母なる海はやさし
転生したって私は私だった。
前世と同じ黒い髪に平凡な顔、私はなんの違和感もなかった。けれど周囲にとってはそうではなく、自我も曖昧な時期に両親から離されて、教会では謎の洗礼式。
ようやく私は異世界だと知った。
前世の記憶はぼんやりとしていたが、私が大人だったのは間違いない。そのせいで教会のつまらない説法を受けることも耐えられた。耐えられてしまったのだ。周囲が何を言っているのかも理解してしまった。自分がどういう立場で、どういう扱いをされるのか、そしてどう振舞っていくのがいいのかも器用にこなしてしまった。
「聖女さま、次の巡業は西港に決まりましたよ」
「・・・そう、わかったわ。よろしくお願いします」
その場その場を言われるがままに必死でこなしていただけだったが、いつの間にか私はすっかりと聖女という存在になってしまっていた。
この世界における聖女とは、治癒魔法が使える女のこと。
治癒魔法はとにかく魔力を必要とするため、魔力量の多いものにしか使えない。その目安となるのが、処女であること、闇色の直毛であること・・・つまり私である。
「要するに私は親に教会へ売られた、そうじゃない?」
「聖女さま、そのような物言いは控えてください。ご両親は正しい行動をなさいました」
「はいはい、報告義務を守った敬虔なる信徒ね」
私は明日からの巡業の旅の準備をしながら、気まぐれに従者へ声をかけたが、いつものようにつまらない返答をされた。求められるのは物言わぬ偶像の聖女様だ。日常生活であろうと私は私であってはならない。行儀作法はまだいい、だが一挙手一投足が監視されて清く正しく美しい聖女様であるよう指導される。うんざりだった。
反抗するべきだったのだろうか。
逃亡するべきだったのだろうか。
分岐点を考えるがどれも私は選べない。
どこかで軌道修正できるタイミングがあったなら、と常々考えているが平凡な私の頭では何も思いつかない。考えれば考えるほどに私は何かに失敗しているのではないかと不明瞭な後悔に襲われる。
「転生したって私の優柔不断は変わらないわねぇ~」
従者も護衛も出ていった誰もいない部屋で私は大きなため息とともに目を閉じた。
◆
次の日、護衛に囲まれながら私は馬車へ乗った。
これから巡業地である西の港町まで行かなければいけない。
少し長い旅になるが、聖女用の馬車の乗り心地はおそらく普通よりいいはずだ。一般の馬車に乗ったこともないのだが、街で見かけるのはボロ布で覆われた幌馬車ぐらいなので、きっとそうだ。
従者と護衛と、司祭様が一緒に乗るが、会話らしいものはない。そもそも従者と護衛は無駄に喋らない。この場で喋っているのは司祭様だけだ。私は相槌も打たずに笑顔を張り付けている。
「良いですか聖女様。現地に着きましたら先に護衛と従者が出ますのでゆっくりと上品にその地へ降り立つのですよ。そして必ず信徒の皆様、とお声がけをするのです」
このおじいちゃん司祭様は私の幼い頃から教育係としているが、彼のパーソナルな情報は何も知らない。言う言葉は毎回同じ、長ったらしい聖女としての心得、それだけだ。もう暗記しているが、耳が遠くて会話らしい会話は成立しないので、私は勝手に司祭様をNPCと呼んでいる。
ガタガタと揺れる馬車の外、ちょうど市場だった。今回は通り過ぎるだけだが、以前この市場近くでも怪我人を治療する機会があった。その時の人間だろうか、この馬車に向かってお辞儀をしている人間が多く見えた。
(喜ぶべきなのかしら)
怪我人や病人を治すことに達成感や満足感がないとはいわない。だがその行為で教会の権力が強くなることだったり、今後の医療の発展の遅れだったり、詮無い事を考えてしまって、どうにも素直に喜べない。ただの子供であれば、と何度思ったことだろう。
(ただの子供であれば、きっと一般常識やお金のことだって気にせず市場へ飛び出していける)
そう思って市場から目をそらした。
暇な時間が多すぎるが、聖女らしくないということで頬杖一つつけないせいで、堂々巡りなことばかり考えてしまう。そんな自分にいい加減うんざりとするが、それもこれも狭苦しい教会が悪い。巡業だってほとんど同じ場所ばかり、飽き飽きとしていた。
・・・いや、今回の港町は初めての土地だ。
それだけが少しばかり楽しみで、ちらちらと外を見て遠くに海がないか確認してしまう。
「聖女様、船がいくつか着くようなので、港町には暫く滞在いたします」
「そうなの?どれくらい」
「三か月くらいでしょうか・・・なにせ船員を一旦全て見て欲しいとのことで」
「何それ!どれだけ見るのよ。一旦って何?怪我をしてなくても魔法をかけるの」
「そういう風に王宮から依頼が・・・」
「ばっかじゃないの!私の魔力が足りないわよ!」
「これ聖女さま、声を荒げるなど品がありませぬ」
「無茶だって言っているの!私が黒髪でも無尽蔵の魔力じゃないのよ!」
「聖女さま」
私は咄嗟に押し黙ってしまった。
司祭様は声を荒げないが威圧感がある。そして静かに滔々と語り出すのはいつもと同じ、聖女たるもの下々を見捨てず平等に力を使うことだとか、博愛の精神だとか、そういった話。結局私を丸め込もうとしているのだと、途中から耳を素通りする。
「王も慈悲のない方ではありませぬ、ビリー王子が途中で貴重な魔力回復薬を持ってきてくれるそうです」
「ビリー王子が?」
私は最悪、と内心でぼやいた。
「良い機会なのですから、婚約者と親交を深めるべきですぞ」
馬鹿らしい、と再び内心で毒づいた。
司祭様からの話はそれだけで、結局私が酷使されることは決定済み、ブラック企業の残業だ。王子様はエナドリの差し入れをしてくれるらしい。おそらくは愛人と一緒に。
舌打ちもしたいし足を組みたいしため息だってつきたい。けれど私は上品に背筋を伸ばして座っている。尻が痛いのも我慢して、時折馬車へ向かって祈る信徒たちへ笑顔で手を振った。彼らに罪はないと思うから、全てを放棄できない自分が憎かった。
潮騒が耳に届いて、ようやく少しだけ前を向けた。
遠くにキラキラと反射する波の光に、どうしようもなく縋り付きたい気分だった。
◆
到着してそうそうに聖女らしく大仰に降り立ち、並んでいる港町の住人の怪我を治療していく。荒っぽい漁師たちは怪我が多くて、ついでに性病も多かった。気分が悪い、と思いながらも表情に出さず、微笑みを湛えて次々治していく。もうお馴染みなのだ。本来は聖女といえどこんなに乱用するものではないというのに、長年やたらめったら巡業をさせられるためにすっかり鍛えられた。
「・・・聖女さま、粗末な部屋ではありますがこちらに部屋をご用意しております」
「感謝いたします」
一室用意してくれたこの辺りで一番大きな宿の主人は、照れ臭そうに去っていった。私は一人になってようやく大きくため息を吐いて背中を丸めた。扉の前には護衛が立っているだろうから、大きな声で愚痴ることはできない。
「・・・いやでも汚ぁい・・・」
私が聖女の役目を放り投げて逃げ出すことを躊躇する理由がこの“粗末な部屋”に詰まっていた。教会は、古臭いが清潔なのである。衛生観念でいえば前世で日本人であるということが殊更に影響しているようで、まるで風呂に入らない上にまともに服も着替えないこの世界の住人を受け入れがたかった。
(そりゃ病気になるわっていう汚さの人が治癒魔法かかりに来るんだもんなぁ)
触れずに掛けられる魔法でよかった、なんて思う。
それに比べると教会の人間は定期的に禊や水垢離に似た行為をするので綺麗なものだ。
ベッドに腰かければわずかに埃が舞う。聖女が訪問するから、とおそらく最大限頑張ってくれたのだと思うが、そうであったとしてもこのレベルなのだろう。隙間風もあるし窓際はカビているし、戸棚はべたべたしているし床には何かのシミ痕がある。果たしてこのベッドの枕に虱がいないと断言できるだろうか・・・。
「殺虫剤的な魔法ないのかしら」
いいや、蜘蛛の巣がないだけマシだ、と言い聞かせて私は早々に眠ることにした。だって本もなければゲームもない。遊ぶ相手も会話をする相手もいない。
(・・・お友達が欲しいわ)
聖女さま、ではなく名前を呼び合う友達だ。
そんなことを考えていたからか、その日の晩は前世の夢を見た。
故郷は海のある街だった。小学生の時は皆で遊ぶ時、山か海かじゃんけんで決めた。
海は南の島のように綺麗ではなかったけれど、少し危険な岩場はスリルがあって、小さい崖とともに度胸試しで、男子がよく屯していた。女子は砂場の貝殻拾いが多かったかもしれない。私はというと、磯場で蟹を見つけたりして観察するのが好きだった。小さな魚が潮だまりで取り残されているのを可哀そうだな、とかきれいだな、とかそんなことを考えていた。
「・・・なんて無為なホームシック」
目が覚めて、頬は濡れていないか確認した。泣いてはいなさそうだった。起きた瞬間に夢など忘れてしまえばいいのに、何故かしっかり覚えていて郷愁の念に捕らわれている。
「・・・」
