もう一つのアンコール Opus 1
「ダンケ・シェーン」
『ラ・カンパネラ』を弾き終えた俺に向かって、笑顔を見せ、ハンスは大きく拍手をした。
ポンッと軽く音を立て、アルザスのリースリング種のワインが開いた。
グラスは俺の分まで用意され、白ワインを注いでくれた。薄いクリスタル・グラスの中は、綺麗な黄金色をしている。
「ショウ。今の素敵なピアノのお礼に、取っておきのワインを開けた。このワインのヴィンテージは、ショウが生まれたくらいの年だろう」
少し色褪せたワインのラベルには、一九七〇とAlsaceの文字が目についた。確かに一九七〇年が俺が生まれた年だ。二十七歳になるが、どこにいても日本人であるためか、実際より若く見られる俺の歳を、ハンスはピタリと当てた。
注がれたワインは、二十七年の歳月が経っているのだ。
俺は、ハンスが注いでくれたワインが、無性に飲みたくなった。だが、ストラスブールに出かけるのに、口をつけるのは、やはり控えたほうが良いと制する気持が湧いた。
外に出かける時には、絶対にアルコールを口にしない。サラエボで最初に教えられた忠告の一つだ。この忠告も、最後までずっと守り通していた。
サラエボで、酒を飲んで注意力が散漫になって失うものは、時には命だった。
「死を怖れていない」「生きたいわけでもない」と口にしていたが、身を守るための、いくつかの教えを守っていたのは、やはり生への執着がどこか潜んでいたからだろう。
《生きることを諦めた人間は、生きられない》
これも戦場で得た教訓だった。
俺はピアノから離れ、ハンスが注いでくれたワイングラスに、手を伸ばした。よく冷えた黄金色の液体が、ゆっくりとグラスの中で揺れている。
時の経過と共に、粘りを浴びたのだろう。軽くグラスを回し、ハンスが入れてくれたワインを口に含んだ。
これ以上ないほどの甘い香の液体が、粘膜を覆い始める。喉の奥から鼻腔へとバニラや、薔薇やジャスミンの香が抜けていった。
凝縮された甘さは、しつこいわけではない。程好いバランスが心地よく、今まで俺が飲んだワインとは、同じ酒なのかと疑うほど違いがあった。
ハンスは、自分のグラスに二杯目のワインを注いだ。
俺は再びピアノを前にし、椅子に座った。ショパンの『ノクターン 第三番ロ長調』を弾き始めた。
すると、ハンスも俺の演奏に合わせて、軽く指を動かしている。今まで見て見ぬ振りをしていた、ハンスの第一関節よりも先の部分が欠けた、右手の人差し指が目に付いた。
俺の腕は軽やかに舞い、ベヒスタインの音がハンスの店を満たした。