第2話:痩せた大地と騎士の卵~育成スキルの可能性~
洗礼の儀から数日が過ぎた。カインは、授かったユニークスキル【万物育成】の本格的な検証と実験を始めていた。前世の記憶を持つ彼は、この力がどれほど規格外で、そして貴重なものであるかを痛いほど理解していた。下手に知られれば、良からぬ企みを持つ者たちに利用されるか、最悪の場合、異端として排除される可能性だってある。
だからこそ、カインの実験は極秘裏に進められた。
まず彼が目をつけたのは、屋敷の裏手にある、今はもう使われていない小さな菜園だった。かつてはハーブや野菜が育てられていたらしいが、今は雑草が生い茂るばかりの荒れ地だ。
カインは昼間、兄たちの目を盗んで菜園に赴き、持ってきた数種類の野菜の種を地面に蒔いた。そして、一つ一つの種にそっと触れ、【万物育成】の力を注ぎ込む。指先から温かいものが流れ込み、自身の何かが少しずつ消費されていく感覚。同時に、種の持つ生命力や、発芽に必要な要素が脳裏に流れ込んでくる。
「育て、強く、豊かに……」
祈るように念じると、種は微かに輝きを放ったように見えた。
それからの数日間、カインは毎日こっそりと菜園の様子を見に行った。結果は、驚くべきものだった。
通常なら発芽までに数日かかる種が、翌日には小さな芽を出し、三日も経てば双葉がしっかりと開いていたのだ。成長速度も異常としか言いようがない。まるで早送り映像を見ているかのように、ぐんぐんと茎を伸ばし、葉を茂らせていく。
一週間後には、いくつかの野菜はもう収穫できるほどにまで成長していた。カインがこっそり一つをかじってみると、みずみずしさと濃厚な甘みが口の中に広がり、思わず目を見開いた。前世で食べたどんな高級野菜よりも美味しく感じられた。栄養価も格段に向上しているに違いない。
「これなら……!」
確かな手応えを感じたカインは、次なる段階へと進むことにした。
夜、家族が寝静まったのを見計らって、カインは屋敷を抜け出した。月の光だけが頼りの暗い道を、小さな体で慎重に進む。目指すは、領民たちが耕す畑だ。
アルトマイヤー領の土地は痩せており、作物の収穫量は年々減少していた。領民たちの生活は苦しく、その表情はいつも暗い。
カインは、いくつかの畑を選び、植えられている作物――主に小麦や芋類だった――に【万物育成】の力を注いで回った。一度に広範囲を育成することはまだ難しく、一つの株、一つの区画に集中する必要があったが、それでもカインは夜ごと作業を続けた。
スキルを使うと、体から何かが失われる感覚がある。おそらく魔力なのだろうが、魔力なしと判定されたカインにとって、それは自身の生命力の一部を削っているような感覚にも近かった。しかし、一晩眠れば不思議と消耗した力は回復しており、今のところ体に大きな負担はなさそうだった。
数週間もすると、領内で奇妙な噂が立ち始めた。
「おい、聞いたか? 最近、うちの畑の作物の育ちが妙に良いんだ」
「ああ、うちもだ。病害も少ないし、なんだか実りも良さそうだぞ」
「これはきっと、神官様が豊穣の祈りを捧げてくださったおかげだな!」
領民たちは、作物の生育の良さを喜び、口々に神への感謝を捧げていた。もちろん、それが五歳の、しかも「出来損ない」と蔑まれる貴族の三男坊の仕業だとは、誰も夢にも思わなかった。
カインはそれを知って、こっそりと胸を撫で下ろし、同時にささやかな達成感を覚えていた。自分の力が、少しでも人々の役に立っている。その事実が、カインの心を温かくした。
そんなある日の昼下がり、カインは自身の体力向上も目指し、屋敷を抜け出して森へと向かっていた。【万物育成】は、生物だけでなく自分自身にも効果があることを見出していたのだ。毎日少しずつ自分の体にスキルを使い、基礎体力の「育成」を試みていた。すぐに効果が出るわけではないが、以前よりも体が軽くなったような気がする。
森の中は、カインにとって格好の訓練場所だった。人目につかず、思う存分体を動かせる。父からまともに教えてもらえなかった木剣の素振りも、ここでなら誰にも笑われずに練習できた。
その日も、森の少し開けた場所で木剣を振るっていると、ふいに茂みの奥から人の気配がした。
「誰だ!?」
カインが身構えると、ガサリと音を立てて姿を現したのは、彼よりも少し年上に見える一人の少女だった。
陽光を反射してきらめく美しい銀色の髪を無造服に束ね、手にはカインと同じように使い古された木剣を握っている。歳は七つか八つだろうか。切れ長の青い瞳は真剣そのもので、額には汗が滲んでいた。
「……あなたも、訓練?」
少女は、カインの姿と手にした木剣を交互に見て、少し警戒したように尋ねた。
「う、うん。君も?」
「ええ。ここは静かで、集中できるから」