いつもより早い目覚めだ。日の出すぐといったころで、部屋を出てみたが護衛はいなかった。私はチャンスだと思い久々に一人で外へでた。教会内ならば一人で行動するが外では基本的に従者と護衛が一人ずついる。名目は護衛かもしれないが、私からすれば私の逃亡防止のための監視だ。
潮風が髪を靡かせるのが爽快で、私は故郷の海を思い出しながら散歩をすることにした。港町は流石に朝が早い。日の出前に動き出し、今はなんならひと段落ついて休憩と言った具合だろう。思ったよりも静かだった。とはいえ住人に見つかるのも面倒で、人気の少ないところを選んでしまう。
(岩場、そっくりだな)
わくわくと好奇心を疼かせて足元に気を付けながら岩場を歩く。大きな岩がごろごろとしていて、足場としては問題ないように思えた。岩と岩の隙間に気を付けながら移動していれば、綺麗に海が見える場所があった。うまく階段のようになって波がちゃぷちゃぷと揺れている。
「満潮時は気を付けないと引きずり込まれるわね」
恐る恐る覗き込めば岩場の底は急に深くなっている。やはり足を少しつけるぐらいがいいだろう。誤って落ちたら這い上がれないかもしれない。
「・・・危ないな」
身投げ、という単語が頭をよぎった。
「危ないよ」
え、と思って顔を上げた。自分以外誰もいない筈なのに、と周囲を見渡したが人影はいない。
「あの、え?えっと、大丈夫です!」
「そう?ならよかった」
戸惑いながら声を上げれば、返事があった。やはり人がいるのかときょろきょろして立ち上がると、どうやら大きな岩の影に人がいたらしい。
「こっちこっち」
岩の横から揺れる手先が見えた。なんだか妖怪じみてるな、と警戒しながら近づくと、そこには確かに人がいた。見えた濡れた上半身。こんな朝から海水浴?と思ったがぴしゃっとした水音がして視線を向ければ、そこには鰭があった。人の身長よりよほど長い、尾があった。
「人魚!」
「やぁ、どうも」
人魚の男性は呑気に手を振った。
私は久々の異世界だ!となんだか新鮮な気持ちになって一気に興奮した。
「わぁ!初めて見た!凄い綺麗ですね!」
「意外な反応だなぁ、お前聖女なんじゃないの」
「え、なんで知ってるんですか?」
私は首を傾げた。人魚も長いくせ毛をかきあげて同じように首を傾げている。二人で不思議そうな顔を見合わせたままでいると、人魚が噴き出すようにして笑った。耳の位置にある鰭のようなものが揺れて雫が落ちた。
「港でみんな噂してたから、人魚の耳にも入るくらい」
「へぇ~そうなんだ」
「で、俺はモンスターみたいなもんだけど、いいの?」
「え?モンスターでしたっけ、人魚って・・・あ、私ただのヒーラーなので」
面白そうにぱしゃぱしゃと尾ヒレを動かして笑っている人魚に、私は必死に聖女教育での内容を思い出そうとする。確かにこの世界にはモンスターがいるらしいのだが、治癒魔法しか教えられていない私にはあまり関係のないものだ。モンスターの退治は騎士や兵士、耳にしたことしかない冒険者。彼らの専売特許。私に関しては街で二本足の犬らしきモンスターをみたかな、といった具合だ。ましてや教会はきちんとモンスター用の結界とやらが張られていて、意識する機会もない。
魔王退治に行くなら聖女も勇者と行動するんだろうけど、とおとぎ話のあるあるを考えるが、現実として魔王も勇者も存在しない。私にとってモンスターは前世の野生動物と一緒のカテゴリーにいる。
「俺たちは人魚であってモンスターでも人間でもないと思ってるけど・・・ごちゃごちゃ言ってるのは人間じゃん?」
「そうなんだ・・・私、あんまりそういうこと教えてもらえないんだよね」
頬杖をついた人魚は少し呆れたような表情で、私はどことなく羞恥を覚えた。本当に常識がない。聖女教育は治癒魔法や魔力の強化だとか王子の嫁となるための花嫁修業についてばかりで、私は市井のことを何も知らない。
「ここにいていいの、人間に攻撃されない?」
「見つかったらされると思う。でも此処いつも人いないから」
「そっか、ごめん。私のせいで邪魔しちゃったか」
「いいよ別に、お前の散歩を邪魔したのが俺でしょ」
座る?と腰かけるのにちょうどいい岩を指差されて、当然濡れているのが気になったけれど私いいや、と思って座った。じんわりと沁みてくる海水が冷たくて、波もしっかり足元を濡らしていく。だがそんなことより目の前の人魚が気になって仕方がなかった。
「ねぇ、名前は?」
「ないよ、俺は群れない人魚」
「ないんだ・・・ていうか群れる群れないってあるんだね」
「そりゃぁね、お前は?聖女さまってのが名前?」
ううん、と首を横へ振ってから迷うように名乗る。やたらと唇が乾いているとどうでもいいことを考えた。ずいぶん久しぶりに自分の名前を口にした。
「ミヅキっていうの」
「不思議な響き、ミヅキ、いい音だね」
人魚は寝転がっていた上半身を起こして真っすぐに向き合ってくれた。それがどうにも嬉しくて私の口元が緩むのがわかった。真正面からみる人魚は綺麗だった。髪の毛も瞳も深い緑色のようで、きっと文学で宝石に喩えられる人はこんな容姿なのだろうと思った。
足元にかかる波の高さが上がっている。
結構な時間が経っているのかもしれないと気づいて私は立ち上がった。人魚は気にした様子もなく、手を振ってくれた。
「俺ももう行こうかな、明日もミヅキはいる?」
「ここに来れるかわからない。でも、この港町には暫く滞在するの」
また会えるかしら、と尋ねるのには勇気がいった。人魚のことは何もわからない。ここにくるのが危険なのは、聖女である自分か人魚である彼か。きっとどちらも危険だ。そんな恐れを抱いているのが顔ににじみ出ていたのだろう。人魚はあっけらかんとした表情で軽く言った。
「俺は強いし平気。それに黒い鱗の人魚は観賞用にもならないから狙われない」
「・・・でも貴方、綺麗よ」
そう言えば、人魚はどぼんっと海へ飛び込んで姿を消した。潮風が耳の横を通り抜けるのがうるさくて、人魚が何か返事をしてくれたのかもわからない。そういうことにした。
ただ今は見目麗しい人魚に名前を呼ばれて、ひどく充足感に包まれていた。
◆
護衛は朝に弱いらしい。ここ何日かで把握した護衛のスケジュールを元にこっそりと扉をあけて外へ出る。床がギシッと音を立てた。それに緊張してしまうけれど、案外誰も気にしない。私たちのほとんどはまだ夢の中で、港の住人たちは日の出前から海に出ていたり、既に外で市場が賑やかなものだ。私を気にするものなどいない。
向かったのは人魚と出会った岩場。今日の波は穏やかだ。最初に椅子にした岩はあまり濡れていなかった。姿を現さない人魚に、私は慣れた仕草で拍手を打った。それを合図にして黒い大きな魚影がゆっくり近づいてきて、ばしゃっと勢いよく跳ねた。
「つめたっ」
「あはは、濡れた?」
「頭からぐっしょり!塩水は服が傷むんだからね!」
眠い中整えた髪の毛も海水でぐちゃぐちゃ、額に張り付く私の前髪を人魚は楽しそうに人差し指で避けてくれた。
「濡れてる方が可愛いよ」
「何それ、次に会う日は雨の日にする?」
「それはそれでアリです。でも乾いたミヅキも綺麗だと思うよ」
人間の美醜はわかんないけど、と人魚は笑った。
私は嬉しいような寂しいような気持ちで、ありがとうと言って、同時に首を振った。
「私、髪が黒いだけで、美しくないの。平凡なのよ」
特別可愛くもないの、という言葉は卑屈に取られてないだろうか。ただの事実なのだけれど、浮かべた笑みが自嘲を含まなかったとは言えない。人魚は少し目を丸くしたけれど、そうなんだ?と小首を傾げつつ頷いた。
「髪が黒いのと美しくないの、人間には関係あるわけ?」
「あるのよ、聖女なのに美しくないの」
何度も言われた言葉だった。他人から言われた時は一つも納得していなかったのに、自分の口からはあっさりと飛び出てくる。聖女なのに平凡だと、黒髪なのに美人じゃない、それって関係ある?って確かに思っていたのに、私はいつの間にか受け入れてしまっていたようだ。その言葉のせいでより聖女らしく、を強要されてうんざりとしていたのに。
「わからんなぁ、俺が言えるのはミヅキの声は一等美しいってことだ」
「人魚からすると?」
「そう、人魚ならその声を聞けばすぐ惚れる」
「・・・嬉しいわ」
お世辞やおべんちゃらだとは思わなかった。軽く投げられた言葉だったが、どうしてだか、ただ素直な人魚の価値観を言ってくれているのだと信じられた。心の隅で澱として溜まっていたものが、消えたようだった。人魚ともっと深く関わりたい気持ちでいっぱいになった私は一つ提案をした。
「ねぇ今更だけど貴方の呼び名勝手に決めていい?」
「ミヅキと同じ不思議な響きならいいな。ジュリアやアルフレッドとかは趣味じゃない」
唐突な提案は、あっさりと肯定され、リクエストまでされる。存外乗り気な人魚に、さてどうしようと真剣に考える。パッとみた印象はどこか退廃的な空気がある人魚だ。鱗が墨色だからかもしれない。角度によって茶色や緑や銀色が艶めいて、美しい。鯉のようだとおもった。
