潤う心、揺らぐ決意
スピカへの歪んだ執着に決別を告げる――そう固く心に誓い、カノープスは静かに生徒会室のドアを開けた。しかし、室内にその少女の姿はなかった。
代わりにいたのは、山積みにされた書類の束と格闘している副会長のルスカと、会計のベガの二人だった。机の上に広げられているのは、大半が学園祭で予算を大幅にオーバーした実行金額の再申請書だ。各部活や出し物の事後処理に、二人はすっかり揉まれているようだった。
カノープスは周囲を見回し、ルスカに尋ねた。
「失礼します。……皆様はどちらへ?」
ルスカはペンを握ったまま、ひどく疲れた顔で顔を上げた。
「ああ、カノープス君か。シリウス会長とデネブ書記は、現在他国からの要人との面会に出席されている。スピカ庶務は、各展示施設の撤収状況の視察とヒアリングに向かっているよ」
ルスカは手元の書類に目を落とし、ふと思いついたように顔を上げた。
「ちょうどいい。カノープス庶務、もし良ければスピカ庶務の元へ向かって、彼女の手伝いをしてきてもらえないだろうか? 人手が足りなくてね」
「――かしこまりました」
カノープスは短く一礼し、踵を返して生徒会室を立ち去ろうとした。その背中に、ルスカが「おっと」と声をかける。
「カノープス君、少し待ちたまえ。君が持っているその『ラック(幸運)』の宝珠……いや、お守りか? 効果が完全に切れてしまっているぞ。せっかくだ、私が新しい効果を付与してあげよう」
ルスカは立ち上がり、聖騎士としての神聖な魔力を指先に集めた。
「『ラックアップ(幸運度上昇)!』」
ルスカが厳かに呪文を唱えると、カノープスの懐にあったハダルのお守りが、淡く確かな輝きを取り戻した。その光は、まるでハダルの真っ直ぐな想いが再び熱を帯びたかのようだった。
「……ありがとうございます、ルスカ副会長」
「礼には及ばんよ。では、スピカ庶務を頼んだぞ」
カノープスは小さく頷いて生徒会室を後にし、スピカのいるはずの展示エリアへと足を急がせた。胸元で再び温もりを持ち始めたお守りが、彼の決意を、静かに、重く支えている気がした。
◇
その頃、スピカは魔法生物部の展示現場を訪れ、前日に引き続き事後ヒアリングを行っていた。
だが、そこに広がっていたのは、片付けの手を止めて頭を抱える部員たちの姿だった。スピカの顔を見るなり、魔法生物部部長のサムが悲壮な面持ちで訴えかけてくる。
「スピカ君! 大変なんだ! クマムシマンが今日も『乾眠モード』から戻らないんだよ! いつもなら水をかければすぐに元通りになるのに、今回は何をしてもピクリとも動かないんだ……!」
サムが指し示した先には、カラカラに乾燥し、まるで小さな岩のようになって転がっているクマムシマンの姿があった。
(あちゃあ……やっぱり……)
スピカは心の中で深くため息をついた。
無理もない。学園祭の間、彼は鎖でガチガチに繋がれ、押し寄せる子供たちの容赦ないボール投げの的にされ続けていたのだ。肉体的な疲労もさることながら、そのメンタルの消耗は想像するに難くない。完全に心を閉ざしてしまっているのだ。
(子供たちが喜びそうな企画とはいえ……あんな過酷な出し物、私が最初にちゃんと止めるべきだったのかもしれないわ……)
責任を感じ、スピカの胸に申し訳なさが込み上げる。
そんな困惑の渦中にある展示室に、足音もなくカノープスが現れた。
「スピカさん、どうかしましたか?」
「あ、カノープス君……」
スピカは、カラカラに乾ききったクマムシマンをそっと両手で抱き上げ、その愛おしむように自分の頬を寄せた。
「この子がね、学園祭でちょっぴり辛い思いをしちゃったみたいで……。すっかり元気をなくして、心を閉じちゃったの」
スピカのそのどこまでも優しく、慈愛に満ちた仕草に反応したのか。彼女の頬が触れた瞬間、乾いた塊がほんの一瞬だけ、内側から微かな光を放ったように見えた。
スピカはクマムシマンを優しく床に横たえると、静かに精神を統一し、その小さな身体の前に両手をかざした。
「『バリア・コンストラクション・スモール(小結界構築)!』」
瞬時に、クマムシマンの周囲に淡い光の防壁が展開され、外敵を遮断する聖域が作られる。続いて、スピカの薄紅色の唇から、さらなる慈愛の呪文が紡がれた。
「『ヒール(効果付与回復)!』――そして、『クリエイトウォーター(水出現)』! 『ホウリー(効果付与神聖)』!」
スピカの手のひらから湧き出た清らかな聖水が、神聖な魔力を帯びて潤沢に注がれる。それはただの水ではない。傷ついた魂をも優しく包み込む、奇跡の癒やしだった。
聖なる水を吸い込んだ乾いた塊は、みるみるうちに潤いを取り戻し、柔らかく人の形へと復元されていく。
やがて、クマムシマンはゆっくりと瞼を開け、力なく、しかし確かに言葉を発した。
「スピカさん……。私は、一体……?」
「よかった……」
スピカはホッと胸をなでおろし、優しく微笑みかけた。
「貴方、とても辛い思いをして、自分で心を閉ざしてしまっていたのよ。この結界の方陣のなかで、しばらくゆっくり休んでいてね」
クマムシマンは、スピカの聖女のような微笑みに救われたように、その口元に微かな、しかし心からの笑顔を浮かべた。
「……ありがとうございます、スピカさん」
人智を超えた魔法生物の、その深く傷ついた精神さえも一瞬で癒やしてしまう彼女の「奇跡」。
その圧倒的な神聖さを、カノープスは一歩引いた場所から静かに見つめていた。胸の奥が、締め付けられるように痛む。
しかし、カノープスは湧き上がりそうになる感情を抑え込み、自分に言い聞かせるように強く思った。
(ああ……そうだ。僕は、彼女を己のものにしたかったわけじゃない。ただ、この汚れなき神聖さに強く憧れ、それを影から護りたかっただけなのだ……)
それは恋という名の、あまりにも不遜で、届かぬ想いだった。
しかし、今の自分には、あの夜に温もりをくれたハダルの想いがある。彼女の真っ直ぐな心に、今度は自分が報いなければならない。
カノープスは懐のお守りにそっと手を当てた。ルスカによって『ラックアップ』を付与され、再び熱を持つようになったハダルの結晶。
(断ち切らなければならない。僕の、この身の程知らずな想いは――)
消え入りそうになる未練のさざなみを、カノープスは必死に押し殺す。ハダルのために、そして自分自身の影を払うために、彼は揺らぎそうになる決意の盾を、もう一度強く奮い立たせるのだった。
ep.22いかがだったでしょうか?
不便なクマムシマンを救うスピカの姿に感動しました!(誰が?)
評価ポイントお願い申し上げます。




