第3話:初陣はゴブリン退治!~動き出す運命と師との出会い~
穏やかな日々は、そう長くは続かなかった。カインが六歳になった年の秋、アルトマイヤー領の辺境にある小さな村々で、不穏な噂が立ち始めたのだ。
夜中に家畜が姿を消す。丹精込めて育てた畑が荒らされる。そして、森の近くで遊んでいた子供たちが、緑色の肌をした小鬼のような化け物に脅かされる――。
ゴブリン。知能は低いものの、徒党を組んで悪さをする厄介な魔物だ。単体では大した脅威ではないが、数が増えると無視できない被害をもたらす。
領主である父ゲオルグは、領民からの訴えを受け、数名の領兵を派遣した。しかし、ゴブリンたちは狡猾で、兵士たちが現れるとすぐに森の奥へと姿をくらまし、いなくなると再び村を襲う、ということを繰り返していた。被害は一向に収まらず、領民たちの間には不安と不満が募っていく。
父の眉間の皺は日に日に深くなり、屋敷の空気も重苦しいものになっていた。
カインは、そんな状況を歯がゆい思いで見つめていた。今の自分に何ができるだろうか?【万物育成】の力は確かに強力だが、それで直接ゴブリンを撃退できるわけではない。
だが、エルクは日に日に逞しく成長し、その嗅覚や運動能力は並の猟犬を遥かに凌駕していた。リリアナもまた、カインがこっそりと「育成」の手助けをしていたこともあり、森での自主訓練で目覚ましい剣の腕の上達を見せていた。
(俺たちなら……あるいは)
カインは決意した。領主の子として、そしてこの土地を愛する者として、これ以上被害が広がるのを座視しているわけにはいかない。
彼はリリアナの元を訪れ、自分の考えを打ち明けた。
「リリアナ、お願いがあるんだ。僕と一緒に、ゴブリンの巣を探して、退治するのを手伝ってくれないか?」
リリアナは、カインの突然の申し出に目を丸くした。自分たちのような子供だけでゴブリンを退治するというのは、あまりにも無謀に聞こえたからだ。
「カイン様……それは、危険すぎます。私たちだけでは……」
「エルクもいる。それに、リリアナの剣の腕なら、きっと大丈夫だ。僕も、僕にできることで全力でサポートする」
カインの真剣な眼差しに、リリアナは息を呑んだ。彼がただの気まぐれや、子供の英雄ごっこで言っているのではないことを悟ったのだ。そして、自分を頼ってくれているという事実が、彼女の心を強く揺さぶった。
「……分かりました。カイン様がそこまでおっしゃるなら、私も力を貸します。私の剣で、カイン様と、領民の方々をお守りします」
リリアナは、真っ直ぐな瞳でカインを見つめ、力強く頷いた。こうして、わずか六歳と八歳の少年少女、そして一匹の幼獣による、秘密のゴブリン討伐作戦が始まったのである。
翌早朝、カインとリリアナはエルクを伴い、ゴブリンの目撃情報が最も多い森の奥深くへと足を踏み入れた。エルクは、まるで熟練の猟師のように地面の匂いを嗅ぎ、微かな痕跡を辿っていく。
数時間後、エルクはある洞窟の前で立ち止まり、低く唸り声を上げた。洞窟の入り口には、獣の骨や汚物が散乱しており、中からはゴブリン特有の不快な臭いが漂ってくる。間違いなく、ここが奴らの巣だ。
カインは、事前に用意していたものをリリアナに手渡した。それは、彼が【万物育成】の力で強化した手製の武器だった。リリアナには、古い納屋で見つけた錆びついた短剣を磨き上げ、「育成」して切れ味と耐久性を向上させたものを。カイン自身は、森で拾った硬い木の枝を「育成」し、先端を鋭く尖らせた短い杖を手にしていた。さらに、周囲に簡単な罠を仕掛け、それらもスキルで強化した。
「準備はいい?」
カインの問いに、リリアナはこくりと頷く。緊張で顔は強張っていたが、その瞳には強い決意が宿っていた。
カインが合図すると、エルクが先陣を切って洞窟の中へと飛び込んでいく。すぐに、奥からゴブリンたちの甲高い叫び声と、エルクの勇ましい咆哮が聞こえてきた。
「行くぞ!」
カインとリリアナも、エルクに続いて洞窟へと突入する。
洞窟の中は薄暗く、松明を持った数匹のゴブリンが、棍棒や粗末な石斧を振り回しながらエルクに襲いかかっていた。エルクは、その小柄な体躯からは想像もできないほどの俊敏さで攻撃をかわし、鋭い牙でゴブリンの喉笛や手足に的確に噛みついていく。
「リリアナ、右!」
カインの声に、リリアナは鋭く反応し、右から襲いかかってきたゴブリンの棍棒を短剣で弾き、返す刃でその喉を切り裂いた。緑色の血が噴き出し、ゴブリンは断末魔の叫びを上げてどうと倒れる。
リリアナは、初めて自分の手で生き物を殺めた衝撃に、一瞬動きを止めた。その顔は蒼白になっている。
「リリアナ、しっかりしろ!奴らは敵だ!」
カインの叱咤に近い声で、リリアナはハッと我に返った。そうだ、今は感傷に浸っている場合ではない。目の前の敵を倒さなければ、自分たちがやられてしまう。そして、領民たちを守ることもできない。
カインもまた、初めて間近で見る「死」の光景に、吐き気を催しそうになるのを必死で堪えていた。ゴブリンとはいえ、それは紛れもなく生命の終焉だった。しかし、ここで怯むわけにはいかない。彼は後方から指示を出し、育成した石つぶてをゴブリンの顔面に投げつけたり、リリアナやエルクが負った浅い傷を【万物育成】で即座に治療したりと、懸命に二人をサポートした。
戦いは熾烈を極めた。エルクの牙が閃き、リリアナの短剣が舞う。カインの的確なサポートが、二人の力を最大限に引き出していた。
