もう一つのアンコール Opus 6
もし、俺に東洋の神がついているなら、それはきっと陽子だろう。
俺はハンスに、陽子の話をした。
「サラエボでショウを守ってくれたのは、きっとその黒い瞳の女神だったのだろう」
ハンスは、陽子を女神に喩えた。
「ああ、そうかもしれない。ハンスに見せてあげたい。真っ白い肌に、とびっきりの真っ黒な髪と瞳の美人を……」
今度は、俺は自然に微笑むことができた。
一ヶ月前、カイザースブルクに着いた時に、俺は陽子に葉書を送った。
どこの街だとも書かずに「お元気ですか? サラエボを離れ、ドイツの小さな街に来た」とだけ書いた葉書を投函したのだ。
あの葉書に、住所を書いておけば、何か返事を陽子は返してくれただろう。
いや、そうとも限らない。もう、二十七歳。誰かと結婚しているかもしれない。俺からの便りに微笑むだけかもしれないが、それでもいいから、せめて今この地で泊まっているホテルの名前と場所だけでも書けばよかったと、悔やんだ。
俺は気分を変えようと、ショパンのワルツを弾いた。
このベヒスタインで弾くショパンは、ヨーロッパとショパンが生きていた十九世紀が容易に表せる気がする。きっと学生時代と比べたなら、技術は別にして、音楽と曲に対する解釈が、旅に出る前より格段に進んだのだ。
音に酔っている俺に、ハンスが話し掛けてきた。
「ショウ、音楽は怖いものだ。特にピアニストにとってのピアノは……」
ハンスの言葉が、ワルツの三拍子に乗って心地よく聞こえる。
「……ピアノは、鏡だ。画家が描く絵と同じように、どんな時もピアニストの心を表す」
確かに、ピアノは心を表す。画家の描く絵の深さのようなものを、再生芸術であるはずのピアノも持つのだ。
「ショウ、もう一度、さっきの曲を弾いてくれないか。『ラ・カンパネラ』を」
「『ラ・カンパネラ』なら、俺でなくても……」とハンスの言葉に、何気なく話しかけて、口を噤んだ。
俺がこの街に来た一ヶ月前、ハンスの店の前を初めて通った時に『ラ・カンパネラ』が店の中から響いていたからだ。
ハンスのアンコールに応え、再び『ラ・カンパネラ』を弾いた。ピアノの腕も気持も自信までも、さっきより増した気がした。大胆な気持になり、指が軽やかに動いた。気になっていた嬰ニ音も思った音が出た。
引き終えた時に、自分の頬が高揚しているのがわかった。ピアノが上手く弾けた時に起こる体の反応だ。
ピアノをまたノクターンに代えた。第六番だ。単調な旋律をゆっくり繰り返すと、今度はピアノが熱くなった体を鎮めてくれる。ピアノに語りかけると、ピアノが応えてくれた。
ワイングラスを手にしたハンスが、立ち上がると横に来た。
「ショウ、こんなに素敵な音があるピアノを久しぶりに聴いた。音があるピアノは、ちょうど二十年前が最後だ。ただし、二十年前に聴いた音は、憎しみに満ちていたが……」
最後は力のない小さな声になっていた。俺の音が、ハンスに何か言い難い過去を思い出させたようだ。