拍手をして寄って来るところなんて、まさしく神社の鯉っぽい。
「ねぇ、チガヤなんてどう」
鯉、子供の日、柏餅とチマキ、チマキの茅、そんな連想ゲームでたどり着いた言葉を口にした。日本人はすぐに食べ物を連想する。安直だろうか、と心配したがこの世界には存在しないだろう響きだ。案の定人魚はわくわくとした様子を隠さず、嬉しそうに頬を紅潮させた。
「俺の名前!チガヤ!アクセントはヤ?」
「ガかな」
「そっちのほうが美しい!いいな!ミヅキ、いっぱい呼んでくれ!」
ぱっと弾けるような笑顔は、眩しいほどだった。その後私は何度も名前を呼んで、チガヤも何度も私の名前を呼び返した。退廃的な印象なんて名前をつけた瞬間に壊れた。教えた水鉄砲で遊ぶ姿は子供のようであったし、とてもじゃないがモンスターだなんて思えなかった。
海水でびしょびしょになったって、なんの不満もない。この楽しい時間がもっと続けばいいのにと願い続けた。
「そろそろ時間か」
「・・・うん」
「嫌そうだな」
「いやよ。これからぐったりするまで怪我人病人に魔法をかけ続けるの。笑顔でね」
「何故?」
「聖女だから」
いじけるように膝を抱える私に、水面からぷかりと顔だけ出して覗き込んでくるチガヤ。ウェーブの髪の毛は海水でたゆたうと、なんだか昆布のようだった。思わず笑ってしまったが、もう戻らないといけないという憂鬱は晴れない。
「怪我を治すなんて、海の下じゃ奇跡なのに。地上じゃ安売り状態だな」
「・・・そうかも。教会はお金取ってるけど、私は一文無し」
「金ってあれだろう、丸い奴」
「そう、お金。人間はね、あのお金がないと生きていけないの。でも私は聖女だから清貧を心がけないといけないし、お金を持つのは穢れなんですって」
「矛盾してる、聖女は人間だろ」
何も反論はできなかった。私の視線が下がるのを嫌がるように、チガヤは手を伸ばしてきた。頬に触れた瞬間は冷たくて、だけれど熱が移るようにじんわりと温かさを感じた。地上によく遊びにくるから普通の人魚よりも肌が焼けているというチガヤの手は私より少し濃いぐらいで、鱗もないし奇妙な形でもない。水かきがわずかに目立つ、水泳選手のような手に思えた。
「聖女教育はね、魔力を高めることと治癒魔法を練習すること。それ以外は王子様にふさわしい花嫁となる修行ばっかりするの」
「ミヅキ、花嫁になるのか」
「そうよ、つまんない修行よ。小麦の収穫量は教えてもらえるのに、パン一つの値段は教えてもらえないの」
「パンって何?」
「人間の食べ物、小麦を練って焼くの。焼けない人は焼いた人にお金を払って買うの」
チガヤに真っすぐ見つめられると、不思議な瞳孔に吸い込まれるような気分だった。従者に尋ねたところ人魚は海に引きずり込む魔物と教えられたが、単純に人間が妖しい魅力の人魚を追いかけて身投げしたのではないかと思う。
「じゃぁね、私着替えないと」
いつもより神妙な空気で黙ったチガヤはひらひらと手を振り返してくれたが、それを見る余裕が私にはなかった。駄々をこねて渋っていた分、日が高くなっている。慌てて宿へ戻ると女将に見つかって、驚かれてしまった。全身濡れているのだから仕方がない。タオルを用意してもらって護衛には黙っていてもらえるよう頼んだが、言うことを聞いてくれるかは謎だ。
気を取り直して完璧な聖女としての体裁を整えれば、大型船が港へついたと報告があがり、あとは目が回る忙しさだった。流れ作業ではあるものの、船乗りたちは当然長期間船の上、そのほとんどが壊血病だの梅毒だのを多かれ少なかれ発症していた。
(フルーツ食って寝てろよ・・・)
そんな風に内心で愚痴っていると、補佐をしてくれている司祭様がわざとらしく咳払いをした。まったく勘のいい爺め。いや、しかし前準備として汚れ落としの魔法をかけてくれたりしているのは非常にありがたいので無碍にはできない。私は魔力が不足してきて頭がクラクラとしてくるのに耐えた。
「おおきになぁ聖女さま!宿に釣ってきた魚持っていくしよかったら食うてくれや」
早口で何言ってるかわからん、と思いながらも聖女として愛想笑いをすれば、ガハハと笑って海の男は去っていった。魚の毒にやられて右腕が壊死しかけていたというに元気なものだ。だが魔力も体力も限界なところで、ご飯の話が出るのは嬉しかった。司祭さまは眉間に皺をよせて難しい顔をしている。従者や護衛もそうだ。
「魚など・・・止めておいたほうがいいです」
「せっかくのご厚意よ、食べるわ」
港町への巡礼は、期待通り新鮮な魚介類がご飯に出てくるので、私は毎回きちんと食べていた。スープとパンだけだが、そのスープに貝がたっぷり入っていて私は好きだった。そしてせっかく今夜新鮮な魚が食べられるというのなら願ったり叶ったりだ。だというのにこいつらは汚らわしいものを警戒する顔で危ないと警告する。
「魚はよくないものに当たることがあります、聖女さま」
「川魚じゃないし生で食べなければいいでしょう」
「聖女さま、海の魚には毒がありまする」
「そんなの現地の人のほうが詳しいわよ。貴方たちは食べなくていいけど私は食べるわ」
聖女さま、聖女さまと私を操ろうと繰り返される言葉に頭痛がした。私は走ることもできずにゆっくり優雅に部屋へこもった。もう魔力は空だ。これ以上治癒魔法はかけられない。硬いベッドに身体を横たえて全身の力を抜いた。すぐにうとうとと睡魔が寄って来るが、夕食前に眠るなど、司祭様から小言が飛んでくるだろう。
「魚、魚かぁ・・・チガヤも魚食べるのかな」
パンは知らないみたいだった。そりゃぁそうか、と窓の外をみる。少し離れた場所にある市場は閑散としているが、早朝は賑やかなのだ。パンやスープのお店が出ているはずだ。この宿でも朝食には焼きたてのパンが出てくる。硬くって顎は疲れるが、しっかりと味のあるパンで私も中々気に入っている。
「チガヤにパン、食べてもらいたいなぁ」
好奇心旺盛な人魚に何かを教えてあげたいのに、私が知っていることはなんにもなくて悲しい。いや、悲しいのだろうか?情けないという言葉の方が正しいかもしれない。
「この世界の海って、どんなのかしら」
本当に人魚がいる海、絵本やアニメのように美しく綺麗な楽園なのだろうかと考えた。脳裏に描かれる夢物語に、私は臆病さに押さえつけられていた好奇心や子供心がむくむくと湧いてきた。それは魔力がすっからかんの全身に染みわたって、行動力に繋がるらしい。
次の日のことだった。
すっかり習慣となった早朝の海へ拍手を打つ。今日は濡れないように岩陰に隠れられるように警戒していれば、チガヤは頭を出すより先にばしゃっと両手を突き出し何かを岩場へ投げ入れた。なんだ、と首を出して覗き込むと岩に飛びつくようにしてチガヤが器用に上って来る。上から見下ろされて、その威圧感に肩をそびやかした。
すぐに口元を緩めて笑ってくれなければ、へたり込んでいたかもしれない。
髪の毛から滴り落ちる水滴が、やっぱり私をびしゃびしゃに濡らしていく。口先だけで私は不満を漏らすが結局お互い笑っていた。
チガヤはまだあるよ、なんて何度か海へ戻って岩場へまき散らしらした。ちゃりんちゃりんと音を立てるそれはコインだった。私は間抜けな顔をしたと思う。
「見てよミヅキ」
「え・・・これお金?」
「そう、海底に難破船がある。結構落ちてるからあげる」
「どうして・・・」
「地上で自由になるには金がいるんだろう?」
「・・・そう、そうだけど」
「穢れるの?」
「まさか!・・・でも、じゃぁこの銀色のやつだけ。貰っていい?」
どうでもよさそうにコインを摘まんで錆びてる!藻がついてる!と一個ずつ見せてくるチガヤに、綺麗なものを二枚指差して私は言った。もちろん、と彼は快く頷いてくれる。
久しぶりの物欲、というものに私の顔が赤くなっていくのがわかった。
私は昨日から行動力を持て余していた。何かしたい、何もできないとぐるぐる悩んで優柔不断を発揮していたが、チガヤが差し出すコインはその背中を押した。
「ねぇ、ちょっとだけ!ちょっとだけ待ってて!」
「えっミヅキ・・・!どこ行くんだよ」
私は岩場の隙間を避けてぴょんぴょん飛び跳ねて、一気に走り出す。小さくなっていくチガヤの姿は焦っているようだったが、きっと待っていてくれるだろう。それよりもやりたいことがあるのだ。たった二枚のコインを握りしめて、慣れない全力疾走は肺が痛かった。
「あの!パンをください」
◆
初めてのお買い物は無事に終了し、聖女とバレることもなかった。二枚の銀色のコインは三枚の茶色いコインに変わって、私は再び岩場へと全力疾走した。たぶん大した速度はでてないな、となんとなく思った。本当に体力がない。久しぶりに走りすぎて後で脚が攣るかもしれない。だが、聖女らしいおしとやかさも優雅さも振り切るようで背徳感に包まれる。
「で、これがパンよ!」
「食べ物・・・」
「そう!貴方のコインで買ったから、ぜひ貴方も食べて」
