第5話 捨てられ令嬢
朝、目覚めると子犬の姿が無かった。
ミシャーナは飛び起きると慌てて身支度を済ませ、本館のカウンターまで走った。
店主は風が吹いたかと思うと、瞬きするほどの間にミシャーナが目の前に立っていたので、不思議そうに首を傾けた。
「今一瞬、風が吹かなかったか……いや、何でもない。お嬢さん、どうしたんだい?」
訳アリの淑女にどう接していいか分からず、ニカっと笑みを浮かべて顔を覗き込むと、涙目のミシャーナにぎょっとして後ずさった。
「お、俺の顔、そんなに怖かったか?」
ミシャーナは首を左右に振り、店主のせいではないことを伝える。
「あ、あの……あの、昨晩連れていた子犬が……いなくなって、しまって……」
たった一晩の縁だったが、ミシャーナが子犬に心を癒されたことは確かで、それなのに婚約者ばかりか子犬にまで捨てられてしまったことに心が酷く痛んだ。
何も言えなくなり、ぽろぽろと零れ落ちる涙を両手で抑えるしかなく、店主が淑女を泣かせたと、カウンターの周りには軽い人だかりが出来ていた。
おろおろする店主のうしろから、なにを騒いでいるのかとおかみが顔を覗かせ、状況を見て店主を小突く。「痛っ」と、小さなくうめき声が聞こえた。
「ごめんねミサ。またうちの朴念仁が何かやらかしたのかい?」
「いいえ、いいえ、ちがうの、です」
泣いているため、声がつかえてうまく話せない。状況的にこの場にミシャーナを置いておくのは良くないと判断したおかみは、ミシャーナの背中に手を当てると、やさしくカウンター奥の小部屋へ誘導した。
そして野次馬を散らせと店主に目配せし、そのまま奥へと姿を消した。
おかみの淹れたホットミルクを飲み、落ち着いたミシャーナは店主に平謝りをした。
「誤解を与えてしまい、本当に申し訳ございませんでした。その、なんとお詫びして良いか……」
何度もお辞儀をするミシャーナを見て、店主とおかみは顔を見合わせる。
「いいんだよ、あの子犬はミサにとっては大事な存在なんだろう? そりゃあ、自分にとって大切なものがいきなりいなくなったら、誰でも混乱するさ」
「そうだ、俺だってカミさんが居なくなったら取り乱すどころの話じゃない」
微妙にノロケた相槌を打った店主を睨みつけると、おかみはもう一度優しく慰めた。優しさに触れ、ミシャーナは伯爵家の人間であることは隠し、結婚するはずだった男に裏切られ、その経験と子犬が居なくなったことが重なったことを正直に告白した。
話を聞いたおかみの怒りは頂点に達し、店主がたじろぐほどだった。
一緒に怒ってくれたこともあり、ミサの顔には次第に笑顔が戻っていた。子犬のことは、一緒に町まで付いては来たが自分の家に帰ったのだろうと納得した。
「いいかい、今日は遊び倒しな! そうだ、夜は店を上げて宴をやろう。ミサの歓迎会、名目なんてなんでもいいさ。無礼講だよ! いいね、あんた!」
店主は大きく頷いて親指を立てる。そして思い出したようにミシャーナに客室の空きを伝えると、宴の準備のため肩を回しながら厨房へと入って行った。
部屋を移動したあと、ミシャーナは予定していた約十日分の宿代の前払いを済ませ、おかみが丁寧に書きだしてくれたマップを頼りに色んな店を見て回った。
路地裏など、子犬が迷い込みそうな場所もピックアップしてくれていたので、子犬を探しながら町を散策していると、あっという間に日が暮れた。
※ ※ ※
「この町に現れた美しい仲間、ミサの来訪にカンパーイ!」
おかみが乾杯の音頭を取ると、店の中は一気に大賑わいとなった。ミシャーナの周りにはひっきりなしに乾杯をしに来る人で溢れかえっていた。
乾杯の度に酒を飲み干したので、ミシャーナはすぐに出来上がった。
一時間もすれば人の波は引き、各々が好き勝手に騒ぎながら楽しんでいる。ミシャーナは机に突っ伏して、その様子を楽しそうに見ていた。
すると、いきなり顔に影が落ちた。気が付いて後ろを振り向くと、そこにはこの世の者とは思えないほどの美青年がミシャーナを覗き込んでいた。ふわっとした緩いウエーブのかかった深いミルクティー色の髪に、黒曜石のように輝く瞳を持つ青年は、どこか子犬を思わせた。
「少し話をしても?」
美しい青年は声まで美しかった。ミシャーナは貴族の中でもこんなに美しい人に出会った事が無いと思った。恋したセドリックよりも、何十倍も美しい。
見とれてしまい声を出せずにいるミシャーナを見て、青年はクスッと笑うと隣の席にするりと座った。
青年からはミシャーナの好きな雨上がりの森の香りが漂い、たまらなくときめいた。昔から一緒にいたのではと思うほど、青年が隣に座ることがしっくりくる。同時に、胸が締め付けられるこの感覚はなんだろうと考えていると、青年が問いかけてきた。
「僕の名前はフィン。君は……ミサ、だよね?」
「え、ええ。どうして名を?」
ミサの歓迎会だと言っておかみが作った飾りの横断幕を指さし、フィンはにっこりと笑みをたたえる。
「僕のこと、覚えてる?」
新手の軟派のようだが、その問いかけが不思議と嫌ではない。ただ、フィンと名乗る青年を見たことが無く、記憶力の良いミシャーナは首をかしげる。
「私、記憶力は良い方なのですが、お会いしたことは一度も……あ、森で出会った子犬に似ていらっしゃいます」
ふふっと笑顔になったミシャーナを見て、フィンもつられて笑う。
「子犬? 僕が? いいね、僕は喜んで君の犬になるよ」
「まさか、冗談が過ぎます。私の犬になって何をしてくださるの?」
くだらない冗談を言い合い、ミシャーナとフィンはすぐに意気投合した。最初は軟派だと思ったフィンの話はとても面白く興味深いものがあった。それだけでなく、博識のはずのミシャーナの話に付いて来るばかりか、知らない事まで教えてくれる。
ミシャーナは酔いも手伝って、次第にフィンに夢中になっていった。
飲みすぎてミシャーナが立ち上がれなくなると、フィンは部屋まで送るよと肩を貸し、滞在する部屋まで届けてくれた。
ベッドの上にミシャーナを座らせると、水を汲むと言ってテーブルの方を向いた。
ミシャーナは急に寂しくなって、フィンの服の裾を掴んだ。
「私を、また捨てるのですか?」
次回はヒーロー、フィンの目線の話です




