005.見えない齟齬
静穏なシルヴェ・ティティアの街に似つかわしくない悲鳴。発生源を見ると、ちょうど男が女から荷物を強奪して走り去るところだった。
「強盗……!?」
咄嗟に男を追いかけようと駆け出しかけたクレールは、しかし横から腕を掴まれてつんのめった。
「ふぁっ?」
「一旦返すぞ」
「え?」
半ば押し付けられた荷物を受け取るや否や、黒ローブが翻る。
通りの誰もが状況把握から抜け出せないでいる中、エドガーはものの家屋数件分の距離で強盗に追いつくと、そのまま襟首を掴んで引き倒した。
「……は?」
つい。本当につい先程、腰痛云々を言っていた人間とは思えない俊敏さ。
何か魔術でも使ったのだろうか。現状を理解し切れないまま、ひとまずクレールは一方的な縺れ合いに駆け寄った。
「俺の管轄で下手なことしてがって」
秀麗な顔に険を滲ませ低い声で凄むエドガーに、犯人の男は目に見えて青くなっている。
「で、出来心だったんだ! 最近、子どもたちに碌なの食わせてやれてないから……」
「それでも窃盗は窃盗だ」
にべなんて微塵もない、為政者としての返答。男はがっくりと肩を落とした。
「クレール。紐か何か持っていないか?」
「リボンでよければ……」
クレールはフードの中に手を差し込み、己の髪を束ねていた黒いリボンを解いた。特に愛着がある訳でもなく、髪を纏めるように適当に用意していたうちのひとつである。
エドガーはリボンを受け取ると、強盗犯を後ろ手にし、両親指を束ねて結んでしまった。
「これでよし……おい、そこの。詰め所に通報して警邏隊を呼んで来い」
「は、はい!」
元気よく返事をした住民が駆け出すのを見送り、エドガーは倒れたままの男に腰かけてひと息吐く。
まさか事件発生から犯人確保まで、ほんの数分で終わると思わなかった。あまりの手際の良さに、クレールは感心しつつも、不意に湧いた疑問を口にした。
「貴方、腰を痛めているのではなかったの?」
「腰どころか全身いたって健康だが?」
よくよく話を思い返してみれば、エドガーがしていたのは腰痛予防の散歩だった。
泣き言を漏らす男の上に買い物籠を持って腰かける魔術師という絵面はなかなかに奇抜だ。だが事件が解決したからか、街の住民たちが恐る恐る近付いて来る。
「あれま。誰かと思えば、四区のライルじゃないか」
「本当。小さい子どもがいるのに、何してんだか」
街の住民の反応には、非難よりも呆れが滲んでいる。正気に戻った男は、多くの視線に晒されてますます小さくなった。
賑やかな足音と共に、城の方から騎士の制服に身を包んだ一団が現れた。
クレールは野次馬の中に下がろうとしたが、それより先にエドガーの手が外套の裾を掴む。
「ちょっと」
「いいから。君は此処にいろ」
皺になると怒鳴りつけてやりたいが、それより先に騎士が人垣を掻き分けてやって来る。
クレールはせめてもとフードを深く被り直すと、他の住民たちに倣って首を垂れた。
「よう。お疲れさん」
「魔術師が走って強盗犯を捕まえたって聞いて来てみれば、やっぱりお前か……」
隊長の徽章を付けた金髪の青年騎士が、エドガーを見て嘆息する。品のある端正な顔立ちは、呆れを隠そうともしていない。
「マギステルが何をしているんだ。ましてや今のお前は、領主代行でもあるんだぞ?」
「なら魔術師と政務官にも朝の走り込みに参加させるか。そしたら走るのは俺だけじゃない」
「研究職と文官を走らせんな。日中仕事どころじゃなくなりかねないぞ」
それよりもと、騎士が凝視しているのは外套の裾を掴む手だ。
気品ある身形と、歳の割に高い階級。何より少し茶色がかっているが、金に近い髪色をしていることから、この青年騎士は貴族に間違いない。
シルヴェ・ティティアは平民でも明るい色彩を持つ者が多いが、目の前の青年が遠く離れた王都から来た存在なら、十中八九そうだ。
なにより大貴族の子息であるエドガーと、気安く喋るような仲なのだ。これで貴族でなければ王族くらいだ。
青年騎士の視線に晒されて思わず縮こまりそうになるクレールとは打って変わって、エドガーの表情は晴れやかだ。
「紹介しよう。俺の幼馴染で士官学校時代の同期のグレン・コールバート卿だ。今は白狼騎士団で部隊長をしている」
紹介されても、どう反応してよいのかわからない。それよりも先に外套から手を放して欲しい。
グレンも同じく、困惑をもってエドガーとクレールを見比べている。
「この子は?」
「クレールだ」
「……何処の子だ?」
「ほら、夏に街の北側でラベンダーが咲いていただろう。そこの道を行った森の手前に住んでいる」
「そうか……街の娘か……」
何か勘違いされているような気がするが、貴族同士の会話に平民が迂闊に口を挟むことはできない。
「この間の雨の日に、俺が外に出てただろ? クレールはあの時に雨宿りさせてくれた恩人だ。だから今日これからその恩を返すところ」
「いえ、絡まれているだけです」
流石に黙認しかね、クレールは思わず口に出してしまった。その際に裾を引き抜こうとするのも忘れない。
それだけで察して貰えたのだろう。グレンの探るような眼差しが、同情の色に変わった。
「主人が世話をかけてすまない」
「い、いえ……」
「ほら、エドガー。手を放してやれ。クレール嬢に恥をかかせるな」
「わかった」
案外すんなりと手が離れる。
だが息を吐いたのも束の間、立ち上がったエドガーに肩を掴まれてしまった。
「ひっ!」
思わず短い悲鳴を上げてしまったが、誰だって予期せぬ接触は心臓に悪いものだ。
硬直する少女に一瞬だけグレンが怪訝そうな眼差しを向けて来たが、何事もないかのように事務会話は続いた。
「じゃあ、あとで調書取りに行くからな」
「わかったわかった」
「あとゼファー殿が書き置きだけで出て行かれたと仰っていたから、早めに帰った方がいいぞ」
「口煩い政務官殿め。無断外出するなというから、わざわざ書き置きしたというのに」
騎士たちに強盗が連行され、やっと街に落ち着きが戻って来る。