フランスパンのような細長いパンを手に、チガヤへ見せつける。とはいえ長いものは二人では食べきれないので小さめの物を選んだ。不思議そうに匂いを嗅いでいるチグサに手で一口分をちぎって差し出してやる。舌に合わない様であれば私が食べきるしかない。
彼は一瞬だけ手で受け取ろうとして、自身の手から水滴が滴り落ちるのに気づいてすぐにひっこめた。そしてそのまま口を開け、私の手ずから食べた。
「飲み込めない!乾いてる!変な味!」
「えぇ~!しっかり噛んでよ、味がわかるから」
結局吞み込んでしまったチガヤはもう一回!と何かゲームでもしているようにパンにチャレンジしてくれる。私もパンを摘まみながら、サンドイッチにすると美味しいとか、ジャムを塗るといいとか、そんなおススメ調理方法をべらべら喋った。慣れないパンに戸惑う様をみせつつも、面白いと言って何度もパンを要求した。その度に私は一口サイズにちぎって口へ放り込んでやった。おおよそ食べ物への感想としては珍しいものだが、気に入ってくれたなら嬉しかった。一緒に笑えるならなんでもよかった。
「やっぱり陸は面白い」
「地上に姿を見せる人魚って珍しいの?」
「さぁ?同類を地上でみたことはないな。わざわざ二足歩行してるやつはいるかも」
二足歩行?聞き間違いかと思ってチガヤを見つめるが、彼はなんてことない顔をして、そのまま言葉を続ける。
「俺は単純に星空も太陽も好きなんだ。岩場にいる食いごたえのない魚を観察するのも好き。日向ぼっこしてるトカゲの真似して昼寝するのも気持ちよかったし、人間の観察も嫌いじゃない」
難破船漁るのもね、とチガヤがコインを摘まんだ。彼にとっては使いようのないインテリアといったところだろうか。彼は群れないというし、他の人魚について詳しいわけではないのかもしれない。
「ねぇ、二足歩行ってどういうこと」
「二本足で歩くってこと」
「人魚が?」
「海の魔女の薬を飲めば自由自在」
こうも疑問を尋ね続けるのはなんだか己の無知を晒すばかりで居たたまれない。だがこれも異文化交流だと私は海の魔女とは何か聞いた。チガヤは嫌な顔をせずにどこか得意気に教えてくれる。鱗に包まれた彼の尾びれがぴしゃりと跳ねた。
「海の魔女ってのはあちこちにいるのさ。原初の魔女の弟子たちだ!」
「原初の魔女、聞いたことがあるわ。初代の聖女だと教会では教えているけど」
「俺たちの原初の魔女は人魚で、二本足になれる薬が作れる。治癒魔法はどうかな、海の魔女たちは使えないけど・・・海と陸では原初の魔女は違うのかもな」
解釈の違いで派閥が細分化されていく宗教のようなものか、と朧気に考えた。確かめようもないが、海と陸で同じ「原初の魔女」というワードがあるのは面白いと思った。どちらにしろ魔法が使える人であることは確かのようだった。
「チガヤも人間になれるの」
「薬を飲めばね、人間になってほしい?」
「ううん」
おどけたようにそう尋ねられたが、私はすぐに横へ首をふった。上半身はほとんど人間だから、二本足になっても印象はさほど変わらないと思う。きっと大層背の高いイケメンとなるだろう。だが彼の耳が丸くなることも、ところどころ彩る鱗や、薄く切れ目のように見える鰓も、消えないで欲しいと思った。
「あー、いや。違うな、チガヤがチガヤなら、どっちでもいいけど」
即答だったからか、不思議な表情をしたチガヤに、すぐ弁解をする。だが胃が浮き上がるような不可解な気持ち悪さの原因を、うまく言葉にできなかった。なんて言えばいいのだろう、と視線をあちこちにやる。そんな私をチガヤは急かすことも無視することもなかった。じっとこちらを見つめて、楽しそうに尾びれを揺らした。
「私を、聖女さまって言わないでほしいから」
人間になってしまったら、並んで立っていたら、決して気安く言葉は交わせない。司祭様にも従者にも御小言を貰うし、引き離されるだろう。チガヤが人魚でも人間でもいいけれど、どちらにしても隠れていなければこんなやり取りはできないのだ。私はとりとめもない言葉でそう理由を話した。
「うん、わかった」
チガヤは余計な言葉なく、そう頷いた。それが真摯に私の考えを受け止めてくれたのだと思えて、安堵のため息が漏れた。知らずに肩に力が入っていたらしい。
いつの間にか足首にまで海面が来ていて、私はこのまま飛び込んでしまいたくなった。きっとチガヤは楽しそうに受け止めてくれるだろう。だが、そんな決断はできなかった。
もう“聖女をする時間”になっていた。
■
「聖女さま、港から離れて西の街へ向かうことが決まりました」
「な、なぜ?」
突然告げられた言葉に、動揺が隠しきれなかった。だが従者はまるで気にした様子もなく王子が来られますので、と言う。王子が来るからなんだというのだろう。船がつくのはこの港だ。船員に魔法をかけるのは王宮から指示なのだから、王子とてここまで来るべきだろう。
「この宿ではビリー王子の警護がままならない、とのことです」
「何それ・・・?いや、船員はどうするの」
「船はこの港に着きますので、船員には各自西の街まで来たら順次魔法をかけるという流れになりますので、一気に魔法を使う必要がなくなりますよ。よかったですね」
「それ、本末転倒じゃないの?元気な人のほうが早く着くでしょう・・・」
訳が分からなかった。王子は私に魔力回復薬を持ってきてくれるんじゃなかったか、と司祭様を見たが、とぼけた顔のままだ。イラついて今度は護衛へ視線をやれば、少々圧力を感じたようで言いにくそうに口を開いた。
「こ、この粗末な宿では安全を確保できないという判断かと。ここ以外の宿もありませんし」
「私たちはここに逗留してるのに?」
護衛はもごもごと口を動かしたが結局意味のある言葉にはならなかった。治安の面でいえばこの港のほうがいいのだから、理由は西の街のほうが豪華な宿があるからだ、と私の勘が言っている。
「べっつに滞在しなくても薬を渡してすぐ帰りゃいいでしょ?!」
「聖女さま」
「はいはい、わかってるわ!王子さまが態々運搬などせずとも近衛騎士に託してくだされば私はここから動く必要もありませんと愚考いたしますわ~?!」
私は聖女の仮面も被れずに苛立ちを吐き出すようにそう言えば、司祭様はため息をついて着席するように促した。いつの間にか立ち上がっていたことに気づいて私も大人しく座った。脱力するように乱暴な着席に眉を顰められたが、二回目のため息で済んだ。
「聖女さま、まだ教えておりませんでしたが王宮所有の魔力回復薬は海から集められた貴重な品物なのです。余人に託すなど言ってはなりません」
「・・・それって、海の魔女?」
「どこでそれを?いいですか、海の魔女は海のモンスターの中でも不可思議な存在です。倒すと貴重な薬を入手できると伝説的に言われておりますが、実際のところはわかりません。その歴史は王宮史にしか確認されていないのです」
司祭様が珍しく語気を強めてそう言うが、続く言葉のほとんど私は聞き流した。なんて顔をすればいいのかわからなかった。急に王宮史の内容が気になった。
興味深い話ではあるが、今はそれよりもここから移動するということが重要だった。
「ねぇ、いつ出発するの。西の街っていうけど海は近いの」
「ビリー王子は既に西の街のセントラルへ滞在しておられます。私たちもすぐそちらへ向かう予定ですが」
「海は」
唇が震えた。再度強く聞けば、護衛が地図を出してきた。広げられた地図は簡素なものだが、今は十分だ。この港がここで西の街がここと指をさしてくれて、一応海があることは確認できた。ただここの港のように整備はされていないとのことだった。しかもセントラルからは少し離れる。
「ふむ、小さい桟橋はありましたな・・・近くに宿もあったかと」
「船乗りなのですから、歩けとか馬車を用意させるなんてことより小舟で来てもらうほうが良いでしょう」
「そうでしょうな、患者たちの移動はそちらのほうが速い。セントラルから海へなら王子もご足労いただけますでしょう」
司祭様も若干ビリー王子に思うところはあるようで、うんうんと頷いて王子への伝令をすぐに飛ばしてくれた。
私がはやる気持ちで、出発は?と再度尋ねれば今晩には、という返事でぞっとした。背中に汗がつたい、手が震えた。ぎゅっと握りしめると指先が冷たくて、そのくせ心臓がうるさかった。
どうしよう。
頭の中はそんな言葉がいっぱいで、私はちゃんと聖女の顔で取り繕えているかわからない。ただ支度をするわ、とは言い捨てながら、自分の部屋へ戻るふりをして宿を飛び出した。雑なカモフラージュだ、すぐバレる、そう思ったが構っていられなかった。
「チガヤ・・・!」
いつもの場所にいて。
そう願いながら全力で岩場まで走る。だが早朝ならば干潮時で私が腰かけている岩が見えているが、今は半分ぐらい海水に浸かっている。
私はいつもの場所の光景が違うことにも、両手をいくら打ち合わせても姿をみせないチガヤにひどく焦っていた。ばしゃばしゃと海に浸かった岩場を歩いて、定位置へ向かってしまった。
時計を持っているわけでもないので正確なところはわからない。だが波は高い時間のようだった。満潮は過ぎているだろうが、足首の高さはある。海の怖さを知るにはたったそれだけで十分であった。
