉は指を伸ばして弾くように努めていたが、いつまで経っても、幼いときの癖がなおらないと嘆いていた。私には、渉が語る指の悩みなど、悩みには入らなかった。渉の演奏を聴くたびに、自分が今までやってきた音楽を、渉の才能の前に否定されている気がしてならなかった。
ピアノ科の他の学生と同じように、子供の頃から私は、同世代の身の回りの誰よりも、ピアノがうまかった。ピアノが人よりうまく弾けるのが、当たり前でいた。
大学に進学すれば、今までとは違う状況になるのは予想していたが、それさえもどうにかなると信じていた。奢ることなく、努力さえすれば、どんな苦境も変えられるは、幼いときからピアノを習って得た、私の信念でもあった。
だが、渉の演奏を聴くたびに、自分の考えが甘いと思い知らされ、どうにもならない壁があるのを感じた。
大学の二年生になる頃、
「渉の演奏って、他の人とは違う。聴いている人を楽しくさせる何かがある」と思い切って渉に伝えた。
話せば渉との差異を認めてしまうため、口にしたくはなかったが、自分の内にある渉の演奏に対する正直な評価だ。
「そんなものより、俺は、陽子の正確なタッチが羨ましいよ」
私の言葉など全く気にせず、人を食ったように、渉は言葉を返した。努力をしなくても、人を楽しませる音を持つ彼は、自分だけの宝物に気づいていないのだろう。正確なタッチなど、私のような平凡な人間でも、努力次第でどうにでもなるのだ。
私は、あの日、もう渉のピアノに耳を傾けるのを止めることに決めた。渉と同じピアノは弾けなくて当たり前。私は、自分のいい点を延ばし、濁りない研ぎ澄まされた音の完璧なピアノを弾こうと決心したのだ。