少女はリリアナ・シルヴァーストーンと名乗った。聞けば、彼女の家もまた、没落した騎士爵家なのだという。かつてはアルトマイヤー家に仕えていたが、今は領地の片隅で細々と暮らしているらしい。
「騎士になりたいの?」
カインが尋ねると、リリアナの表情がふっと曇った。
「……なりたかった、わ。でも、うちにはもう道場に通わせるお金もないし、母も病気がちで……。私が働かないと」
その声には、諦めと悔しさが滲んでいた。彼女の剣筋には、素人目にも分かるほどの才能の片鱗が見えた。おそらく、正しい指導を受ければ、素晴らしい騎士になるだろう。その才能が、家の事情で埋もれてしまうのはあまりにも惜しい。
カインは、目の前の少女にかつての自分を重ねていたのかもしれない。才能がないと決めつけられ、誰からも期待されない日々。
(この子なら……)
カインは、そっとリリアナに意識を集中し、【万物育成】の力を彼女の「剣の才能」に向けて発動してみた。直接的な変化はリリアナには感じられないだろう。だが、カインには、彼女の中に眠る才能の原石が、より一層強く輝きを増したように見えた。
「諦めるのは、まだ早いんじゃないかな」
カインがぽつりと言うと、リリアナは驚いたように彼を見つめた。
「え……?」
「だって、君の剣、すごく綺麗だ。きっと、すごい騎士になれるよ」
根拠のない言葉だったかもしれない。だが、カインの真摯な瞳に、リリアナは何かを感じ取ったようだった。彼女の頬が微かに赤らみ、俯いてしまう。
「……ありがとう」
小さな声だったが、そこには確かな響きがあった。
この日を境に、カインとリリアナは時々森で顔を合わせるようになった。一緒に訓練をするわけではないが、互いの存在を意識し、短い言葉を交わす。それはカインにとって、初めての「友達」と呼べる存在との出会いだったのかもしれない。
それからさらに数週間が過ぎた頃、カインは新たな出会いを果たすことになる。
その日、カインは薬草の「育成」実験のため、いつもより森の奥深くまで分け入っていた。すると、どこからか獣の苦しそうな呻き声が聞こえてきた。
(なんだろう?)
カインは慎重に声のする方へと近づいていく。
茂みをかき分けた先で彼が見たのは、地面に仕掛けられた古い罠にかかり、足から血を流してぐったりとしている一匹の幼い獣だった。大きさは子犬ほどで、灰色の毛皮に覆われている。一見すると狼の子のようにも見えたが、どこか精悍な顔つきをしている。
その瞳は苦痛に歪みながらも、まだ生きようとする強い意志の光を宿していた。
「ひどい……誰がこんな罠を」
カインは迷わずその獣に駆け寄り、そっと【万物育成】の力を注いだ。傷口の治癒を促進し、失われた体力を補うように念じる。温かい光が獣を包み込み、傷口からの出血が徐々に止まっていくのが分かった。
スキルを使い終えると、獣はゆっくりと目を開け、カインの顔をじっと見つめた。その黒曜石のような瞳には、もう警戒の色はなく、代わりに戸惑いと、そして微かな感謝の色が浮かんでいるようにカインには思えた。
カインは懐から、護身用に持っていた干し肉を取り出し、小さくちぎって獣の口元へと差し出す。獣は最初ためらっていたが、やがておずおずとそれを口にし、ゆっくりと咀嚼し始めた。
「もう大丈夫だよ。元気でな」
カインはそう言って、その場を立ち去ろうとした。しかし、数歩進んだところで、後ろからトコトコと軽い足音がついてくるのに気づく。振り返ると、先ほどの獣が、まだ少しおぼつかない足取りで、カインの後を追ってきていた。
「え? ついてくるのか?」
カインがしゃがみ込むと、獣は彼の足元にすり寄り、クゥンと甘えたような声を漏らした。どうやら、すっかり懐かれてしまったらしい。
カインは苦笑しつつも、その愛らしい姿に心が温かくなるのを感じた。この孤独な異世界で、初めて自分を頼ってくれる存在。
「よし、お前は今日からエルクだ」
カインはその灰色の獣にそう名付けた。エルクは、まるでその名を理解したかのように、嬉しそうにカインの手に鼻先をこすりつけた。こうしてカインは、秘密の相棒を得ることになったのだ。
痩せた大地には、まだ微かではあるが再生の兆しが見え始めていた。騎士の夢を諦めかけていた少女とは、ささやかな友情が芽生えた。そして、頼もしい相棒もできた。
カイン・フォン・アルトマイヤーの異世界生活は、まだ始まったばかりだ。しかし、彼の心は、以前のような絶望ではなく、未来への確かな希望と、ささやかな期待で満たされ始めていた。
エルクはカインの傍らで、日に日にその体を大きくし、その瞳には知性の光が宿り始めていた。そして、時折森で会うリリアナの振るう木剣のキレは、カインの目から見ても明らかに鋭さを増しているように感じられた。【万物育成】スキルは、確かにカインの周りで小さな奇跡を起こし始めていたのだ。