波が押し寄せるのを踏ん張って耐えたが、同じ勢いで波が引いていくのには耐えられなかった。足を取られて尻もちをついただけではなかった。全身がひっぱられて、あっという間に海へ投げ出される。
あ、やばい。
チガヤがいつも下半身を泳がせている岩場の間を通り過ぎた。
ろくな抵抗もできずに私は、掴むものも何もない海の中で上下もわからず海流にもまれる。反射的に縮こまったが、ボールか何かになったみたいだ。岸から離れたらまずい、と手足を無理やり伸ばしたが、靴が脱げた感覚に余計に焦燥感が増す。
「ミヅキ、何してんの?」
ぐん、と引っ張り上げられて海面から顔を出せた時、いきなり入ってきた酸素にせき込んで、海水もごっちゃに大きく深呼吸をした。ぜぇ、はぁ、なんてみっともなく呼吸をすれば、目の前にはチガヤがいて、彼が私を抱き上げてくれていた。
チガヤは首を傾げて、なんてことない不思議そうな顔をしていた。私は呆気にとられて周囲へ視線をやる。海は別に荒れてはいなかった。ぱっと見たところでは穏やかなものだ。彼はごく自然に尾びれと両腕で私を支えて、どうかした?といつもの岩場へ向かってくれた。
彼にとってはなんてことないいつもの海で、私が溺れる意味もわからなかったのだろう。私は貧弱に、波に足を取られてただ流されるだけでなんの抵抗もできなかった。前世私は泳げたはずなのに、と茫然とする。
「あ、ありが、とう・・・」
「いいけど、もしかして泳げねぇの」
青い顔をした私に、どうやら溺れていたのだと気づいたらしくチガヤは心配そうに顔をのぞき込んできた。怪訝そうなそれがおかしくて、笑ってしまった。恐怖と安堵で情緒が混乱しているのかもしれない。
咎めるように鰭で頬をぺしりと軽く叩かれて、冷たい海水が妙に血が上った頭を冷やしてくれる。前世で見た絵本の人魚より、ずっと長い尾びれはずいぶん器用に動く。
「泳げると、思ってたんだけどね」
「やめろよ、海は優しいけど怖いんだぜ」
「うん、そうだね」
身をもって体験したよ、と安定感のある腕を支えに一息をついた。そしてすぐに私がここに来た目的を思い出す。
「今晩ここを離れるの、それを伝えたくて」
チガヤの動揺が支えてくれる腕の力でわかった。俯いていた私は、チガヤがどんな顔をしているか気になって、乱れた髪の毛を整えた。泣きそうな顔とか、怒った顔とか、もしくはあまり理解していないようなきょとんとした顔、そんなものを予想して見上げると、そこにあった無表情。
感情のそぎ落とされ、逆光で縁取られた表情は、整った人形のようだった。
無意識に筋肉が強張るのがわかった。海水を全身に浴びたからか、体感温度がひどく寒い。身体の震えが伝わったのか、チガヤはいつもより一段高い岩へ私を乗せた。その気遣いに、ほっとして、ようやく次の言葉を紡げた。
「西の街の海の近くよ、どんなところかはわからないの」
「海なんだね」
「桟橋はあるって」
「うん、追いかけるよ」
「家とか、大丈夫なの」
「凝った寝床を作るタイプじゃないから平気」
「また会える?」
「海は一つだ。どこだって、ミヅキに会いに行くよ」
子供を甘やかすような柔らかな笑みをみてしまったら、もう駄目だった。安堵が涙となって止まらなくなった。ぼろぼろ目から塩水が湧いて出るのをチガヤは不思議そうに見て、どういう現象?っていいながら指で拭ってくれるから、私は面白くて笑いが止まらなくなった。ひどくみっともない姿だと思う。けれど目の前にはチガヤしかいなかったから、別によかった。
◆
西の街のセントラル地区はお店も多くて施設も整っているが、そこ以外は逆に過疎となっており閑散としている。そのせいか港とは違って私は患者に追われることもなく余暇ができた。宿泊するところも民家を間借りする形になるようだが、正直黴臭さもないしいい所だった。
問題は人目を避けるような岩場がないことだった。
崖が多く、足場の悪いところがばかりで、人の行ける場所というと広い砂浜。
「・・・人はいないけど」
護衛もあまりの人のいなさに気が抜けているのか、到着後砂浜に向かう私を見送った。視界をよぎるものがないから、許容範囲としているようだった。事実宿からの視線は感じる。
流石にこの状態でチガヤを探すことはできない。だが不自然がない程度に海を見渡し、運よく見つからないかと思う。果たして本当に会えるのだろうか。追いかけてきてくれたのか、私にそんな価値があるのだろうかと、不安からよくない考えが回り出す。
潮風は強いが、穏やかな海に見える。きっと日の出の時間など息をのむ美しさだろう。そう遠くへ視線をやっていると、ぱしゃっと跳ねる水音がした。
「!」
チガヤの尾びれだ、と一瞬の光景で理解した。思わず波打ち際を超えて走り出したかったが、遠くから制止の声が聞こえて足を止めた。護衛と、おそらくは司祭様も見ている。戻ればきっとお説教が待っているだろう、私は拍手を打つことなくその魚影を見送った。
後ろ髪引かれる思いで宿へ戻ったが、先ほどよりよっぽど心は軽かった。
本当にチガヤは追いかけてきてくれたのだ。それだけで孤独感は薄れた。
今日チガヤと会うことは叶わなかったが、どこかでタイミングがあるだろうと希望を持って過ごしている間に、厄介事はやってくる。
王子襲来、なんて言葉が脳内に浮かんだのも仕方がない。
船旅が終わったと思ったらまた船に乗せられただろう船員たちに労いの言葉をかけながら治癒魔法をかけて忙しくしている最中だった。派手で重たい車輪の音とともに到着を知らせ、大きな鎧を付けた兵士たちがぞろぞろと並んでやってくる。これに威圧感で怯えない人は少ない。
屈強な船乗りたちだが、相手が王家となればまた話は違う。戸惑った様子で聖女たる私を見つめてくるが、私は気にせず治療を続けた。今中断して王子を相手にしてしまうと再開できるか不明だからだ。従者もそれを心得ていて、到着した王子には休憩できる場所へ案内しているようだった。
なんとか最後の患者を送り出せば、行きつく暇もなく王子への挨拶に移動する。魔力切れで頭痛がするのを笑顔で隠し、それでも顔色が悪いのは見て取れるのだろう。従者が気遣わし気で、どことなく優しい。
「なんだ、回復薬がなくても平気そうじゃないか」
流石だな聖女、なんて言う男に舌打ちをしなかったことを褒めて欲しい。笑顔のまま顔面を固めて無難な挨拶をした。優雅なティータイムの席にはビリー王子と、対面にはメイドが何故か座っている。視線をやればわざとらしく困ったような表情をして、立ち上がる。
「聖女さまのお茶もご用意いたします」
「あぁ、頼むよ。聖女もドゥを責めないでくれ、一人では寂しいから彼女に付き合ってもらっただけだ」
「何も言っておりませんが?お茶は結構ですよ。それよりも件の回復薬をいただきたいのですが。見ての通り魔力切れでして」
「そう急くなよ、もう患者はいないんだろう?なら時間経過で回復するだろう」
眉間に皺が寄る。魔力が枯渇したこともないだろう王子はなんの悪気もなく言っているはずだ。私の機嫌が悪くなったことを察した司祭様が仕方なさそうに再度回復薬を要求する。
「魔力切れの状態が長引くと良くありません。朝までに回復も間に合いませんし、此度の任務は王よりの・・・」
「わかったわかった、せっかちな奴らだ」
はぁ、やれやれと気取った態度で王子は指先一つ振って従者に荷物を持ってこさせる。箱には二つの瓶があり、両方とも海の色をしていた。どちらも魔力回復薬なのだろう。まずそう、と思いながらもうやうやしく受け取り、感謝の言葉を述べる。定型句すぎてまるで気持ちがこもっていないのはバレているかもしれない。
「さて、物は渡したが君の仕事ぶりを見るのも此度の目的だ、明日は見学させていただこう」
「承知いたしました。場所のご案内を」
従者へそう声をかければ、王子の護衛がついていく。司祭様もこれ幸いとついていった。王子自体はティーカップを傾けている。メイドのドゥが私の分の紅茶もいれてくれて、仕方がないので着席した。一杯飲めば他に何もない地だ。飽きてセントラルへ戻るだろう。
「ドゥ、君も座りたまえ。聖女はそう心の狭い方ではないよ。この茶菓子は君も好きだろう」
「覚えててくださったんですね、嬉しいです」
給仕をすべきメイドを隣に座らせて、王子はご満悦だ。真ん中に配置されていた茶菓子はメイドの前へ移動され、それを私は見ているだけだ。肯定も否定もできない。メイドにしては濃い化粧と凝った髪型、豪奢な髪飾り。それらが全てビリー王子のためのものであり、メイド服の下は王子が贈ったネックレスが揺れていることを私は知っていた。いや、私だけでなく皆知っている。
「巡業は今週ぐらいには終わりそうか?」
「目安としてはそれぐらいかと」
「回復薬もあるんだ、三日にならないか」
「・・・港からこちらへ移動してくる患者の都合がございます」
「あぁ、もうそれは切り上げてくれても構わない」
