運命 Opus 1
「久木田様、席は、通路側でよろしかったでしょうか?」
通常の搭乗手続きが終わり、スーツケースを預けると、航空会社のカウンターの女性がラフに話し掛けてきた。
「さっき、ミュージシャンの○○○が、ここを通ったんですよ。お客様と、同じロンドン便です」
興奮して話す日本語の発音は、他の国の人が話す言葉に近いもので、ミュージシャンの名前は発音が良過ぎてなのか、さっぱり聞き取れなかった。きっと、海外生活が長いか、外国で生まれたのだろう。話し方まで、普段目にする日本人とは違う。
私には彼女が話した、外国人の、おそらくは有名人の名前が誰なのか、聞き取れなかった。
最近は、名前を告げると、私をピアニストの久木田陽子だと知っている人もいるのだが、こうも真逆の反応を見せられると、ちょっと肩すかしに感じる。月光にまつわる喧騒に嫌気がさしていたはずなのに、何を期待していたのだろうかと、一方で反省する自分もいるのだが。
三週間前、ライン川の綺麗な風景写真が写った葉書が送られて来た。普段どおり、ただファンレターだと思って、なんとなく手に取った。
「陽子、お元気ですか? サラエボを離れ、ドイツの小さな街に来た」と見覚えのある文字が、そこには書かれていた。送り主は、七年前に突然いなくなった、神崎渉からだ。
驚いた! 渉が、無事だと知って、直ぐに読み終えてしまう短い文字なのに、何度も繰り返しては読み、最後はなぜか大きな声で笑っていた。その後、冷静になった私は、今日まで、連絡がなかった彼を責め、そしてじーんと涙があふれだした。
以前は、どんなに遅くても半年と途切れることはなかったのに、この二年間は全くの音信不通だった。どうしているか気になり、確かめたくても、いつも、住所が書いていないものばかりなので、私からは知るすべもなく、もどかしい思いがつのるばかりだ。
渉の安否が気になったのは、返事ができないだけではなかった。他の所ならまだしも、渉がいるのが、内戦が続くユーゴスラビアのサラエボだけに、どうかしたのではないかと、心配? いや不安だったのだ。
そんな渉からの葉書は《ドイツの小さな街にいる》と、いつも通りの殺風景な文章が書いてあるだけだった。怪我をしたとも記されていないのは、無事だからだと考えながらも、長くいたはずのサラエボを去り、ドイツにいる渉が、気になった。
無性に会いたく、ただじっとしているのが嫌になり、旅を決意するまでに、一週間とかからなかった。
十一月末のコンサートの後、次のコンサートまで二週間あった。どこかに出掛けるなら、この時しかない、とこまごまとした仕事を片づけ始めた。
『月光』の爆発的なヒットのおかげで、今年は多くの仕事が入り、年末までに四十回くらいのコンサートを行う。
どこであっても、コンサートを行う場合は、前日には必ずコンサート会場でリハーサルをした。また、地方や都内であっても、夜のコンサートの場合は、コンサート終了後は近くのホテルに泊まり、体を休めた。そのため、年間の四分の一近くは、演奏旅行に出掛けている。
私はコンサート終了後に、できるだけ早くパリかフランクフルトに着けるチケットを求めた。突然の思いつきであったため、航空券は、一週間前になると、オフシーズンであっても、どの航空会社もいっぱいだった。
どうにか手に入ったのが、イギリスの航空会社だ。ロンドンのヒースロー経由で、パリのシャルル・ド・ゴールに着く便は、一手間かかるが、とにかくチケットを確実に手にしたいので、この飛行機にした。
旅の目的地に、はっきりした目算があるわけではない。頼りになるのは、この一枚のライン川の写真が載った葉書の文章と、こすれてしまい端が読みにくくなった消印の《Kaisers…》だった。渉に会えるか、はなはだ不安なものを感じながらの旅であったが、ただじっと今までのように日本で待っているよりは良かった。
飛行機は定刻を少し遅れた十二時五分に成田を離陸した。ヒースローに着くのは、現地時間の十五時五分を予定している旨の機内アナウンスがあった。
気流の具合で、いつまで経っても座席のベルト着用サインが消えない。隣席は体の大きな白人男性で、左は通路だ。空港で何か本を買おうと、小さな本屋に寄ったが、興奮している自分を抑えられそうな本は見つからなかった。
無りょうを慰めようとヘッドホンを耳に当てると、スメタナの交響詩モルダウの『我が祖国』が流れていた。
聴力を失った作曲家といえば、ベートーヴェンが有名だが、スメタナもまた、聴力を失った作曲家だ。ベートーヴェンとは違い、突発性の難聴で、突然、耳が不自由になった。交響詩モルダウは、そんなスメタナの、聴力を失ってからの作品だ。
チェコを流れる、大河を謡ったスメタナの曲は、せせらぎのような川がやがて大河となって流れる様に、雄大なヨーロッパの平原や、うねるような大地を感じる。
これから私も、ヨーロッパに大地に立ち、大河の一つ、ライン川沿いの街を彷徨ってみるつもりだ。