第1話:目覚めたら異世界、そして手にした『万物育成』スキル
意識が浮上する。いや、正確には叩き起こされた、という方が近いかもしれない。
ごう、と地鳴りのような音が鼓膜を震わせ、次の瞬間には体が宙を舞っていた。受け身を取る暇もなくアスファルトに叩きつけられ、骨の砕ける鈍い音と、視界を赤く染める衝撃。薄れゆく意識の中で最後に聞こえたのは、甲高いブレーキ音と誰かの悲鳴だった。
(ああ、俺、死ぬのか……呆気ないもんだな……)
平凡な大学生、相馬海斗としての人生は、どうやらここで終わるらしい。もう少し、まともな人生を送りたかった、などと詮無いことを考えながら、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
次に目覚めた時、俺は赤ん坊になっていた。
何を言っているのか分からないかもしれないが、事実なのだから仕方がない。
最初はひどく混乱した。視界はぼやけ、手足は思うように動かせず、言葉は意味をなさない叫びとしてしか発せられない。ただ、本能的に母親らしき温もりに包まれ、乳を吸うことしかできなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。徐々に周囲の状況が理解できるようになってくると、俺は自分が異世界に転生したのだという、にわかには信じがたい結論に至らざるを得なかった。
俺が転生したのは、カイン・フォン・アルトマイヤーという名の赤ん坊。エルドラド大陸という剣と魔法が存在する世界の、ヴァレンシア王国に属する辺境貴族、アルトマイヤー家の三男として生を受けたらしい。
「らしい」というのは、赤ん坊の未熟な脳では、周囲の会話から断片的に情報を拾い集めることしかできなかったからだ。
そして、俺ことカインが物心つく頃には、アルトマイヤー家の現状が、お世辞にも芳しくないことを理解していた。
屋敷は古びており、あちこちに傷みが見える。かつては多くの使用人がいたのだろうが、今では数えるほどしかおらず、彼らもどこか疲弊した表情をしていた。食事の質も貴族のものとは思えないほど質素で、時にはパンと薄いスープだけ、なんて日もあった。
聞けばアルトマイヤー家は、かつては武勇に優れた騎士を多く輩出し、王家からも信頼の厚い名門だったという。しかし、数代前の当主が事業に失敗し、さらに先代当主が流行り病で早逝したことで、急速に没落の一途を辿っているらしかった。
現在の当主である父、ゲオルグ・フォン・アルトマイヤーは、真面目ではあるが悪く言えば凡庸な人物で、傾きかけた家を立て直す才覚には恵まれていないようだった。ただ、その表情には諦観の色が濃く、俺たち子供に対してもどこか無関心に見えた。
そんなアルトマイヤー家において、三男である俺の立場は、さらに厳しいものだった。
この世界では、貴族の子は幼い頃に魔力量を測定され、その後の教育方針が決められる。そして俺は、三歳で行われた魔力測定で、「魔力なし」という判定を下されたのだ。
いや、正確には「一般人の子供よりも僅かに少ない」という、貴族としては絶望的な結果だった。魔法使いはおろか、騎士として身体能力を強化する魔力さえも期待できない、と。
さらに追い打ちをかけるように、剣の才能も皆無だった。長兄のダリウス、次兄のクラウスは、それなりに魔力量もあり、幼いながらも剣の稽古では筋の良さを見せていた。それに比べて俺は、木剣を振るってもすぐに息が上がり、何度教えてもらっても型の一つすらまともに覚えられない。
結果、俺には「出来損ない」という不名誉なレッテルが貼られた。
母であるイザベラは、俺を見るたびにため息をつき、その視線は冷ややかだった。彼女にとっては、家の再興の駒にもなれない俺は、ただの厄介者でしかないのだろう。
兄たちはあからさまに俺を見下し、時には直接的な嫌がらせをしてくることもあった。
五歳上の姉、セシリアは、魔法の才能こそあったものの、俺に対しては兄たちと同様に軽蔑の眼差しを向けていた。「あなたみたいな出来損ないと一緒に出歩くだけで恥ずかしいわ」と面と向かって言われた時の悔しさは、今でも忘れられない。
唯一、父だけは俺を蔑むことはなかったが、それは優しさというより、やはり無関心ゆえだろう。
屋敷の中で、俺は常に孤独だった。誰からも期待されず、愛されず、ただ息をしているだけの存在。前世の記憶がある分、その疎外感は幼い心にはあまりにも堪えた。何度も「こんなところに転生するくらいなら、死んだままの方がマシだった」と思ったことか。
そんな絶望的な日々が続いていたある日、俺が五歳になった年のこと。洗礼の儀式が行われることになった。
貴族の子は五歳になると、教会で正式な洗礼を受け、神の祝福を賜るという。もっとも、今のアルトマイヤー家に立派な儀式を執り行う余裕はなく、領地内の小さな教会で、家族と数人の領民が見守る中、簡素に行われた。
年老いた神官が、古びた聖書を読み上げ、祈りを捧げる。そして、聖油が塗られた彼の指が、俺の額に触れた。
その瞬間だった。
ズキンッ!