にこやかに、患者を切り捨てることを提案する王子に、私の笑顔はそぎ落ちた気がする。隣のドゥはそんな彼の顔をうっとりと見つめた後に何故か私に優越感を含んだ笑みを向ける。美しい女かもしれないが、その笑みは歪んで見えた。
「名は明かせぬが、さる貴族院の方が治療を希望している」
「どういうつもりです、お金のある方は教会へ依頼するのが筋です」
「教会を通すと融通が利かないだろう、君が直接治すのが手っ取り早い」
「私はまだ王家ではありません、そのような横車を押す行為は容認できません」
「何を言ってるんだ。貧乏人どもを治すより余程有意義だ。この件でどれだけの人と金が動いていると思う?彼らの面子を君の一存で潰す気か」
「教会の面子をつぶそうとしているのは貴方では」
わざわざ司祭様がいないこの時に話を切り出している。私が引くことはできない。王宮が大手を振って仲介しているのならば教会にも話は通っているかもしれないが、これはビリー王子の独断の可能性が高い。自分の小遣い稼ぎに私を使おうとしている、そんな気がする。
「王はご存じなのですか」
真っすぐ王子を見つめる私の視線を不快そうにして、大きくため息をついた。
「そんなありさまじゃ王妃として外交は厳しいぞ、愛想と判断力が必要なんだ」
「論点をすり替えないでくださいまし」
「すり替えてないだろう、まったく。もっと柔軟になりたまえ。いいかい、予定では三日後にはセントラルに患者がくる。君が貧乏人どもを治したいというならばその日までに全て治しておきたまえ、それは君の自由だ」
「・・・」
ビリー王子は早口で言い捨てて部屋を去っていく。その背中をぱたぱたとドゥは追いかけていった。私への挨拶もなく、ティーポットたちは飲みさしのまま放置だ。メイドとしての体裁を取り繕うことさえないらしい。
扱う言語が王子と私で違うのかしら、なんて煮えくり返る腸をなんとか納めて、深呼吸をした。聖女らしい笑顔を再び携えることに成功する。だが口から出てきたのは鋭く冷たい声だ。隣にいた護衛は肩をそびやかした。
「伝令を、王に直接確認します」
「・・・私では拝謁に時間が・・・」
「まだ王子の近衛兵が外にいるでしょう。一人連れてって」
近衛兵の隊長は顔見知りだ。王子に黙って一人貸してくれと言っても了承してくれるだろう。彼らは王に忠誠を誓っているのであって、決して王子の小間使いではないのである。
(司祭様にも話しておかなければ・・・)
王ではなく教会へ伝令して教会から抗議してもらうべきだったかしら、とも思ったがそうなると三日では済まない。やり取りに最低ひと月はかかる上に王宮と教会での摩擦が増える。あぁスマホがあれば!とない物ねだりをしながら私はイライラと窓から楽しそうな王子とメイドを見下ろした。
「・・・」
私はその夜、部屋をこっそり抜け出した。
■
街灯一つない砂浜だが、海は月明りが反射してよくわかった。さざ波の音が昼よりもずっと大きく感じられる。
波打ち際ぎりぎりに立って、ぱん、ぱん、と二回手拍子した。思ったより響かなかったな、と思いもう一度手を構えたところでするすると滑らかに黒い影がすべりこんでくる。一瞬驚いて後ずさりをしてしまい、そのまま尻もちをついた。海水が沁み込んで冷たいけれど、ある意味でいつも通り。
「朝もいいけど、夜もいいね」
「チガヤ・・・、本当にこっちまで来てくれてありがと」
私の隣に寝そべり、頬杖をつく彼は囁くように話をした。早朝とは違うライティングのせいか、いつもの笑顔のはずなのに底知れぬ妖しい魔物じみた美しさがある。私はテンポの速くなる心臓を宥めながら、深呼吸をした。
ようやく会う時間を作ったのに、目の前のチガヤ以外にビリー王子とメイドのドゥが思考の中でコバエのようにちらつく。そんな私の不機嫌がにじみ出ていたのだろう。チガヤは砂浜の貝殻を並べながら、珍しく困ったような表情をした。
「ミヅキ、どうした?」
「何から、話をしたらいいかわからないの」
「何が不安?」
「・・・王子が」
ふと言葉を選ぶ。
本当のところ、別に王子に言われるがままに金持ち貴族を治そうと王の依頼通り船乗りを治そうと、私にとっては魔法をかけるだけだ。どっちでもいい。私が黙っているだけで王子は個人的なお小遣いが増えて貴族に恩が売れるのだろう。私にだってもしかしたら口止め料ぐらいくれるかもしれない。
どうせ結婚するならば、そちらのほうが賢い選択なのだとどこかでわかっている。
「私、ビリー王子と結婚したくないわ」
まだ結婚はしていないのに王子に便利な所有物のように扱われ、その癖彼は愛人のメイドを手放さず、ましてや隠すことさえせずに自由にふるまっている。私は王宮と教会の権力の道具になるばかりで、求められているのは魔力が濃い子供という存在。私自身ではない。
それでも、我慢できていた。
外の世界のことを知らないから。
外の世界は汚いから。
外の世界は怖いから。
刺激はないけれど教会は清潔で秩序立っていたから。
聖女としての窮屈さも、日本で学生をしていた私には大きな不満にはならなかった。
テストがいやだ、宿題が嫌だと嘆くのと同じだ。ただそれらを誰かと共有してストレス発散にゲーセンへ行くことができないだけだ。
王子にだって同情をしていた。メイドと身分違いの恋愛をしているのに、私のような平凡な女と結婚させられるのかと、まるで自分が恋愛小説の悪役になった気分だった。
全ては諦観に包まれていて、ここは日本じゃないから仕方がないのだと思っていた。
「チガヤと会えなくなる」
何が不安かって?そんなの、この時間を失うことに決まっている。
その他のことなんて、本当はチリ紙のように放り投げて捨てられる悩みなのだ。
私は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。唇が震えていることには気づいた。低い波が寄せて、私の手足に砂を乗せていく。
ぺたり、と頬に冷たい手が添えられた。チガヤの手の平は柔らかいけど表皮が固い。甲のほうは少しの鱗。顔を上げれば、チガヤがご機嫌そうに笑っていた。
それは話を促されているように思えて、私は支離滅裂なままに全部話した。
いつもはチガヤの知らない言葉を説明したり海の話をしたり、二人で会話を楽しむのに、私の一方的な呪詛のような言葉を吐き出してしまう。
「結婚って番になるってことか・・・」
「そこからだったのね、そうよ。ちなみに王子っていうオスには別にメスがいるんだけど、人間社会の面倒な仕組みにより私が番相手と決められているの」
「面倒くせぇな、海に来なよ」
砂場の低い波は岩場でのように私を攫って海へ投げ出したりはしない。チガヤが眉間に皺を寄せてそう言うのを、私は大して驚かずに受け止められた。チガヤは尾をぱしゃぱしゃと動かして言葉を続ける。
「海の下には王子も教会もない!地上の常識もお金もいらない。母なる海は優しい。海の魔女たちは寛大だ。そして何より俺がいる!」
大げさに海へ手を向けて、チガヤは私の腕を取った。だが黙ったままの私に首を傾げて、さらに言い募る。こんなにもよく喋るチガヤは初めて見た。
「俺は群れないけど、人魚の知り合いならちゃんといる。難破船に住み着いている群れなんかいつも歌ってる五月蠅いやつらだけどきっとミヅキも楽しい。この辺りの海を周回しているやつらもきっと好きだよ、小魚のくせに歯が強いんだ。たまに人間の小舟に穴をあけて遊んでる・・・寂しくないよ」
私はチガヤの言葉の一つ一つが愛おしくて胸が締め付けられるようだった。まっすぐに私の名前を呼んでくれる人だ。
「あのね、チガヤ」
「・・・俺が二本足になってもいいよ!」
「ありがとう」
潮風が強くてひどく身体が冷えるのがわかる。だが心臓はしっかりと動いていて、温かい。もう一度ありがとう、と呟いてチガヤの手を握った。
「私、そうやって誰かに逃げてもいいよって・・・逃げても一緒にいてあげるよって言ってほしかったみたい」
チガヤは縋るように強く手を握り返してきた。上がっていた口角を下げて拗ねた子供のように私を見た。
「・・・逃げないの」
「・・・どう、しようかな」
最後に逃げる道があるとわかると、急に限界まで頑張る意欲が湧いてくる。
だからといって何と戦うというのだろう。
王子?教会?聖女信仰?私は未だに迷いが隠せぬままに、笑った。
潮騒に紛れて、風切り音が鋭く砂を巻き上げた。
「いたぞ!襲われている!撃てっ!」
二人の近くに刺さった矢と、遠くから聞こえた鎧の音。振り向いた先には松明を掲げた護衛達がいた。月明りは厚い雲で翳り、今の私は魔物に襲われているように見える。
「や、やめて!違うわ!」
「聖女さま!離れてください!」
私の護衛以外、王子の近衛兵だ。剣を振り下ろそうと構えて走ってくる。私はチガヤから手を離して、逃げてっと叫ぶが波が引いた砂浜を人魚が移動するのは早くない。無防備に背中を見せることになったチガヤの肩と腕、矢が刺さるのが見えた。悲鳴は喉でつっかえた。
「駄目、駄目、違うの!」
「聖女さま、ご無事ですか」
