第一話 飛脚飯
店が傾き始めた人間には、共通する癖がある。
階段を上るのが、ひどく遅くなるのだ。
新宿二丁目。朝から居座り続けた湿気が、街の隅々にまで張り付いている。風も生ぬるく、遠くで鳴る救急車のサイレンさえ、ゆっくりと這ってくるようだった。新宿通りから仲通りを入りすぐ裏手の雑居ビル三階、一人の男がその風を感じながら卵サンドを頬張っていた。淡い金色の髪、銀縁の眼鏡の奥に薄い青色の瞳。主であるジェームズ・オールドマンは、ひどく満足そうな顔をしていた。
日本の卵サンドは偉大だ、とジェームズは思う。パンはしっとりと柔らかく、卵は濃厚で甘い。しかもコンビニで買える。そんなことを考えながら一階から聞こえてくる足音に耳を澄ませていた。
ゆっくり、重く。一段ずつ確かめるような足音だった。二口目を頬張り、コーヒーを一口飲んだところで、その足音が三階で止まった。
ドアの前でためらっている。
帰ろうか、と迷っている。そんな沈黙だった。
この店に来る人間は二種類しかいない。人生が上手くいっている人間と、上手くいかなくなった人間だ。そしてここへ来る九割九分は、後者だった。
ジェームズは卵サンドを机に置き、窓の外へ目をやった。特に理由はない。ただの習慣だ。人の気配がすると、反射的に別の方向を向く。長年の癖が、まだ抜けていなかった。
やがてドアが開くと、入ってきた男は疲れた顔をしていた。四十代半ば。白いワイシャツの襟元は少しくたびれ、目の下には薄い隈がある。室内を見渡し、戸惑ったような顔をした。無理もない。相談所らしいものは何もない。本棚、古い机、観葉植物、そして卵サンドを食べている外国人。それだけだ。
「すみません……ここ、アイディア本舗で合ってますか」
ジェームズは頷いた。「どうぞ」と椅子を示し、机の引き出しから名刺を一枚取り出した。「ジェームズ・オールドマンです」
男はハッとしたように頭を下げた。「長野です。長野誠一と申します」
誠一は受け取った名刺の表を見た。会社名と名前が書いてあり、裏を返すと、一言だけあった。
『差し上げます アイディア本舗なので』
誠一はしばらく名刺を見つめた。
「それで……店の売上ですか。それとも人間関係ですか」
誠一の顔が固まった。
「……なんで」
「だいたいどちらかなので」
誠一はしばらくジェームズを見ていた。それから観念したように腰を下ろす。膝の上で両手を握りしめながら、「四谷で定食屋をやっています」と言った。節くれ立った指が、白くなるほど力を込めている。毎日包丁を握り、重い鍋を持ち、熱い油を扱ってきた厚い手だった。
一度、言葉が止まる。
「親父から継いだ店なんです」
ジェームズは静かに頷いた。
手の節くれ方と靴底の減り方から、飲食業だろうとは見当をつけていた。定食屋というのも、おそらく外れていない。だが今は言わない。それを口にするより、誠一が次に何を言うかを聞く方が、ずっと大事だった。
今日は店の相談ではない。父親の相談だ。そしてたぶん——本人は、まだそのことに気づいていない。
「長野屋という店です……創業して五十年近くになります。父親の代から続いてきたのですが……客が、減ってしまったんです」
ジェームズは黙って頷いた。驚きもしない。慰めもしない。ただ続きを待っている。誠一は少しだけ肩の力が抜けたように見えた。変に励まされるより、その方がありがたかったのだろう。
「五十年続いているなら、大した店じゃないですか」
「その割には……」と言いかけて、誠一は苦笑した。「いや、そうですね。飲食店が十年続けば立派だって言いますし」
だが、と続ける。
「客が減った理由に、心当たりはありますか」
誠一は首を横に振り、視線を落とした。「ありません。というか……分かりません」しばらく沈黙が続いた。それからぽつりと、言葉が漏れた。「親父がすごかったんです」
ジェームズは何も言わない。だから誠一は続けてしまう。