やがて、洞窟の奥から一際大きなゴブリン――おそらくこの巣のリーダー格であるホブゴブリンだろう――が、巨大な棍棒を振り回しながら姿を現した。その力は他のゴブリンとは段違いで、エルクの一撃を弾き返し、リリアナを窮地に追い込む。
「くっ……!」
リリアナがホブゴブリンの薙ぎ払いを辛うじて避けた瞬間、カインは持っていた杖を槍のように突き出し、ホブゴブリンの脇腹を力任せに貫いた。
「グギャアアアアッ!」
凄まじい絶叫を上げ、ホブゴブリンが怯んだ隙をエルクが見逃すはずもなかった。稲妻のような速さで飛びかかり、その太い首筋に牙を突き立てる。勝負は決した。
リーダーを失ったゴブリンたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、洞窟の中には静寂が戻った。残されたのは、数体のゴブリンの死体と、荒い息をつくカイン、リリアナ、そしてエルクだけだった。
ゴブリンの脅威が去ったことで、村には安堵の空気が広がった。誰がゴブリンを討伐したのかは結局謎のままだったが、「森の守り神様が現れて、悪いゴブリンをやっつけてくれたんだ」という噂が、子供たちの間でまことしやかに囁かれるようになった。
それから数日後のこと。カインとリリアナが、先のゴブリン戦の反省を踏まえ、森で剣の稽古に励んでいると、不意に背後から静かな声がかけられた。
「ほう、なかなか見所のある動きだ。お前たちが、先のゴブリンを狩った子供らか?」
振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。歳の頃は六十を過ぎているだろうか。くたびれた外套を羽織り、腰には鞘に納まった長剣を差している。一見するとただの貧しい流れ者のようにも見えるが、その佇まいには、長年戦場を渡り歩いてきた者だけが持つ独特の風格と、鋭い眼光が宿っていた。
カインは警戒心を抱きつつも、この老人からは不思議と敵意を感じなかった。むしろ、どこか懐かしさすら覚えるような、不思議な感覚があった。
「……はい。俺たちが、ゴブリンを退治しました」
嘘はつけないと判断し、カインは正直に答えた。
老人は、カインとリリアナ、そして彼らの傍らに控えるエルクをじろりと観察するように見つめ、やがてフッと口元に笑みを浮かべた。
「儂はバルド・ゲーリング。かつては王国騎士団に籍を置いていたが、今はしがない隠居爺さ。お前たちの噂を聞いて、少し興味が湧いてな」
バルドと名乗った老人は、カインの冷静な判断力、リリアナの荒削りながらも光る剣才、そしてエルクの明らかに普通の獣とは異なる特異性を見抜いていた。
「どうだ、一つ儂と手合わせ願えんか? お前たちの力が本物かどうか、この目で見極めてみたい」
カインとリリアナは顔を見合わせ、頷き合う。この老人が只者ではないことは明らかだった。彼から何かを学べるかもしれない。
「「お願いします!」」
二人は木剣を構え、同時にバルドへと打ちかかった。しかし、バルドは腰に差した長剣を抜くこともなく、そこらに落ちていた手頃な木の枝一本で、二人の攻撃を軽々といなし、時には鋭い反撃を繰り出してくる。その動きには一切の無駄がなく、カインとリリアナは手も足も出ない。
それでも二人は諦めなかった。何度も打ちかかり、互いを庇い合い、知恵を絞ってバルドに一太刀でも浴びせようと食らいつく。
やがて、日が傾き始めた頃、バルドはふっと木の枝を下ろした。
「そこまでだ。……ふん、まだまだ雛鳥だが、その心意気や良し」
バルドは満足そうに頷くと、カインとリリアナに向かって言った。
「お前たちに、儂の知る全てを教えてやろう。剣術、戦術、そしてこの乱世を生き抜くための術をな。ただし、儂の稽古は厳しいぞ。覚悟はあるか?」
カインとリリアナは、泥と汗にまみれながらも、力強く頷いた。
「「はい、お願いします、師匠!」」
こうして、カイン・フォン・アルトマイヤーとリリアナ・シルヴァーストーンは、元王国騎士団副団長という輝かしい経歴を持つ老騎士、バルド・ゲーリングに師事することになった。それは、彼らの運命を大きく変える出会いであった。
バルドの指導は、噂通り厳しかった。基礎体力作りから始まり、剣の型、実戦形式の組手、さらには座学による戦術論まで、叩き込まれる知識と技術は膨大だった。エルクもまた、バルドから戦闘獣としての動き方や、カインとの連携について指導を受けるようになった。
父ゲオルグは、ゴブリン被害が完全に収まったことと、カインがあのバルド老人に師事していると聞いて、驚きを隠せない様子だった。以前は諦観の色が濃かった彼の目に、最近はカインを見るたびに何か複雑な感情が宿るようになっていた。
長兄ダリウスと次兄クラウスは、「出来損ないが、得体の知れない爺さんとつるんで、騎士の真似事か」と相変わらずカインを嘲笑していたが、カインはもう彼らの言葉を気にも留めなかった。
姉のセシリアは、カインの最近の行動に驚いているようだったが、まだ素直にそれを認めることはできず、遠巻きに見ているだけだった。
しかし、領民たちの間では、カインとリリアナ、そしてエルクに対する感謝と尊敬の念が、静かに、しかし確実に広まり始めていた。
アルトマイヤー領の片隅で、小さな歯車が、確かに動き始めていた。それはやがて、カイン自身の、そしてこの領地の運命をも大きく変えていくことになるのだが、今の彼にはまだ知る由もなかった。