「やめてっ誤解よ。何もないっ」
「海に引きずり込まれるところだったのですよ、こちらへ」
発狂する程に声をあげても誰も耳を貸さない。兵士たちに肩を掴まれ海から引き離される。ばしゃばしゃと水音が聞こえるがどうなっているかわからない。剣を振り下ろした影が見えた。
「隊長殿、暗闇が深く見失いましたが致命傷は与えたと思われます」
心臓を鷲掴まれたような痛みと全身から血が引いていくような感覚に頭がくらくらとした。今起こったことを何も信じたくなかった。何故王子の近衛兵がここにいるのか、見当もつかなかった。
「王からの伝令と王子の処遇についてのご報告がありまして、急ぎ参じました」
「聖女さまの身体が冷え切っております。報告は明日に」
近衛兵と従者にふらふらとした足取りを支えられ、私は茫然としたまま部屋に取り残された。渡された湯もタオルも手つかずのまま冷めていく。私の身体は海水と砂で汚れたまま、震えていた。
まただ。また私は選択肢を失敗したのだ。
いつだって優柔不断で、正解を選べない。
私の目からあふれる塩水を面白そうに拭ってくれる人魚はここにいない。
■
おそらく熱がでた。風邪をひいたのだと思う。
だが自分自身に治療魔法をかけてしまえば、何事もなく聖女の仮面を被れた。
「なんてことをしてくれたんだ!父上に確認する必要なんてなかっただろう、君は本当に頭の回らない子だな!名を明かせぬ患者だと言ったのに、父上の調査が入った。これでご破算だ!」
「ビリー王子、本日は患者治療の見学かと思われますが」
「そんなことになんの意味がある!今朝には教会の使者まできた!王家と教会の摩擦を増やしてどうするつもりだ?!君は王家に名を連ねるんだぞ、自覚がないのか?!」
昼頃にセントラルからわざわざ駆け付けた王子は、開口一番告げ口をした私を責めた。近衛兵も信用ならないと思ったのかいつもの顔ぶれはおらず、少数の護衛を連れていた。おそらくビリー王子派閥の人間なのだろう。王宮の政治は、まだ私にはわからないが中々ややこしいようだった。
私に届けられた報告によると王はきっちり勝手なことをしたビリー王子の行動を止めたらしい。ついでにビリー王子に接触していた名を明かせない貴族の事情も調査する、教会とも調整をとっていくと書面にあった。果たしてどういう事情があったか私に知らされることはないだろう。だが、おそらくお小遣いを手に入れることもできず、派閥に影響がでただろうビリー王子が癇癪を起している姿には清々する。
とはいえ患者の治療もまだ続いているというのに意味不明に怒鳴り散らされていても邪魔でしかない。患者は遠慮して動きを止めてしまい、列の進みは止まってしまった。しかも大声で内部事情をべらべらと話すなど、考えられないことだ。庶民を壁か何かと思い込んでいるのだと言うならばあまりにもひどい貴族仕草だ。
「ビリー王子、王は此度の件で私に褒美をくださるそうですわ」
「父上が?!褒美?!何を強請るつもりだ、強欲も大概にしろ」
「貴方との婚約破棄を」
時が止まったようだった。喚き続けていた王子は口をあんぐり開けて間抜けなまま固まっている。そしてわなわなと震えたのが見て取れた。悔しそうな、もしくは憎悪をはらんだ瞳で睨みつけてくる。
「正気か・・・?許さない、許さないからな」
そう言い捨ててビリー王子は去っていった。なんだかあっさりした終息に、私はそんなにショックをうけるような内容だっただろうかと、何か底知れなくて嫌な予感がした。だが引き止める意味もわからず、その場は小さくなっていくビリー王子を見送ってしまった。
私はまたまずい選択をしたのだと気づいた時には遅い。
「どこ、ここ」
瞬きがしにくい。目ヤニか、と思ったが違う。ただ単純に妙に眠い。瞼が重い。頭がはっきりと覚醒しない。
馬鹿みたいな量の患者をさばいて、遠慮なく魔法回復薬を飲んだはずだった。三日で終らせろ、という理不尽な命令が撤回されたとしても、途中で王子に邪魔されて停滞していたせいで私だけでなく司祭様や従者も疲労困憊であった。
眠たくて、頭が重い。
知らない部屋にいる、と気づけば普通は衝撃で一気に覚醒する。だが私はいまいちしっかりとしない足取りでふらっと立ち上がった。歩く際の重心がズレるのを感じる。
「まって、まさか・・・船?」
平衡感覚のおかしさは、頭痛以外に足場が揺れているせいもあった。だが振り返っても自分が寝かされていた部屋に窓はなさそうだ。確信はないが、すぐに扉を開けて、人の有無を確認する。少し遠くで人のざわめきがある。
(司祭様や皆はどこに?)
壁に寄りかかりながら深呼吸をする。服装に変わりはない。身体に怪我もない。拘束もされていない。ここがどこかわからない。推定船の上。眠る直前に飲んだものは魔法回復薬。
「眠い、おかしい・・・」
寝間着に裸足のまま、ゆっくりと移動していく。床が軋むことはなく、この船は比較的新しいのではないだろうか、と船内を見回して思った。運よく開けた扉の先は青い空、青い海。激しい潮風に髪の毛がバサバサと舞い上がった。その冷たさに眠気がわずかに晴れる。
「海・・・」
「そうだよ、気に入ってくれたかな」
「び、ビリー王子っ」
驚いて振り向けば、そこにはビリー王子が無表情で立っていた。癇に障る余裕の笑みは浮かんでいない。いつもとは雰囲気の違う彼に、私は怯えを誤魔化すことはできなかった。距離を取ろうと後ずさる。
「私に何をしたの・・・、この船はどこに向かってるの」
「そんなことが気になるのかい?この船は港から離したくて、とりあえず王都のほうへ向かってるよ」
「な、なんで・・・」
意味が解らない上に思考がまとまらない。混乱する私を甚振るように王子は嬉しそうに笑った。目をそらしたいけれど、意地でぐっと睨むと王子は呆れたように肩をすくめた。
「それよりお前、人魚に襲われたらしいね」
チガヤが斬られる姿がフラッシュバックして、目の奥が痛むような気がした。ぐっと顔を歪めて歯を食いしばるが、動揺は表にでていただろう、王子はひどく酷薄な笑みを浮かべていた。
「襲われてないわ、声をかけられただけ」
「ふぅん、どっちでもいいさ。だがお前がやはり聖女なんだと近衛兵どもが騒いでいてな」
何を言っているのかわからない。王子は優雅な足取りで船に刻まれた王家のマークをなぞる。船は大きく、船員はおそらく私の見えないところにたくさんいるのだろう。逃げられるかわからない。
「困るんだよ、聖女さま」
「な、なにが・・・」
「婚約破棄だよ、そんなことをされちゃ・・・弟が王様になっちゃうだろ」
「は?」
私は意味がわからなくて、自身の無知を呪った。
「さっきから何を言っているの、貴方との婚約を破棄したって別に継承権が弟に移るかわからないでしょう」
「まだ睡眠薬が効いているのか?それとも君が馬鹿なだけ?」
(こいつ、やっぱり私に一服盛ったのね)
だとすれば魔力回復薬を睡眠薬か何かにすり替えていたのだろう、と思い当たって今も頭の奥でしびれるように存在する睡魔を必死に振り払う。
王子は愚かな子供を諭すように、説明してあげようと言った。
「聖女の黒髪直毛信仰はどこからきてると思う?」
「・・・知らないわ、あくまで聖女信仰としか」
「あぁ、そんな風に教会では教えてるのか」
そう呟いてつまらなさそうに王子は滔々と語ってくれる。
話は初代国王、建国の歴史にさかのぼるのだと言う。
そして聖女信仰は原初の魔女・・・海の魔女が関わるのだと、楽しそうに海を見渡した。
私はチガヤの言う海の魔女と聖女信仰に関わる原初の魔女の二つが繋がったことに驚き、つい王子の話に耳を傾けた。時間を稼いで睡眠薬の影響を取りたかったのもある。
「我らが初代王は戦争で怪我をしてね、その命を落とす前に海の魔女に助けられた。そして彼女を嫁に迎え、その魔法と薬の全てを王家で扱えるようにした。だが彼女は子供に恵まれず、側室へ嫉妬してその知識や資料を焼き払い独占したままに海へ身を投げたんだ」
王子の目が大海原へ向いている間に私は自身に治癒魔法をかけた。魔法は睡魔も倦怠感もきちんと消してくれる。戦う能力はないが、改めて有難い魔法だ。
「死んだと思われたが彼女は元々人魚だ、生きていたのかもしれない。何故なら今も時折彼女の薬と思われるものが市場に流れる時があるからな。所詮人間とモンスターでは子供ができなかったんだろう、って僕は思っているけれど、王宮のやつらはそうは思わなかった」
「・・・」
「王の子が腹にいたんだと思い、海で子を産んだのだと。彼女の知識、魔力、あらゆるものを受け継いだだろうものが」
私は頭がはっきりしたのもあり、王子の話に聞き入ってしまっていたが、その油断は王子に距離を稼がせることになった。がっと両肩を掴まれて、私は硬直した。それだけの迫力が今の王子にはあった。
「聖女とは、彼女から生まれた存在だと思われている」
どこか焦りをにじませた声は私に聖女という肩書の重さを教えてくる。ぎりぎりと掴まれる肩が痛くて、私は彼の手を掴むがビクともしない。海の音と自身の脈の音が混じり合ってうるさい。
