01.水竜のたまご
穏やかな春の日。柔らかな陽射しが、地上のいたる所に降り注ぐ。
ここは、ラフェーリアと呼ばれるエリア。そのほぼ中央にある、ウィカブと呼ばれる湖だ。
周囲は深い森に囲まれ、海と見まごう程に大きなその湖には、水竜の夫婦が棲んでいる。
青みがかった銀の鱗は美しく輝き、濃いその双眸はサファイアのようだ。
このエリアに、人間が来ることはない。だが、もし人間が彼らの姿を見れば、あまりのきらめきに息を飲むだろう。
とある場所に巣を作り、その中で身体を横たえる水竜の腹の下には、たまごが二つ。じき殻にひびが入り、中からかわいらしい顔を覗かせるはずだ。
それを水竜……じき母となるスィーディラスは、とても心待ちにしている。
もうすぐ……もうすぐ、子ども達の顔を見られる。
我が子のことを考えて嬉しくなると同時に、スィーディラスは不安を心から追い出すことができないでいた。
殻が割れて我が子が現れる時、ジェスファードは間に合うかしら。
父になる喜びを隠しきれないジェスファード。彼は今、最近少し体調を崩している妻に「何か力のつく物を」とあちこち飛び回っていた。
スィーディラスは「生まれてからでいい」と何度も言ったのに、夫は「子ども達には元気な姿の母を見せたいから」と言って出掛けたのだ。
スィーディラスにすれば、両親がそろった状態で子ども達と会いたいのに。
手ぶらでもいいから、早く戻って来てほしい。そばにいてほしい。
スィーディラスは、夫の帰りと子どもの誕生を、ひたすら待っていた。
そんな彼女の耳に、何かが叫んでいるような声が飛び込んでくる。
「何かしら……」
獣達がエサの取り合いでもしているのだろうか。声は複数ではないようだから、弱い者が強い者に対して必死に抵抗しようとしているのかも知れない。
悲鳴のような声は、すぐ近くから聞こえてくるようだ。
生まれた子に、いきなり争い事などは見せたくないわ。いくら淘汰される存在があるというのが自然でも、それを最初に教えなくても……。
スィーディラスは様子を見るため、巣を出た。さっきから何度も声がしている方へと進む。
「……猿?」
草の陰で、猿の姿をした魔物が一匹でわめいていた。声の主は、この魔物のようだ。
熊とあまり変わらない大きさの身体。身体を覆う長い毛は、汚れたような茶色。長い手。血走った目。あまり差し向かいでの会話はしたくない姿だ。
どうやら、声を出しているのはこの魔物一匹だけのようだった。
見ている限り、そばにケンカ相手がいるでもなく、仲間を呼ぼうとしているのでもない。どこかケガをして苦しんでいる、というのでもなさそうだ。
とにかく、騒音を出すことを楽しんでいる様子だった。
「静かにしてもらえないかしら。もうすぐ子どもが生まれるの」
スィーディラスは、猿顔の魔物に頼んだ。
魔物は水竜の顔を見上げて「うるせぇな」とでも言いたげに、また鳴いた。だが、ケンカをふっかけて勝てる相手でもないので、その場から走り去る。
ほっとして、スィーディラスは巣へ戻った。
あんな魔物、この辺りにいたかしら。森の奥にいた魔物が、こちらへ出て来たのかも。
全ての魔物を把握している訳ではないし、たまたま知らないだけだろう、と思いながら戻ったスィーディラスは、巣の中を見て愕然となる。
たまごが一つしかないのだ。
慌てて周囲を見回すと、さっきの魔物と似たような後ろ姿がある。片方の手で、何かを小脇に抱えているのがわかった。
うっすらと青く、丸いもの。
水竜のわずかな留守を狙った、たまご泥棒だ。
「私の子を返しなさいっ」
泥棒魔物を追いながら、スィーディラスは小さな水滴を氷の粒にして飛ばした。
本当なら、水の勢いだけで相手を転ばせることもできるが、それでたまごが割れては困る。
竜のたまごは落としたくらいで割れるような、やわな殻ではないが、わずかな傷一つも付いてほしくない。
相手が氷の当たった痛みで恐れをなし、たまごを置いてくれればよかった。
狙い通り、魔物は頭や背中に氷の粒を受け、たまごを持って走るのは不利、と判断したようだ。
たまごを放って、魔物は一目散に逃げて行く。
スィーディラスは転がったたまごを、そっと持ち上げた。幸い、割れていない。ひびも入っていなかった。
こうして見たところ、外傷はなかったようだが、子どもが中で目を回してはいないだろうか。
「さぁ、帰りましょうね」
愛おしそうにたまごを抱え、巣に戻ったスィーディラスは、今度こそ息が止まるかと思った。
残っていたはずのたまごが、巣から消えているのだ。
まさか……まさか、最初の声も、たまごを持って逃げたのも、囮?
