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ラ・カンパネラ  作者: Opus
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もう一つのアンコール Opus 3

 叩いた音が、返ってくる。一音一音、心に迫って来た。ピアノに触れると、ピアノに関する想い出が溢れてくる。ピアノが愛おしい。

 幼い頃から、俺の側には、いつもピアノがあった。そのピアノが、この七年間、手の届かない遠くに行ってしまっていた。

 一度は、もう絶対に触れないと誓ったはずの鍵盤の、生の感触がたまらない。手を広げて、できるものなら、目の前のピアノを、一度に全てを思い切り強く抱きしめたくなった。

 本物の鍵盤の重さは、やはり何にも代え難く、心地よい。

 俺はベヒスタインを、気持を込めて端から端まで八十八鍵を鼓いてみた。どれも調律のしっかりした音が響く。

 ただ一箇所、一番高い黒鍵(B)だけが、はっきり音を響かせない。ベヒスタインの特徴である、二本ある弦の一本が折れているようで、完全な音を出さない。

 何度か鼓いてみて、ハンスを見る。ハンスはまた椅子に座って、ただ目を塞ぎ、何か考え事をしているようだ。

 きっと、俺がわざわざ指摘しなくても、弦が折れているのは知っているだろう。

 気分を変え、再びピアノを弾き始めた。

「ショウ、ユーゴスラビアにいたそうだが、どれくらいいたのだ?」

 すると、Bを繰り返し叩いたのには気づかなかったハンスが、時間も経っていないのに、急に声を掛けてきた。

「九十二年だから、五年間かな」

「どうだった」

「どうだったって?」

 ハンスが、何を訊いているのか、わからない。

「どんな所だった?」

「地獄。平和な生活に戻ると、信じられない。二度と戻りたくなくなる世界さ。今は戦争をやる人間の気が知れない。そんな気分だ」

 話した後、気持ち良くなるほど、きっぱりと戦場での生活を総括した。

《戦争をやる人間の気が知れない》――戦場で死を間近で見た人間しか、語る資格がない言葉だと、いつも思っていた。

 きっと第二次大戦を経験しているはずのハンスなら、わかってくれるだろう。ところが、ハンスが返してきた言葉は、意外なものだった。

「戦争をやる人間の気が知れない…、か。戦争が終わった時には誰もが口にする言葉だ。昔から、戦争が終わった後は、二度と戦争が起こらないように工夫をする。それでも、戦争はなくならない。なーに、次の戦争のルール作りをしていただけで、時が経てば、人は必ず愚かな過ちを、また繰り返す」

 ハンスはいつになく冷めた調子で話す。聞き飽きた言葉は、もういらないと表していた。やはり陸続きのヨーロッパでは、戦争に対する感覚は、日本人の俺には理解できないのか。

 俺は、ハンスの言葉を無視したわけではなく、かといって返事を返すわけでもなく、そのままピアノを弾き続けた。心の動揺とは別に、ただ、指だけは楽しく軽快に動いていた。

「ショウ」とハンスがまた話し掛けてくる。ハンスの顔を見て、俺が、ピアノを弾くのを止めようとしたら「続けて」と手を動かして示した。

「ショウ、いいピアノだ。どの曲にも音がある……」

 ワインが回ったように、うっとりとした顔で、ハンスは満足げだ。

(サウンド)?」

 突然のハンスの言葉に、俺は少しリズムを崩しながら尋ねた。自分のミスを隠すように笑って、手を止め今度は「(マインド)?」と訊き直した。ハンスは「音!」と笑った。

「音だ。ショウが弾く音楽は、ピアニストにとって、最も大切な音がある。聴衆に無限の楽しみを与えるような音だ。ただ、その音は、きっと何年もピアノと遠ざかっていたのだろう?」

 ハンスの言葉に、俺はビクッとした。ハンスの言うとおりで、ピアノと離れてから七年が経っていた。

 ピアノを学ぶものにとって、一日一日、音が変わる二十代の最も大切な時期を、俺はピアノと離れて過ごしていた。

 あの時、もし、大学を止めずに、ずっとピアノを弾き続けていたら、今はどんなピアノが弾けただろう。

 ハンスに《音がある!》と褒められただけに、無駄に過ごしてしまった、この七年を惜しく思った。

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