「商店街の人も常連さんも、みんな親父が好きでした。店に来ると親父と話して帰るんです。飯を食いに来てるのか、親父に会いに来てるのか分からないくらいで」少し笑う。だが、その笑顔は長くは続かなかった。「私も料理は教わりました。味も変えてません。素材だって前より良いものを使っています。値段もほとんど変えてない」気づけば言い訳のようになっていた。「やれることはやってるつもりなんです」
最後の一言は、誰かに認めてほしい子供のような響きを帯びていた。
「三年前に継ぎました。脳卒中で親父が倒れて、長時間立てなくなったんです」
窓の外では誰かが笑っている。遠くで工事の音も聞こえる。だがこの部屋だけ、別の時間が流れているようだった。
ジェームズはしばらく考えるように窓の外を眺めた。やがて立ち上がり、机の上の卵サンドを冷蔵庫にしまった。
「店を見せてください」
「店を? 今日は定休日で……」
「その方が都合がいい」ジェームズはドアへ向かった。「話だけでは分からないことがあります。お店は、店主が思っているより饒舌なんです」
*
二人はアイディア本舗を出た。
階段を下りる途中、店の前を掃いていた小鈴ママが顔を上げた。金髪のベリーショートは寝癖のようにあちこち跳ねていた。
「あらジェームズちゃん」
そう呼んでから、隣の誠一へ視線を移す。ママの目が一瞬だけ細くなった。誠一はそれに気づかないふりをしたが、首の後ろがわずかに熱くなるのを感じた。初対面の人間に、自分の疲れを見透かされた時の感覚だった。
「今度はどんな厄介ごと?」
「ママ、人聞きの悪いこと言わないでよ。ちょっと四谷まで散歩だよ」
ジェームズがそう答えると、ママは誠一をちらりと見た。「あんまりいじめちゃ駄目よ」
誠一は苦笑した。いじめられているのか助けられているのか、まだよく分からなかった。
ママは声を上げて笑った。
午後一時を回っていた。新宿通りへ出ると、人の流れが一気に増える。スーツの会社員、買い物帰りの主婦、外国人観光客。タクシーとバスが信号待ちをしている。東京は平日の昼間でも忙しい。
しばらく歩いてからジェームズが聞いた。
「お父様はまだご存命ですか」
「ええ。今は家でのんびりしてます」
「店には?」
「ほとんど来ません」
信号待ちの間、言葉が途切れた。向こう側の横断歩道を眺めながらジェームズは言った。
「来てほしいですか」
「分かりません」しばらくして口を開く。「来たら来たで緊張しますし。でも、来ないと気になります」
ジェームズはそれ以上聞かなかった。
四谷四丁目の交差点を過ぎると街の表情が変わる。新宿通りからどの路地にでも昭和の匂いが残っている。四谷三丁目を目前にしたところで、誠一が細い道へ誘導し、さらに曲がったところで、足を止めた。
「ここです」
長野屋は、繁華街を避けた路地の途中にひっそりとあった。年季の入った「長野屋」の青い暖簾。入口脇のショーケースには、色褪せた食品サンプルが並んでいる。サバ塩焼き定食。とんかつ定食。生姜焼き定食。流行りの店でも、映える店でもない。だが不思議と目を引いた。五十年という時間が、壁や柱にそのまま染み込んでいるようだった。
誠一が戸を引く。ガラガラ、と鳴った。
店内へ足を踏み入れた瞬間、ジェームズはわずかに鼻を動かした。長年使われた木の匂い。洗剤の残り香。そしてその奥に、微かに発酵したような香りが混じっている。味噌だろうか。懐かしい、というより、どこかで嗅いだことがあるような気がする匂いだった。
ジェームズはすぐには座らなかった。壁のメニューを見る。年季の入ったカウンターを見る。厨房を見る。入口脇に飾られた古い写真を見る。白衣姿の男性が笑っていた。
「お父様ですか」
「若い頃の親父です」
写真の中の男は、店主というより祭りの世話役のような顔をしていた。この笑顔なら、人が集まってくるだろうと思わせる顔だった。
「料理人というより、人が好きな人でした」
誠一がそう言った。その一言だけで十分だった。
「何か食べられますか」
「えっ……定休日なんで」
「知っています」
「うーん……仕込みの材料が少ししかないですが」
「それで構いません。客にならないと分からないことがありますから」
誠一は観念したように苦笑した。「そしたら、とんかつの材料があるんですが……」
