033.感傷が滲む
男の指がページを捲る。その動きに合わせ、白蛇が頭を動かす。
随分と仲良さそうに同じ本を読んでいる二人を、クレールは向かいからぼんやりと眺めていた。
談話室に入って半時間は経っているだろうか。自分は自由気侭な身分だが、政務官の制服を着る彼は戻らなくていいのだろうか。
そんな心配しつつも、この安穏とした時間が終わってしまうのが惜しい気がして、クレールは何も言えずにいた。白蛇が楽しそうにしているのもあって、余計に。
「クレール、質問していいか?」
「なぁに?」
「領記にミルザムは魔法を使ったと書いてるんだが、ミルザム伯爵家は魔法使いの家系だったのか?」
クレールが青年の手元を覗き込むと、戦争の佳境が記されているページだった。ミルザム軍の魔法相手に苦心したとの記述を、クレールは目を細めて見つめる。
「厳密には違う。けれども初代ミルザム伯爵は魔法使いであった初代シリウス辺境伯に従う騎士だったから、魔法が宿った道具が遺されていたの」
「どのような魔法だったんだ?」
魔術師である彼にとって、多少なりと興味の引かれる話題なのだろう。
なにせ今の時代、魔法と呼ばれるものはほとんど残っていない。精霊の気紛れがその一種だとは言われているが、人間にとって偶発的に起こる自然現象のようなもののため、詳細は解明されていない。
「人がたくさん死ぬ魔法よ。決して遺してはならなかった、無辜の民を焼く魔法具。かつて呪いや呪詛とも呼ばれたもの。大戦が終わって平和な時代になって、何故三百年も保持し続けたのか不思議だった」
歴史を語る声に感情はない。無機質な眼差しで地図を見下ろす少女を、エドガーは静かに見つめる。
「大旱魃も、ラクル河の干上がり方が不自然だった。加えて他領にそれほど被害がなかったから、伯爵の魔法が精霊の怒りを買ったのではないかと言われていたわ」
「その魔法相手に、シリウス領はよく勝てたな?」
「ヘリオスも魔法使いだったのよ。彼ほどではないけれど、当時の白狼騎士団にも何人か魔法剣士がいた。だからミルザムの呪いにも対抗し、術者であったミルザム伯を討って呪いを解くことができた」
淀みもなく、抑揚もなく。ただ淡々と語られる時代は、物語の中のように遠く聞こえる。
「それにヘリオスは精霊の声が聞くことができたの。だから静謐の森に棲む精霊に力を乞うことができたそうよ」
ページを捲る音に視線を落とすと、章の終わりだった。白い尾が差すそこに書かれていた一文に、エドガーは目を細める。
『シルヴェ・ティティアを護る銀の姫君に、多大なる感謝と揺るぎない敬意を捧ぐ』
すっかり色を変えた紙面に綴られた男の字は無骨だ。だが読み手には伝わらないだけで、並々ならぬ感情が籠められていたのであろうことは、彼女の話を聞いていれば想像が付いた。
「その魔法はまだミルザム子爵家が持っているのか?」
「いいえ……今はもう取り上げられているわ」
「取り上げられるって……誰に?」
「…………」
「クレール?」
不意に途切れた会話に、エドガーは訝しんだ。本から目線を上げると、白蛇が不安そうに同居の少女を見上げている。
地図を見下ろす目元は、また伏せられた長い睫毛に遮られて色がわからない。まさか眠っているのかと、エドガーは身を乗り出して華奢な肩に触れた。
「クレール」
少し語気を強め、軽く肩を叩きながら呼びかければ、思い出したように灰青の双眸が瞬く。
クレールはそのまま何度か緩慢に瞬きを繰り返していたが、すぐ間近に迫る青年の顔に気付いて我に返ったようだ。
「ご、ごめんなさい……ちょっとぼんやりしてしまって……」
クレールは二、三度頭を振ると、薄く開いていた窓に手を伸ばした。
既に半分以上白い火鉢の中を見下ろし、エドガーは顔色を変える。
「換気が足りなかったか?」
「どちらかというと部屋が暖かいから、少し眠たくなってしまったのだと思う」
それでも念のためにと窓を少し大きく開けると、白花と共に凍て付いた空気が部屋に入り込んで来た。
色も匂いもない、ただ冷えただけの空気を意識して吸い込めば、ひと呼吸ごとに霞がかっているようだった思惟が澄んでいく。
急な冷気に、白蛇が身を縮こませてエドガーの膝の上に逃げる。そのまま裾から政務官の上着に潜り込んで、ひと息を吐く。
「災害についてという話だったのに、ほとんど人災の話になってしまったわね」
随分と話してしまった。そろそろ時間切れだろう。
クレールは地図を片付けようとして、だが青年の手に制されて動きを止めた。
「他にはないのか?」
「他?」
「旱魃以外に、シルヴェ・ティティアに起こった災害はないのか?」
クレールは地図を改めて見下ろした。水晶城からシルヴェ・ティティアにある二十四すべての区だけでなく、夏にラベンダーが植えられる広場やラクル河の向こうにある墓地までを見渡し、小さく唸る。
「他となると……それこそ、大戦時まで遡らないと……」
「大戦時はまだシルヴェ・ティティアもなかったんじゃないか?」