まるで頭を内側から殴られたような衝撃と共に、脳内に膨大な情報が流れ込んできた。それは、相馬海斗として生きた二十年間の記憶。楽しかったことも、辛かったことも、その全てが生々しく蘇り、幼いカインの精神を激しく揺さぶった。
「ぐ……うぅ……っ!」
思わずうめき声を上げ、その場に膝をつく。あまりの激痛と情報の奔流に、意識が飛びそうになる。
「カイン!? どうしたのだ!」
父の驚いたような声が遠くに聞こえる。だが、それに応える余裕はなかった。
そして、前世の記憶が整理され、カインとしての今の意識と統合されようとした、まさにその時。
脳内に、直接声が響いた。いや、声というよりは、もっと無機質な、システムメッセージのようなものだった。
《個体名カイン・フォン・アルトマイヤーへの祝福を確認。ユニークスキル【万物育成】を授与します》
「……え?」
頭痛の余韻と混乱の中で、俺は確かにその「声」を聞いた。
ユニークスキル? 万物育成? それは一体……?
《スキル【万物育成】……対象としたあらゆるものの質を向上させ、潜在能力を引き出し、成長を促進させる能力です。植物、動物、鉱物、道具、さらには人間の才能や土地そのものに至るまで、育成可能です》
淡々と、しかし明確に、スキルの内容が頭の中に流れ込んでくる。
儀式は何とか滞りなく終わり、俺はふらふらになりながらも自室へと戻った。父や母は俺の体調を心配するでもなく、「魔力なしの出来損ないは、儀式一つまともに受けられんのか」と兄たちが嘲笑する声が聞こえたが、今の俺にはどうでもよかった。
部屋に戻り、震える手でドアを閉めると、ベッドに倒れ込む。
(スキル……万物育成……これが、俺の……?)
半信半疑だった。しかし、脳裏にはっきりと刻まれたスキルの説明は、あまりにも具体的で、都合の良い夢物語とは思えなかった。
もし、これが本当なら……。
俺はゆっくりと体を起こし、窓際に置かれた小さな鉢植えに目を向けた。それは、以前侍女が気まぐれで置いていったもので、ろくに世話もされず、葉は黄色く変色し、枯れかけている。
これなら、失敗しても誰にも迷惑はかからないだろう。
俺は鉢植えに近づき、恐る恐るその枯れかけた葉に指先で触れた。そして、意識を集中し、心の中で念じる。
――育て、と。
すると、どうだろう。
指先から、何か温かいものが植物へと流れ込んでいくような感覚があった。それは魔力なのだろうか、それとも生命力のようなものだろうか。自分でもよく分からないが、確かに何かが消費されているのを感じる。
同時に、目の前の植物の状態が、まるで詳細なデータのように頭の中に流れ込んできた。水分不足、栄養不足、病害の兆候……。
そして、次の瞬間。
枯れかけていた葉が、みるみるうちに緑を取り戻し始めたではないか! 最初はゆっくりと、しかし確実に、それは生気を取り戻し、萎れていた茎がしゃんと背を伸ばし、ついには数分前まで枯死寸前だったとは思えないほど、青々とした瑞々しい葉を茂らせたのだ。
「……すごい……」
思わず、声が漏れた。目の前で起きた奇跡に、ただただ圧倒される。
震える手で、もう一度その葉に触れてみる。ひんやりとした感触と、力強い生命力が伝わってくる。間違いなく、このスキルは本物だ。
俺は、出来損ないなんかじゃなかった。俺には、この世界で唯一無二かもしれない、特別な力がある!
興奮が全身を駆け巡り、抑えきれない喜びがこみ上げてくる。
次に、夕食で出されたパサパサのパンの欠片を手に取り、同じように【万物育成】を試してみた。すると、パンはふっくらと柔らかくなり、ほんのりと甘い香りを漂わせ始めた。少量口に含むと、明らかに味が良くなっているのが分かる。栄養価も向上しているような、そんな感覚があった。
(これなら……この力があれば……!)
痩せ細ったこのアルトマイヤーの領地を豊かにできるかもしれない。飢えに苦しむ領民たちを救えるかもしれない。そして、俺自身の運命も、この手で変えることができるかもしれない。
暗く淀んでいた視界が、一気に開けたような気がした。
もちろん、すぐに全てが上手くいくとは思わない。この力をどう使い、どう見せるか、慎重に考えなければならないだろう。目立ちすぎれば、良からぬ輩に目をつけられるかもしれない。
だが、それでも。俺の心には、確かな希望の光が灯っていた。
(まずは、この痩せた土地を……いや、俺自身の運命を、「育成」してやろうじゃないか!)
カイン・フォン・アルトマイヤーとしての新たな人生が、今、まさに始まろうとしていた。窓の外には、夕焼けに染まる寂れた領地が広がっていたが、今の俺には、それが輝かしい未来への第一歩のように見えた。