「いいですね。それをください」まるで最初から決めていたような返事だった。
誠一がエプロンを腰に巻き、手を洗う。その動作には迷いがなかった。相談所で見せていた頼りなさが、少しずつ影を潜めていく。三日ぶりに、誰かのために包丁を握ろうとしている男の背中だった。
席から眺めていたジェームズは、小さく目を細めた。
冷蔵庫を開ける音。豚ロースを取り出す気配。キャベツを刻む包丁の音が、静かな店内へ規則正しく響いていく。一つひとつの動作に、長年の仕事が染み込んでいた。先ほどまで、自信を失った男に見えていた。だが包丁を握ると違う。厨房に立つと違う。そこには、職人の背中があった。
やがて油の中へ豚肉が入り、静かな店内に心地よい音が広がった。誠一が味噌汁の鍋に火を入れる。蓋を開けた瞬間、ふわりと香りが立ち上る。
ジェームズは無意識に顔を上げた。
しばらくして、とんかつ定食が運ばれてくる。艶のあるご飯。きつね色のとんかつ。山のように盛られた千切りキャベツ。漬物。そして味噌汁。
ジェームズは箸を取った。とんかつは旨かった。衣は軽く、肉も柔らかい。ご飯との相性もいい。定食として十分に完成している。だが、気になったのは味噌汁だった。
椀を手に取り、一口飲む。そのまま二口目を飲む。そして静かに椀を置いた。
「長野さん」
「はい」
「この味噌汁ですが」
誠一の表情がわずかに強張る。
「とても好きな味です」
誠一は少し意外そうな顔をした。「ありがとうございます」
「味噌はどこのものですか」
「売ってないんですよ」誠一が笑った。「妻の手作りです」
そう言って厨房から保存容器を持ってくる。蓋を開けると、味噌の香りがさらに広がった。
「奥様が?」
「はい。妻の美紀は発酵食品が好きなんです。味噌も作るし、糠漬けも作るし、甘酒も作ります」
ジェームズは味噌を眺めながら、店内を見回した。味は悪くない。むしろ良い。清潔感もある。手抜きをしているようには見えない。それなのに客が減る。どこかに、まだ見えていないものがある。
「この店には、客が減る理由よりも、客が来る理由の方が多く見えます」
「俺もそう思ってたんですけどね」誠一は苦笑した。
「だから、まだ何かを見落としています。少し歩きましょう」
「歩く?」
「答えが外に落ちていることもありますから」
*
午後の日差しは少し傾き始めていた。店を出ると、路地には人影がほとんどない。昼営業を終えた店の裏口からは洗い物の音が聞こえ、遠くでは配送トラックのエンジン音が響いている。
ジェームズは何も言わずに歩き出した。相談者を置いていくわけではないが、隣を歩くこともしない。少し前を歩きながら街の景色を眺めているようで、その実、頭の中では別のことを組み立てている。誠一は黙ってその後をついていった。
しばらく進んだところで、ジェームズが足を止めた。道路脇の古い案内板を見ている。
「この辺りは昔から商店街だったんですか」
「さあ……」誠一も案内板へ目を向ける。普段は気にも留めないものだった。「ああ」と思い出したように言った。「祖父から聞いたことがあります。この辺り、昔は飛脚が通っていたらしいです」
「ヒキャク?」
「江戸時代の配達人みたいなものです。手紙とか荷物とかを運ぶ」
ジェームズは興味深そうに案内板を見つめ、「走る仕事ですか」と呟いた。そのまま黙る。だがその横顔は、何かを組み立てているようにも見えた。
*
店へ戻ると、誠一が麦茶を用意した。グラスの表面に浮いた水滴が、ゆっくりと机を濡らしていく。
「お父様はどんな人でしたか」
意外な質問だった。経営の話になると思っていたのだろう、誠一は少し間を置いた。
「よく喋る人ではありませんでした。でも、人に好かれるんです。常連さんのことを何年も覚えていて。息子さんの受験とか、孫が生まれたとか。そういう話をちゃんと覚えてる。だからみんな親父に会いに来るんです」
そこで誠一は言葉を止めた。自分で気づいたのだ。また父親の話をしている。
「あなたは何を守りたいんですか」
誠一は答えられなかった。売上だろうか。店だろうか。常連客だろうか。どれも違う気がする。
