036.林檎のひみつ
扉が叩かれる。
朝の茶を嗜んでいたクレールが扉を開けると、真白い雪原を背に、赤銅色の髪の青年が立っていた。
「よう。調子はどうだ?」
朗らかな笑みを浮かべて軽く片手を上げるエドガーに、クレールはその場に頽れそうになった。
「どうしているの……」
「俺が来ないと、君に会えないだろ?」
若干拗ねるような声音に、クレールは口を噤んだ。実際、彼とはまた街で会っても関わらないようにしようと考えていたところだった。
だがそれを口にすれば、この青年が気分を害すであろうことは想像に難くない。
「お仕事は?」
「昨日まで雪祭りで出ずっぱりだったからな。今日は休みだ」
まだ明けの九時になろうかという時間だというのに、応える声は随分と溌剌としている。
本日のエドガーは、魔術師のローブでも政務官の制服でもない。派手な飾りはないが、上等な生地で仕立てられた外套も帽子も、上品な子息と呼ぶに相応しい装いだ。
ただし、先日持っていたクレールの籠を脇に抱えている所為で、妙なちぐはぐさもあった。
帰れと言いたいところだが、今日は夜明け前からずっと雪が降っている。あまり積もらない通りでさえ足跡がくっきり残るくらいで、それを成した青年の鼻梁は微かに紅く染まっていた。
ちょうど吹き抜けた風に肩を震わせたクレールは、渋々エドガーを家に招き入れた。
「貴方、グレンさんに言われたことを覚えてないの?」
「覚えているぞ。君に場を選べとか言っていたやつだろ?」
「だったら、どうしてうちに来るの?」
「どうして、とは?」
はて? と首を傾げる大貴族の子息に、クレールは眉根を寄せた。知らず知らずのうちに、早口で捲し立てる。
「あれはどう聞いても、下手な身分の小娘と遊ぶなという意味でしょう?」
「違う。下手にこそこそすると君の肩身が狭くなりかねないから、君と会うなら堂々としろという意味だ」
清々しいほどきっぱりと言い放たれ、クレールは一瞬言葉を詰まらせた。
「そう、だったかしら……?」
「そうだとも」
「うぅん……?」
本当はどういう意図だっただろうか。ひと月以上経っている所為で、いまいち自信がなくなって来た。
エドガーが無駄に自信に満ち溢れた顔なのもあって、余計に。
「という訳で、今日は堂々と君に会いに来た」
「意味がわからない……」
「病み上がりで頭が回っていないんだろうよ」
病み上がりでなくとも納得できる気がしないクレールを余所に、エドガーは籠から布の包みを取り出す。皿でも入っているのか、卓に置かれた時に固い音が響いた。
「今日の土産だ」
「林檎があるのに……」
「君は林檎を万能薬か何かだと思っているのか?」
呆れ交じりの問いかけに、クレールが返すのは怪訝だ。
温くなっていた薬缶を火にかけながら、帽子を外し、外套を脱いでいるエドガーを一瞥する。
「知らないの? 紅涙林檎は魔法の林檎なのよ」
「――は?」
随分と間の抜けた声。次いで、青年の手から外套が滑り落ちる。
「エドガーさん? 落ちているわよ?」
「あ……ああ……」
余程衝撃だったのか、翠の双眸を見開いたまま、なかなか外套を拾おうとしない。
仕方なく外套を拾ってやりながら、クレールは話を続けた。
「図書館で、昔この地が呪いに侵されていた話をしたと思うのだけれど」
「……大戦から第四代くらいまで残っていたとかいう?」
「そう。その呪いを解いたのが、紅涙林檎なの」
途端、弾かれたように青年の手がクレールの肩を掴んだ。
「あの林檎に、そんな力があるのか!?」
「っ……!」
肩を掴む大きな手に、クレールは音にならない悲鳴を上げた。
男女の腕力差、体格差もあるが、クレールの身体は平均よりもずっと華奢な作りをしている。対し、エドガーは騎士と並んでも見劣りしない身体付きをしているのだ。少し押さえられただけで、簡単に肉体の自由が利かなくなる。
肩から微かに聞こえる骨の軋むような音に、クレールはか細い声で訴えた。
「まっ、て……いたい、から……!」
「……あ」
理性を思い出した男の手が離れ、身体に自由が戻る。また掴まれてはたまらないと、クレールは一歩後退った。
「す、すまない……つい……」
「つい、ではないわよ」
誰かに肩を掴まれて命の危機を感じたのは、いつ以来のことだろうか。
まだ痛む肩を摩りながら、クレールは狼狽えるエドガーを睨め付けた。
「魔術師って、馬鹿力の魔術でも使っているの?」
「そういう魔術はあるが、精々実験試料が入った瓶を開ける時にしか使わない。ちなみに士官学校卒の俺は、君のいう馬鹿力の魔術を使わずとも瓶を開けられる」
「瓶を開ける感覚で関節を外されそうになるなんて思わなかったわ」
「本当にすまない……」
見る見るうちに肩を小さくする青年は、それでも林檎の効能が気になるらしい。
外套を玄関脇に掛けるや否や、窯の方へと戻るクレールの後を追う。
「それで、紅涙林檎にはどんな力があるんだ?」
「ないわよ」
「え……?」
呆然とするエドガーに、クレールは変わらず澄んだ声で淡々と応える。
「九百年前、呪いにより心身を蝕まれた人間を憐れんだ精霊は、栽培されていた林檎の樹に祝福をかけた。林檎の祝福により、土地を汚染していた呪いは解け、林檎を食べた人間も正常な毎日を送れるようになった。でも今は役目を終えているから、風邪を引いた時とかに回復を助ける滋養強壮剤くらいの効果しかないわ」
「……そうか」
幾段か沈んだ声に、クレールは茶葉を開けようとした手を止めた。
「エドガーさん? どうしたの?」
「そうか……そうだよな……この街の連中、無茶苦茶林檎食うもんな……茶にも林檎入れるくらいだもんな……」
何やら呻きながらすぐ隣でしゃがみ込む姿に、今度はクレールが動揺する番だ。
まさかこれほど失望されるとは思わず、つい先程関節を外されかけたことを放り出し、しゃがんでも大きな背中に手を添える。
「大丈夫? もしかして、貴方も風邪?」
「……違う。俺が勝手に盛り上がって、勝手に落ち込んでいるだけ」
低い声に張りがない。これが猫であれば、耳を伏せ、尻尾の先までしょんぼりさせていたに違いない。
初めて見る彼の様子に、クレールは思わず赤銅色の髪へと指を伸ばしかけた。あまりにも憐憫を誘う姿に、なんだか撫でてやりたくなったのだ。
だが触れるよりも先に身じろいだ肩に、慌てて手を引っ込める。
「まあ、いいや……元々林檎は対象外だったし……」
どうやらクレールには理解できない折り合いが付いたらしい。
立ち上がった青年は、いつも通りのクレールにはよくわからない貴公子に戻っていた。




