第1章 沈黙のなかの声
【あらすじ】
咳が止まらず受けた検査の結果は、思いがけないものでした。
定年後の穏やかな暮らしが始まるはずだった父は、
即日入院し、家族とともに“かけがえのない一週間”を過ごすことになります。
娘が手を握りかけた言葉、息子が仏壇に向けた独り言、
そして父の魂が感じていた静かな愛と願い。
生と死のあわいで交わされた、目には見えない想いの記録。
父が見せてくれたのは、「愛は、死を越えて続く」という真実でした。
― 入院のはじまりと、不器用な愛のかたち ―
2023年4月3日、月曜日の午後。
かかりつけ医での受診。
軽い咳、少しの倦怠感――ただの風邪だと思っていた。
けれど、医師の口から出たのは想定外の言葉だった。
「念のため、市民病院で検査を受けてください」
紹介状を手渡され、タクシーで向かう市民病院。
それは、静かに始まる「最期の一週間」だった。
検査は4時間。
疲労の中で告げられたのは「即日入院」。
「入院…か…」
自分でも驚くほど、投げやりな口調になった。
定年後の自由、家族との時間、趣味の再開。
「これから」が始まるはずだった。
それが一瞬で遠のく感覚――現実感は、まだ薄かった。
それでも、真っ先に浮かんだのは自分のことではなかった。
妻は大丈夫か。娘は無理していないか。
息子は、変わらずマイペースなんだろうか。
翌朝、病院のベッドから娘へLINEを送った。
「箸が無い。まだ病院に来ないの?」
本当は、もっと言いたかった。
「不安だよ」「ひとりは寂しい」
でも、そんなことは言えない性格だった。
不器用な自分。
それでも、娘はすぐに返してくれた。
「お母さん、もうすぐ行くと思うよ」
その短い言葉が、どれだけ心を安心させたか。
水を3本、持ってきてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
見舞いの言葉、看護師への説明、車の回収。
すべてをさりげなくやってのける娘に、心から思った。
「立派になったな」
言えなかったけれど、ずっと誇りに思っていた。
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日が経つごとに、病状は悪化していった。
熱が上がり、体は重くなり、食事も進まない。
看護師さんには言えなかった。
「つらいです」「助けてください」
そんな言葉を飲み込み、ただ耐えていた。
でも、娘は察してくれた。
「うちのお父さん、人見知りだから…」
「言えないだけで、本当はしんどいんだと思う」
――ああ、よく見てくれてる。
彼女の言葉や気づきが、何よりの支えだった。
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