004.買い物帰り
魔術師エドガー・レイ・マギ・ウィリスは、いわゆる有名人だ。
昨年十八という若さでマギステルの地位に上り詰めた、稀代の大魔術師。
若く実力のある貴族の子女が多く集まる魔術師集団『翠の塔』の主人。
現王の妹が嫁いだ、代々宰相を務める筆頭公爵家の次男坊。
ミラ・ブランシェを治める国王から直々に指名され、銀雪の街シルヴェ・ティティアに遣わされた領主代行。
王都にある魔術学院を飛び級かつ首席で卒業した天才という話もあったが、その程度のことが可愛く思えてくる、華々しい肩書きの数々。
とにもかくにも、物知らずなクレールでもわかるくらい、身分が高く名の知れた存在だ。
「筆頭公爵家だなんて、貴族どころか大貴族ではないの……」
買い物籠を抱え直しながら、クレールは小さく悪態を吐く。
数日に一度の買い出しでちょっと歩いただけでこれだけの話が耳に入って来たのだ。
王都から離れた辺境で刺激が少ないとはいえ、上級貴族、それも王族の縁者自体が珍しいからか、彼らがこの街に来て三ヶ月経つ今でも話題に上がっている。
もし迂闊に翠のマギステルと、しかも二人きりで話したことがあると知られたら、次の日の昼には街の人間全員が知っているかもしれない。
幸いにしてクレールは街の人間とそう懇意にしていない。話をするのは森の薬草を欲しがる薬屋の老婦人か、行きつけのパン屋の主人、あるいは警邏の見回りくらい。しかも殆どが事務的な会話だ。
「……まあ、二度と会うことはないでしょうし」
そもそも、いくら領主代行でも上位貴族が街の外れにひとりでいるのが可笑しい。だというのに謂れのない理由でやっかまれるのはごめんだ。
ぶつぶつと小さく呟きながら歩いていたクレールは、だから横から伸びて来た腕に気が付かなかった。唐突に腕の中から消えた重みに目を瞬かせ、顔を上げる。
「よう。買い物帰りか?」
この辺りでは珍しい、翠の双眸。肩に届かない長さの赤銅色の髪は、今日は乾いている。
「…………」
二度と会わないと思った側から、もう遭遇してしまった。
世の不条理を奥歯で噛み潰すクレールを、若き魔術師は不思議そうに眺める。何故かクレールの荷物を持ったまま。
「うん? 聞こえてなかったか? こんにちは、クレール」
もしや、返事をしないと荷物を返して貰えないのだろうか。漸くその考えに辿り着いたクレールは、渋々ながら一礼した。
「こんにちは、ウィリス様」
「俺と君との仲だというのに、随分他人行儀なんだな?」
「…………」
たった数時間雨宿りさせてやっただけの仲に、何の意味があるのか。
わざわざ長身を屈めてフードの中を覗き込んでくる端正な顔を睨め付ければ、言葉に出さずとも伝わったのだろう、目の前の男は妙に可笑しそうに笑い出した。
「……何よ」
「いや、全然懐かれてないと思っただけだ」
「私は猫ではないわ」
反射的に噛みつくように言えば、今度こそ堪え切れないといった笑い声が通りに響く。お蔭で横を通り過ぎた住民が、ぎょっとした顔で顔ごと振り返っていた。
「そんなに笑うこと?」
「す、すまない」
さりげなく目の際を押さえる青年に、クレールはむっと唇を尖らせた。
流石に不味いと思ったのか、エドガーは笑い声を追い払うように大仰な咳払いをする。それでも細められた翠の双眸は、膨らんだ両頬を見つめ続けていたが。
「エドガーだ。俺も君のこと、クレールと呼ぶから」
「……わかったわ」
明るい日の光の下で改めて見た彼は、端的に言えば好青年だ。
顔立ちは相変わらず秀麗で、さらさらと毛先を遊ばせた赤銅色の髪が、颯爽とした品のよさを際立たせている。
ともすれば重い印象になりがちな金刺繍の黒ローブも、彼の華を際立たせるだけ。今日は濡れていないから、なおさらだ。
彼は容姿も身形もかなりいい上級貴族で、加えて人当たりもよい。当然、街の若い娘たちが放っておかない。
「見て! 翠の魔術師様がいらしているわ!」
「本当、相変わらずの男前ねぇ……いつ見ても飽きないわぁ」
聞こえて来た黄色い声は、ひとつやふたつどころではない。それどころか足を止める者まで出始め……長身の傍らにいるクレールにも、自然と注目が集まる。
「……あれ。誰かと思えば、クレールじゃない? ほら、蛇小屋の」
「どうして蛇娘なんかが魔術師様とご一緒してるの?」
突き刺さる視線と聞こえてくる遠慮のない言葉の数々に、クレールは無言でフードを深く被り直した。
正直、それはクレール自身が最も知りたいことだ。
身分も立場も異なる自分たちは、きっと考え方も価値観も違う。今この瞬間の接点だって、偶然によるものだ。
「ついて来ないで」
「ついて行っていかないと、食料は俺のものになるぞ」
「なら返して」
奪い返そうと手を伸ばすが、エドガーは己の頭よりも上に持ち上げてしまった。指先すら届かない位置に、クレールは唖然とする。
「よく食べないと大きくなれないぞ?」
「これ以上大きくならないわよ。というか、そう思うなら荷物返して」
「君も抱えてやろうか?」
「結構よ!」
ついて出た悪態は、思いがけず大きな声になってしまった。狂わされる調子に、クレールは恨めしそうに荷物と青年の顔を睨む。
「今日はこのまま家に帰るのか?」
「そうよ」
「俺も帰るところなんだ。途中までご一緒しよう」