「親父の店です」ようやく口を開いた。絞り出すような声だった。「潰したくないんです」
窓の外を配送トラックが通り過ぎる。その音が遠ざかるまで、誰も喋らなかった。
「少し失礼なことを言います」
「今さらですか」誠一が苦笑する。ジェームズも笑った。
「あなたは健一さんになろうとしている。料理ではなく、人として」
誠一の表情が固まった。
「健一さんは一人しかいません」ジェームズは店内を見回した。古い写真。厨房。味噌汁の鍋。そして長野屋。「でも、長野誠一も一人しかいない」
誠一は視線を落とした。反論が浮かばない。図星だったからだ。
「じゃあ、どうすればいいんですか」その声には疲れが滲んでいた。「親父みたいにならなきゃ駄目だと思ってました」
ジェームズは首を横に振った。
「今日、私は味噌汁を飲みました。あれは健一さんの味ですか」
「違います」
「奥様の味ですね」
誠一は黙る。
「飛脚の話も聞きました」ジェームズは窓の外へ目を向けた。「五十年前にはなかった価値が、今の長野屋にはあります」
誠一の目が、少しずつ変わっていく。
「もし飛脚が今も走っていたら、どんな定食を食べたいと思いますか」
「体に良いものですかね」誠一は少し考えた。「もち麦とか」
「他には?」
「糠漬けとか」
言った瞬間だった。二人の目が合う。
「名前もあります」
ジェームズは窓の外の道を見た。かつて飛脚が走った道。今は配送車や営業車が行き交う道。時代は変わった。だが、体を使って働く人間は今もここにいる。
「飛脚飯」
誠一はその言葉を繰り返した。「飛脚飯……」
不思議な名前だった。だが妙に耳に残る。昔からそこにあった名前のように、長野屋の空気に馴染んだ。
そして久しぶりだった。長野屋の未来を想像した時、不安より先に期待が浮かんだのは。
窓の外では、夕方へ向かう街がゆっくりと動き始めている。配送トラックが通り過ぎ、自転車に乗った配達員が路地を駆け抜けていった。その後ろ姿を眺めながら、誠一はもう一度小さく呟いた。
「飛脚飯か……」
悪くない。いや、むしろ——妙にしっくりきた。
*
空が茜色に染まり始めていた頃、ジェームズは新宿二丁目へ戻ってきた。
雑居ビルの前まで来ると、一階のオカマバーでは、小鈴ママが開店準備をしていた。脚立に乗って看板を出している。
「あら、お帰り。どうだった?」
「いい店でしたよ」ジェームズは答えた。「味噌汁が絶品でした」
「あら、それは良かったじゃない」ママがニヤリと笑う。
ジェームズはポケットに手を入れたまま言った。「ママ、いつものお願いを」
ママは一瞬だけ目を細めた。それから大きく頷く。「任せなさい」
*
翌日から、二丁目では奇妙な現象が起きていた。
「四谷に面白い定食屋があるのよ」
「味噌が手作りなんですって」
「糠漬けも美味しいらしいわよ」
「飛脚飯って名前がまたいいのよねぇ」
口コミは酒より早く広がる。特に二丁目では。常連客が一人行き、その友人がまた一人行く。気が付けば長野屋の名前は、狭い街のあちこちで囁かれていた。
*
一か月後。
長野屋の昼営業は、久しぶりに賑わっていた。
「飛脚飯一つ!」
「玄米で」
「飛脚飯お願い!」
「わたしはもち麦で」
店内に声が飛ぶ。厨房では誠一が忙しく動き回り、妻の美紀は漬物を盛り付けながら注文を捌いていた。飛脚飯——もち麦か玄米を選べる定食だ。小鉢には糠漬けを添える。味噌汁はその日によって中身が変わる。今日はしじみだった。
美紀がこだわった。江戸の飛脚は、走る前にしじみ汁を飲んだという。疲れた身体に染み渡る出汁、滋養のある身。理にかなっている。それを聞いた誠一は最初、「仕込み時間大丈夫か?」と渋ったが、一口飲んで黙った。
しじみの日もあれば、あさりの日もある。先週は蛤の甘露煮を小鉢に添えた。美紀が「試しに」と作ったものが、気づけばその日の定食に並んでいた。常連の一人が「これ、また出ないんですか」と聞いてきたのは、翌週のことだった。
店頭には小さな看板も出した。「飛脚が走った街の定食」と、美紀が書いた文字で。