「それは彼女と同じ黒髪直毛であり、彼女しか使えない筈の治癒魔法が使えるからだ。聖女は、そもそもは遠く血筋の離れた王家のもの・・・そして君は、聖女としての資格を有していて、今回人魚に攫われそうになったんだ。つまりどういうことかわかるかな。お前の聖女という肩書は強固で確実な信仰を集めた・・・」
「だから、聖女が現れれば必ず王家で取り込むってことなのね」
「そう、お前は王家から逃げられない、父上だって手放す気もない。僕と婚約破棄したところで弟たちと婚約するだけだ。そうしたらどうなると思う?弟の支持者どもが信仰を盾にむちゃくちゃをして、弟を王にするのさ。君が!国を荒らすんだよ!わかるかい?」
なんとも白々しく王子は私を責め立てる。その勢いに私も飲まれそうになるが、当たり前だが私のせいではない。チガヤと出会ったのはたまたまであるし、海の魔女など会ったこともないし私自身に人魚の要素などない。あれば溺れかけるものか。
「ばっかじゃないの!!」
そして何より王宮の政治闘争など、私にはまったく興味もない話である。
「王宮が荒れるなら王が無能なんだわ!海の魔女だってそんな王が嫌で身投げしたんでしょうね!」
顔を近づけてくる王子が気持ち悪くてのけぞりながらも蹴りつける。だが肩は掴まれたまま、抵抗はまるで効いている気がしない。それどころか腕を回されて、さらに身動きがとれなくなる。まずい、と私は最悪の予想をした。
「はは、暴れるな。もう僕たちがやることはわかっただろう」
「やめて、触るな!」
「僕らに必要なのは既成事実」
その言葉に血の気がひく。処女でない聖女を弟に回すことはない、確実に自分が王になる提案。先ほどのベッドのある部屋に部下たちがいるのではないかと思うと吐き気がした。
「ドゥのことを気にしているのか?呼んであげてもいいよ」
「ふざけんなよ、気持ち悪いんだよ・・・!」
強い言葉を選ぶが、声は震えていた。喉がひきつって大声はでない。誰か来て欲しいが、船にいるのはきっと王子派の人間ばかりだろう。だが、ここで大人しくすることはできない。足を踏ん張って、王子へ体当たりするように体重をかける。助走はつけられなかったが、ちょうど船がうまく揺れて、王子の体勢は崩れた。
二人ともが転がり、メインマストにぶつかった。
打ち付けた背中を気にする暇もなく私は船のへりに縋り付いて、乗り越えようとした。
チガヤのもとへ行くことはできないかもしれない。チガヤは怪我がひどいかもしれないし怒ってしまったかもしれない。溺れるかもしれない。
だが、陸まで泳げるかもしれないし、逃げられるかもしれない。
「海の魔女の真似事か?大人しくしろ」
今迷っている暇はない、と海へ飛び込もうする私を、王子は後ろから簡単に拘束した。体力のない私が全力で暴れても剣術を嗜む王子に敵うはずもない。それでも船内に連れ込まれてしまっては終わりだ。金的を狙って足を振り回すぐらいしかできないが、命は取られないと思えば全力で抵抗はできた。
そんな二人の攻防に水を差したのは、なんとドゥだった。
「ビリーさま!すぐに避難を!」
「何事だ?!」
「船底から浸水が・・・!手の施しようがないと!この船は沈没します!」
息を切らしながらドゥは王子へ縋りついた。ドゥの後ろからバタバタと船乗りたちも出てきて、避難用の小舟らしきところへ向かって焦っている。
「うそっ沈むの早すぎる!」
「ふ、ふざけるな何故沈む!この船は僕の最新式の客船だぞ!」
慌ただしく行き来する人に飲まれて、がくんっと船が傾いていくのがわかった。斜めになって置かれていた道具たちがごろごろ転がっていくのは危なくて、私を拘束していた王子とドゥが雪だるま式に転がった。
私は二人を下敷きにして打ち身もなく、すぐ立ち上がる。
今しかない。私は海へ飛び込んだ。
(こっちのタイタニックごっこは最悪)
浮いた木板に縋り付くが、大した浮力はなさそうだ。船が傾いて人が降って来る。
少し遠くに小さな小舟にのった船長らしき人達がその光景を唖然と見つめていて、可哀そうなものだ。その中に王子とドゥがいるかどうかはわからない。それでも私は彼らに見つからぬように、と近づかなかった。
それが自殺行為だとしても、私には治癒魔法がある。案外なんとかなるかもしれない。少しばかり私はアドレナリンが無鉄砲になっているのだろう。
クジラのように大きく傾いて沈んでいく船。
そして船が沈むことでおこる波は私と小さな木板など簡単に飲み込み、泡とともに下へ下へ誘う。ぐるぐると海流のままに上下もわからなくなり、がむしゃらに手を動かして水をかいた。足にまとわりつくスカートが邪魔で仕方がない。
(酸素・・・!)
息を止めるのは苦しい。水圧でうっかり空気を吐いてしまっては浮上も難しい。光が差し込む海面へ手を伸ばすが、私の身体は沈んでいく。誰かに引きずり込まれているようだと思ったが、もうそこまで思考はまわらなかった。
意識が薄れていく中で私は立ち上る美しい泡と尾ヒレを見た。
「攫っちゃうことにしたよ、ごめんね」
地上で聞くのとは少し違う音。
唇に冷たいのか温かいのかわからない柔らかい感触。注がれた液体を私は抵抗なく飲み込んだ。
脈がはやくなり、私は残っていた酸素も咳き込むように全て吐いた。全身の関節が痛くて、治癒魔法をかけようかと迷ってしまった。だが暴れそうになる私を支えるように、痛くないように抱きしめる腕を信じてやめた。
「波に身を任せて」
なにが、と思ったが脚を優しく撫でられた。いや、脚じゃなかった。膝ってどこだっけ、私はうまく動かせない下半身に首を傾げた。力を抜くと、海流に押されてしまうが尾っぽの動かし方はなんだかわかった。それは流されてしまわないように手を握っていてくれたチガヤのおかげだ。
「チガヤ」
「ミヅキ、似合ってるね」
私の下半身はすっかり鱗に覆われていて、なんとも不器用な動きをしている。チガヤの長くて優雅な尾ヒレが羨ましい。でも、お揃いだと思った。
「チガヤの髪の毛、海の中では黒く見えるわ」
「鱗は対照的になった。ミヅキは白いね」
「私の声、どうなってる?」
「地上よりよく響いて嬉しい」
呼吸は苦しくない。首元に触れると鰓のような切れ目ができている。耳もなんだか形がちがう。あちこち触れる私に、チガヤは嬉しそうに腕を引っ張って泳ぎ方を教えてくれる。
「ねぇ、怪我は」
「海の魔女に薬を貰ったんだ」
彼の身体に傷は見当たらなかったが、私のせいで痛い思いをしただろうことは間違いない。ましてや薬がただなわけもない。
「気に病むなら、まずは後で船を沈没させてくれた人魚どもに挨拶しにいこう」
「お友達?」
「地上ではそういうの?」
海面はきっと人だらけでうるさいだろうに、海の中は静かなものだった。花が開くように水中で優しく広がるチガヤの声に耳を傾け、ぽつぽつと会話していれば、尾ヒレもしっかりと動くようになってくる。試すように手を離されたが、私が流されてしまうことはない。
「ねぇ、私一緒にいていいの」
「人魚はね、一度好きになったものはずっと好きなんだ」
「もう私、聖女とか、海の魔女とか、なんの肩書もないわ」
「人魚の執着をなめないでもらおうか」
私の尾ヒレに絡ませるようにしてチガヤの尾ヒレに拘束される。だが痛くもなくて、優しいばかりだった。ぐずる私に言い聞かせるように何度も言葉をくれた。
「冬の海が寂しいなら、暖かい海へ行こう、俺はどこでも生きられるから」
「うん、一緒にいたい。一緒にいて」
「もちろん。海でも地上でも、どこでも」
聖女らしい澄ました笑みではなくて、私は子供のように笑った。手を伸ばせばチガヤが掴み返してくれて、引っ張られるがまま、どこかへ向かう。海の地形などさっぱりな私は彼しか頼るものがない。だが彼はきっとなんでも教えてくれて、それでいて好奇心のままに一緒にいろんな体験をしてくれるはずだ。
「二本足が恋しくなったら二人で薬を貰いに行こう」
「ええ、私。海の魔女に会いたいわ」
母なる海の魔女に、お礼が言いたいのと私は慣れぬ尾びれで前進し、チガヤに寄り添った。
◆
・・・王宮と教会はどちらで 結婚式 をあげるか 大ゲンカ !
ビリー王子は ならば 海の上で結婚式をあげよう といいました
聖女さまは 海の魔女の子孫だ と言われているからです
ですが聖女さまは、本当は第二王子のことが好きだったのです
わたしは あなたと 結婚 しません !
はっきりと断られてしまったビリー王子は怒りました
そして 聖女さまを むりやり 船にのせてしまいました
聖女さまは 泣いてしまいます
すると波が たかくなり 船を のみこんで しまいます
わぁ 沈んでしまう 助けて
ビリー王子は聖女さまに言いました
ですが もう 聖女さま は 海の魔女のもとへ かえってしまいました
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第二王子が王となった治世にて、海の魔女の呪いという絵本は広く配布されることとなった。