耳障りな声で水竜を巣から離れさせ、その間にたまごを持ち去る。
でも、相手はまだ本気ではなかった。
一つ目のたまごを取り返すことに気を取られている間に、今度こそもう一つのたまごを持ち去ったのだ。
森には群れで度を超した悪さをする魔物がいる、というのは聞いている。まさかと思いたいが、それがあの猿顔の魔物。
最初から全て、複数の魔物による連係プレーだったのだ。
しかし、いくら悪さをするとは言え、よりにもよって竜のたまごを盗むとは思ってもみなかった。
もう巣にたまごを置くことはしない。スィーディラスはたまごを抱えたまま、周囲を見回す。
そんな彼女の目の端に、森の中へ走って行く姿が映った。
さっきと同じ姿の魔物だ。たまごも持っている。
やはり、複数でやっていたのだ。
「待ちなさい! 私の子をどうするつもりなの。返しなさいっ」
スィーディラスは同じように、森へ飛び込む。
この際、大きな身体で木が何本も折れてしまうのを、気にする余裕はなかった。遠慮していたら、魔物を見失ってしまう。
たまごを、我が子を見失ってしまう。
だが、ある地点まで来た時。
魔物が木の陰に入った途端、その姿が完全に消えた。
「え……どうして……」
気配も何もない。木の陰以外に隠れるような場所などないが、魔物はいなくなっている。
もちろん、たまごも一緒に。
「どこ……どこなのっ。私の……私の子を返して!」
しかし、気配は消えたまま。静かに風が通りすぎるだけ。
「いやーっ!」
スィーディラスの悲鳴が森中に響き渡った。
☆☆☆
水竜のたまごを盗んだ猿顔の魔物は、魔法が使える訳ではない。普通の猿よりも身体が大きく、力が強い、というだけ。
そんな魔物がなぜ消えたか、と言うと……。
魔物は意図せず「戻らずの穴」に入り込んでいたのだ。
水竜のたまごや子どもを取って喰う、というつもりは彼らにはなかった。
悪知恵だけは働く魔物達は、もうすぐ家族が増える幸せに満たされている水竜夫妻を、ちょっと困らせたかっただけなのだ。
騒ぐ役。一つ目のたまごを盗んで、すぐに返す役。二つ目のたまごを盗み、水竜をさらに慌てさせる役。
大きな竜が慌てふためくのを見て楽しめれば、それでよかった。
竜をからかうようにして森の中をあちこち走り回り、逃げるのに疲れたらたまごを放り出す。
そんな、ごく単純な計画だった……はず。
しかし、必死に追って来る水竜を見て、二つ目のたまごを盗む役の魔物は怖くなって、本気で逃げてしまった。
今にも食いつかれそうで。このまま捕まれば、身体を引き裂かれそうで。
子を奪われた親の怒りを、勢いを、必死さを、魔物はあなどりすぎていたのだ。
たまごを置けばそれで済むのだが、恐怖で混乱した頭にはそんなことなど浮かばない。
そうして逃げるうち、魔物は戻らずの穴へ飛び込んでしまった。
戻らずの穴は、山や森などに存在する次元のトンネルだ。いつから、誰が言い出したのか、そう呼ばれるようになった。
入れば、どこへ出るかわからない。大して離れていない場所の時もあるし、自力では簡単に戻れない場所へ行ってしまうこともある。
つまり、どこへ通じるかはその時によるのだ。
しかも、出た先から元へ戻ろうとしても、二度とその穴には入れない。別の戻らずの穴なら入れるが、同じ穴へは入れないのだ。
入れたとしても行き先はランダムだから、元の場所へ帰れるかはわからない。
さらに言えば、この穴そのものが神出鬼没で、いつも同じ場所に存在するとは限らないのだ。昨日はここにあったのに、今日はない……ということもある。
そんな戻らずの穴へ入ってしまった魔物は、カシアと呼ばれる山へ出ていた。
もちろん、魔物に山の名前などわかるはずもない。自分のテリトリーからどれだけ離れているか、など。
とにかく、自分の知らない場所へ来たことだけは、かろうじて理解していた。
仲間とは完全に離ればなれになり、手には水竜のたまご。自分の頭くらいもある大きさ。持ち出した時は何も思わなかったのに、今はずしりと重い。
自分が水竜の巣から取り出したものではあるが、今では完全にお荷物だ。
少ない脳みそで「この状態はまずい」と思っていると、近くから折れた枝を踏み割る音がした。びくっとなって、持っていたたまごが地面に転がる。
草むらから現れたのは、猿のような姿をした魔物だった。
しかし、同じ種族とは思えない程、いかつい顔つきをしている。自分より身体も大きいし、どう見ても凶暴そうだ。
相手は侵入者に歯をむき出して、威嚇してきた。それを見た途端、萎縮してしまう。
さらには、後ろから同じような魔物が複数現れた。とても平静を保っていられず、その場から走り出す。それを見て、現れた魔物達が一斉に追った。