近隣の会社員、営業マン、配送ドライバー。健康を気にする常連客。そして雑居ビルから毎日のように誰かが食べに来る。しかも一人では終わらない。「今度あそこ行ってみなさいよ」と口コミを広げてくれる。
ジェームズが何をしたのかは聞かなかった。だが、何かをしたのだろう。それだけは分かった。
午後一時半、ようやく客足が落ち着いた頃、誠一は額の汗を拭いながら椅子へ腰を下ろした。美紀が麦茶を差し出す。
「疲れた?」
「疲れた」そう言って笑う。最近は、その言葉を言う機会が増えた。忙しくて疲れる。それが少し嬉しい。
その時だった。入口の引き戸が開いた。ガラガラ、と懐かしい音が響く。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げた誠一は、言葉を失った。
父だった。
長野健一が、引き戸の向こうに立っていた。以前より少し痩せて見える。だが背筋は伸びていた。店内をゆっくり見回す。客席、厨房、新しく貼った飛脚飯の札、糠漬けの説明書き。そして息子。
「親父……」
「元気そうだな」と、一言言って席へ座り、飛脚飯を頼んだ。
誠一は厨房へ入った。ご飯を盛る。味噌汁を注ぐ。糠漬けを添える。手は迷いなく動く。だが頭の中は落ち着かない。旨いのか。気に入らないのか。昔からそうだった。父は多くを語らない。だから余計に気になる。
健一は黙々と食べた。ご飯を食べ、味噌汁を飲み、糠漬けを口へ運ぶ。その間、一言も喋らない。店内には他の客の会話があるのに、この席だけ違う静けさがあった。
食べ終える。箸を置く。立ち上がり、会計へ向かう。
誠一の前で足を止める。
叱られるのだろうか、と思った。もしくは何も言わないのかもしれない、と思った。
健一が言ったのは、一言だけだった。
「いい店じゃないか。また来るよ」
誠一は返事ができなかった。
健一はそれ以上何も言わず、会計を済ませると、そのまま店を出て行った。
「聞いた?」美紀が小さく笑う。
誠一は何も言えなかった。言えなかった。胸の奥に、三年分の何かが込み上げていた。
*
その夜、ジェームズはいつものように一階の『Bar 小鈴』にいた。カウンター席には常連客が並び、昭和歌謡が流れている。
「長野屋、流行ってるみたいじゃない」
「ええ」ジェームズはレモンサワーのグラスを持ち上げる。「飛脚飯も好評だよ」
「その飛脚飯って正直地味で、大丈夫? と思ったわよ」
「確かに地味ではあるけどね」
「でも実際食べると美味いのよね。特に味噌汁! びっくりしちゃったわよ。あの出汁なのか味噌なのか、もう深い味わいで真似できないわね」
「僕も味噌汁を一口飲んでピンと来たんだよ」ジェームズはグラスを置いた。「これはなにか勿体ないことをしてるんじゃないかって」少し間を置く。「まぁ、ママのPRがなければ半分も届かなかったけど」
ママは鼻を鳴らした。「当たり前でしょ」
「営業部長に感謝しないとね」
「あら、もっと偉いわよ」
二人が笑う。するとママはカウンターの下から小さな壺を取り出した。
「そういえば、長野屋じゃないけど……」蓋を開けると、中にはナスとキュウリの糠漬けが入っていた。「私も漬けてるの」
「ママが?」
「何よその顔」小皿へ盛り付けて差し出した。「食べてみなさい」
ジェームズは箸でナスを摘まむ。一口、噛む。そして止まった。
もう一口。今度はキュウリ。ポリッという音が響く。塩気。酸味。発酵の香り。どれも絶妙だった。
「これは」ジェームズは真顔になった。「旨いですね」
「でしょ?」ママは満足そうに笑った。「二十年物よ」
「二十年?」
「糠床がね」
ジェームズは再びナスを口へ運びながら、思わず頬が緩んだ。
日本という国は、本当に不思議だ。店を立て直す話をしていたはずなのに、最後に感動するのは、また発酵食品なのだから。
カウンターの向こうでは常連客たちが笑っている。グラスが鳴る。歌声が聞こえる。新宿二丁目の夜は今日も賑やかだった。
ジェームズはレモンサワーを一口飲み、もう一枚ナスを摘まんだ。どうやら今夜は、もう少し飲むことになりそうだった。