エドガーは荷物を右手で抱え直すと、左手をクレールに差し出す。
自分のそれよりずっと大きな手のひらを一瞥し、クレールは訝しげに小首を傾げた。肩越しに街の中央を振り返る。
「貴方、水晶城に住んでいるのではないの?」
「細かいことは気にするな」
大股で歩き始めた貴族青年に、クレールは渋々足を動かした。このままでは荷物を持ったエドガーに置いて行かれる。
半ば小走りで横に並ぶと、彼は微笑ましいものを相手にするように歩調を緩める。普段の自分と同じ歩く速度に、クレールは内心で息を吐いた。
「そもそも、どうして貴方が東側にいるの? 西側ならともかく」
シルヴェ・ティティアは、水晶城と呼ばれるかつての領主城を中心に成り立つ街だ。
今はただの役場代わりになっている城から見て、王都に比較的近い南側に商店街や市場、西側に比較的裕福な家の集まる住宅街、山から流れて来るラクル河に近い東側から北側にかけて平民の家屋があり、そこから更に行くと畑が広がっている。
街の南側から北の外れに帰るには、街の中央を突き切るのが最短だ。他の領地は知らないが、昼間であれば水晶城の公用部が平民にも開かれている。
クレールのように、人通りの多い城や中央通りを避け、迂回するように東側の小路を選ぶのは稀だ。馬車一台が通るのがやっとの雑多とした静けさは、とてもではないが大貴族が歩くような道ではない。
「まさか、畑仕事でもするの?」
「いや、散歩していたんだ」
「散歩ぉ?」
その単語と目の前の男とが結び付かず、声音に胡乱が滲んでしまう。
「ちょっと調べ物があって、ずっと研究室と書庫に籠って本を読んでいたんだ。だがずっと座っていると身体が鈍ってしまうだろう? 腰痛になったら悲惨だ。だから散歩」
滔々とした説明に、クレールは一層首を傾げてしまった。
クレールにとって魔術とは、魔力と呼ばれる自然の力を使って起こす奇跡の技だ。魔術を使えない他の人間の認識も似たり寄ったりだろう。
だが今の話を聞く限り、ただの座り仕事のように思える。しかも腰を痛めてしまうほどの。
「魔術って何なの? この間貴方が火を点けて見せてくれたような、不思議な力のことではないの?」
どうせこの男は荷物を返してくれないのだ。一介の街娘が大貴族に口を利くだなんて大層は早々できないものだが、これくらいを聞いても罰は当たらないだろう。
「魔術とは、魔術式という概念構文を用いて魔力を操作し、自然に働きかける技術だ」
「技術? 奇跡ではなく?」
「魔力を扱えない者からしてみれば、確かに奇跡なのかもしれないな」
男の左人差し指が揺れる。瞬間、翠の光が空中に浮かび上がった。
「これが魔術式。純粋に魔力のみで構成され、対象物や位置情報、属性、実行内容などが記述されている。魔術師にとって魔術式構築は、必修の能力だ」
紋様にも見える、いくつもの見慣れない文字。天球に似て少しずつ動きながら緻密に絡み合うそれを、クレールは好奇の眼差しで見上げる。
「この世界の現象を紐解き、似た現象を人力ではなく魔力を用いて再現する術を研究し、技術として確立させる……それが俺たち魔術師だ」
魔術師の言葉は抽象的だ。クレールは目を細め、先日見たばかりの魔術を思い起こす。
「火打ち石で火を灯すか、魔力で火を熾すか……が、違いかしら?」
「ざっくり言うとそんな感じだ」
魔術式が弾け、柔らかな毛並みの猫に変わる。
宙に浮く幻の猫に、クレールは目を丸くした。手を伸ばすと、猫は鼻先を寄せて来る。まるで本物のような仕草は、触れずとも十分愛くるしい。
「魔術式があれば、誰でも魔術が使えるの? 私も、魔術を扱える?」
これまでの警戒はすっかり解けてしまったようで、灰青が未知への好奇心に輝く。
だからエドガーは、若干の申し訳なさを伴って事実を告げた。
「誰でもは使えない。一括りに魔術師と言っても、扱える魔力の量や質、魔術式の構築能力に差があるからな。同じ魔術式を使用したとしても、分野の得手不得手によって魔術の実行に差が出ることなんてざらにある」
「そう、なの」
仄かな期待がみるみる萎んでいく。一度くらい、魔術を使ってみたかった。
それでも興味は尽きないもので、次の疑問が湧いて来る。
「魔術師ってあまり見たことがないのだけれど、皆貴方みたいなの?」
「俺みたいな、とは?」
「やけに馴れ馴れしい」
少女の感想は率直だ。声音次第では敵意と取られるかもしれない。
魔術師は一瞬面食らったが、くりくりとした灰青に他意がないのを見て取ると、己の周囲を思い返した。
「魔術師は……どちらかというと、排他的だ」
「排他的? 仲良くないの?」
「うちの『翠の塔』という括りみたいに、専門や指導者の違いによる派閥意識があるんだ。それに何よりも自分の研究を邪魔されるのを嫌う者が多いな。うちにいる魔術師も、薬の調合中に入るとこれでもかというくらい怒る者がいる」
「ふぅん?」
人付き合いの少ないクレールには馴染みのない感性だが、そういう人間もいるのだろう。
だが目の前の男は、それに当てはまっていないように見える。
「貴方は排他的ではないのね?」
「そりゃ」
「――離して!」
通りに響き渡る女の声。安穏を引き裂くその声に、ふたりは同時に足を止めた。




