034.わずらう
わかっていたことだ。
自分と彼は、本来は交わらない立場だったことなんて。
だから忘れるべきなのだ。
知らなくていいと宣った彼の、その翠の双眸を曇らせていた感傷なんて。
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「あんた、最近荒れてない?」
手元の紅い水面を眺めていたクレールは、投げられた呆れ声に目を瞬かせた。
顔を上げれば、薬草を検品している薬剤師のマーガレットが声と同じ表情でクレールを一瞥する。
「荒れている? 私が?」
「そう。先週もだけど、ずっと心ここにあらずって感じ。まあ薬草はいつも通り丁寧に摘まれてるからいいけど」
待ちがてら淹れられた茶を覗き込めば、表情のない少女が映っていた。見返してくる眼差しは酷く凪いでいて、熱が感じられない。
「別に、いつも通りだわ」
窓の外では、柔らかな白花が降りしきっている。
この週末に雪祭りがあるからか、色とりどりの外套を纏った大人たちがぞろぞろと連なって、白いラベンダー畑へと向かっている。子供もいるのか、甲高い歌声が聞こえてきた。
昼でも寒さが肌を刺す今日は、白蛇は連れていない。クレールがいないと窯に火が入らないため、気温が上がらない日の今頃は寝台に潜って昼寝を決め込んでいる筈だ。
「ねえ、マーガレット」
「なに」
「大貴族のご子息様が身寄りのない街娘に絡むのって、どういう意図があると思う?」
薬草を検める手が止まる。祖母譲りの気の強そうな目元には、苦々しさが浮かんでいた。
「遊ばれてるんじゃないの?」
「やっぱりそうよね」
あっさりと頷いたクレールに、マーガレットは露骨に眉を顰める。
「まさかあんた、魔術師様に弄ばれてるんじゃないでしょうね?」
「まさか」
西の図書館で別れたのを最後に、このひと月近くはあの赤銅色の髪も黒いローブも見ていない。
街に出れば領主代行である彼の動向が漏れ聞こえて来るが、クレールは意図的に聞かないようにしていた。仕切り直すであれば、忘れるのが一番だと思ったから。
薬屋の入り口から鈴の音が振り撒かれる。クレールとマーガレットが揃って視線を向けると、店主であるオリーヴィエが帰って来たところだった。
「ただいま」
頭の上に払い損ねた雪を乗せた老婦人は、辟易した顔で頭から肩を覆っていた布を剥ぎ取る。
「おかえり。お茶飲む?」
「ああ、頼むよ」
外套を脱ぎ、部屋履きに履き替えたオリーヴィエは、孫娘の淹れた茶で漸くひと息といった風情だ。
向かいで冷えて強張った肩に手を当てる様を、クレールは頬杖を突いて眺める。
「お前が出かけるなんて珍しいわね?」
「今週末はもう雪祭りだからね。うちはすぐそこに雪像が並ぶから、この辺りの動線の確認とやらで呼び出されたんだよ」
オリーヴィエが顎をしゃくる方の窓を覗けば、大人たちが各々の顔を真っ赤にしながら雪を積み上げている。今日はいくつかの班が作業しているようだが、速いものでほぼ黒曜馬の全身が形作られた作品もあった。
そのうちのひとつ、木の板で囲われて作業しているのは、恐らく目玉になる初代シリウス辺境伯の雪像だろうと、クレールは見当をつける。
「相変わらず、あんたが持って来る薬草は質がいいねぇ」
皺の刻まれた細指が、検品された傍から薬草を摘まみ上げる。その先に咲く薄紅色の花弁は、今もまだ地に生えているかのように瑞々しい。
「紅吐息の花か。この寒さでよく咲いているもんだ」
「流石に地熱で暖かい場所にしか咲いていなかったわよ。そもそも春の花なのだから」
クレールは溜め息を吐くと、卓の上の薄紅色を一瞥した。
この世界を創ったメガミの吐息から咲いたという曰く付きのこの花は、領主代行である青年からの依頼品だ。
シルヴェ・ティティアではよく花茶として楽しまれる花は、春になると旧シリウス辺境伯領内のそこここで咲いている。だが雪で覆われるこの季節となると、精霊の気配が強く、かつ温泉の源泉に近い静謐の森の奥深くでしか花を咲かせない。
必然的にクレールにしか採取できないとあって、水晶城の政務官は迷いなくこの薬屋に依頼書を持ち込んでいた。
「そういえば、おばあちゃんが出かけてる間に次の依頼書来てたよ」
作業の手を止め、マーガレットが棚から紙の束を取り出す。
オリーヴィエは適当に束を分けると、片方をそのままクレールに渡した。
「これはまた……精霊由来の花ばかりだねぇ……」
「しかも手当たり次第というか……」
系統も薬効も様々な植物の名が、隙間なく合わせて十枚。しかも夏が盛りに実を付けるものまで混ざっている。
一覧に目を通し終わったクレールは、灰青の双眸を眇めて最後の署名を睨め付けた。
「翠の魔術師は何がしたいの?」
「街外れの薬屋が知る訳ないだろ?」
さもありなんと、クレールは肩を竦めた。
検品が終わり、報酬が卓に置かれる。持ち上げた革袋は、いつもよりも重かった。
「本当に採りに行くのかい? 私たちは奥には入れないけれど、森は街よりもずっと雪が深いんだろ?」
「でも必要なのでしょう?」
であるのならば、採りに行くのがクレールの仕事であり、この街に住まう者としての役目である。
当然のように籠の中に仕舞われる依頼書を、オリーヴィエは不安げな眼差しで追う。
「依頼している側がいうのもなんだけれど、無理をし過ぎないように。特にあんたは一人暮らしなんだから、倒れても誰も助けてやれないよ」
「わかっているわ」
老婦人とその孫娘は、なおも何か言いたげに視線を交わし合う。
それに気付かない振りをしながら温くなった茶を飲み干し、クレールは外套を手に取った。
「雪祭りが過ぎれば、また雪が深くなる。その前にできるだけ摘んで来るわ」
――というのが、つい二日前のこと。
雪祭り初日の朝、クレールは外が明るくなってもまだ、寝台から出られずにいた。
「しくじった……」
昨日は日が昇る前から昏くなる時間まで森の奥にいた所為か、起きて真っ先に感じたのは酷い倦怠感だった。
視界は妙に潤んでいて、瞬く度に頭痛が走る。手足は妙に熱いのに、身体の芯は可笑しなほど冷え切っている。
風邪なんていつ以来だろう。クレールは寝台から半ば這いずるようにして抜け出すと、重い腕で窯に火を熾した。
「ヴェラスピカは……まだあるわね……」
湯を沸かし、花の香りのする茶を淹れる。馨しい湯気を胸いっぱいに吸い込むと、それだけで怠さが少し和らいだ気がした。
干し林檎を齧りながら、茶を啜る。大体の体調不良はこれで治るというのが、クレールの自論だ。
のろのろと茶を啜る袖を、起きて来たらしい白蛇が引く。薄曇りの日の屋内でも氷咲水晶に似た煌きを損なわないクレールの最愛は、紅い瞳を潤ませて見上げてくる。
「グレースちゃん、ありがとう。心配してくれるのね」
クレールが小さな頭を撫でようとすれば、違うと言わんばかりに鎌首が左右に揺れる。よく見れば、紅い瞳はちらちらと森側の入り口の脇に置かれた籠を気にしていた。
「おなか、すいているのね……」
籠を開けると、中で昨日見つけた最後の翡翠蛙が丸くなっていた。
体調を崩したクレールには食欲がないが、食べ盛りの白蛇はそうも言っていられない。念のため翡翠蛙が獲れなくなる季節だからとハムを買ってあるが、あっさりとした味付けを好む白蛇には不評気味だ。
クレールの内心など露ほども知らない白蛇は、差し出した翡翠蛙をあっという間に呑み込んでしまう。
腹を膨らませ、満足そうな顔をして窓際の籠へと納まる後姿に、クレールは卓上の片付けも忘れて、自身も寝台へと潜り込んだ。