「ええ。この街は大戦後の復興でできた街だから」
クレールは腕を組んだ。小首を傾げ、目も閉じ、銀雪の街の歴史を辿っていく。
「おおよそ九百年前……第四代シリウス辺境伯カイロスが治めていた頃までは、大戦時の魔法の影響で土地に呪いが残っていたから、その影響を受ける人間がいたくらいかしらね。まあ、現代では全く残っていないけれど」
「そうか……」
今にも肩を落としそうなエドガーに、クレールは小首を傾げた。
これまでの話で何処に落胆されるような下りがあったのか、全くの心当たりがない。千年近い歴史がありながらも目立った災害がなかったというのは、人間にとっていいことだろうに。
何故、その綺麗な翠の瞳に焦燥を浮かべるのだ。
「ちなみに聞くが、大戦の影響による呪いに関する資料は何処にあるんだ? 見たことないんだが、この図書館に保存されているのか?」
「こちらにはないわよ。城の書庫にあると思うから、ゼファーに聞いてみたら?」
「なかった、筈だが……」
「ええ……?」
クレールは真面目な政務官の顔を思い浮かべた。
銀雪の街のことを十全に把握しているゼファーは、目の前の青年に対して大人しく領主代行の任を譲るくらいには友好的である筈だ。この程度の話題なら、資料の有無を隠しているとは思えない。
となれば、単純に調べ切れていないだけではないかと、クレールは思い至る。
「絶対にある筈よ。私が知っているのだもの」
「……大戦ほど古い時代の話なら、何処かに紛れてしまっているのかもしれない」
「貴重な資料なのに。ちゃんと片付けないと駄目じゃない」
「今度担当官吏に言っておく」
神妙な面持ちで頷く青年の顔を、襟から顔を覗かせた白蛇が不思議そうに見上げる。
エドガーが鼻先を指で突けば、紅い目を細めて大きな掌に頭突きをする。
「もっと直近で何か起こったりはなかったのか?」
「ないわね」
きっぱりと言い放ったクレールは、妙に釈然としない表情をしているエドガーを呆れで見返した。
「だってシリウス辺境伯領は、精霊の寵愛を受ける土地だもの。他の領に比べて、何か起こりようがないのよ。強いて言うなら、子供たちも言っていた夏に雨が少なかったことくらいかしら?」
「……そうか」
低い声が、露骨に沈んで聞こえる。今にも机に突っ伏してしまいたそうで、それまで領主代行兼魔術師として泰然と取り繕われていた彼が、急に年相応の青年になったかのようだ。
白蛇にも彼の落ち込みが伝わったのだろう。慰めるように彼の手に頬擦りをする。
ふと、クレールは動きを止めた。そういえば彼に会ったら聞きたいことがあったのだ。
「そういえば、水質検査とやらは結局どうなったの? 何か可笑しなものでも混ざっていた?」
「いや、すこぶる綺麗だった。王都の井戸水に負けず劣らず綺麗だった」
思いがけない称賛に、クレールは無意識に頬を緩めた。
住んでいる街が褒められるのは、素直に嬉しい。愛着を持っていると、なおさら。
だが本題はこれではない。すぐに口元を引き締め、クレールはあの日の記憶を手繰る。
「あの日、貴方に言われてから考えていたの」
「何を?」
クレールは一度唇を引き結ぶと、ゆっくりと燻っていた不可解への回答を音にした。
「私、十二年前にも貴方と会っていたりする?」
『たとえば今日という日が、十二回目だとしたら』
河辺で行われた、謎かけめいた問い。あのあとクレールが考えに考え抜いて出した答えがそれだ。
「どうしてそう思った?」
「だって貴方は、初めて見たグレースちゃんが私の子だということを知っていた。貴方はそれまでグレースちゃんに会ったことがないのに、野生の蛇だと思わなかった」
蛇に精通していれば飼われているとわかるのかとも思ったが、少なくとも同じ場に居合わせたフィオナはクレールの蛇だとは気付いていなかった。
「だから思ったの。私と貴方は十二年前には会っていて、私が連れているグレースちゃんを街で見たのではないのかって」
少女の仮説に、歴史を聞いていた時と同様、エドガーは静かに耳を傾けていた。
だが彼女が喋り終わったのを確認すると、微苦笑を浮かべて首を横に振る。
「いいや。君と出会うのは、今年が初めてだ」
「でも、私。貴方のこと」
侭ならない違和感が、喉の奥で絡まる。音にしたい思惟が、明確な言葉にならない。
「華炎病のこと、憶えているか?」
「……かえんびょう?」
聞き慣れない音に、クレールは目を瞬かせた。
「それは何? 何かの病気?」
クレールは薬草取りで薬屋に出入りしているため、ある程度の知識はある。だが彼の言う『華炎病』とやらに、全くの心当たりがない。
だがこの流れで、彼が脈略のない話題を出すとも思えない。
「貴方が調べていることにも関係する?」
「ああ」
「それは、私は知っていることなの?」
机に手を突いて身を乗り出すクレールを見つめる翠の双眸が、唐突に不自然なほど凪ぐ。
「君は、知らなくていいよ」
何かが、外された。人の機微に疎いクレールにも、それがわかるくらいに。
今は手に届く距離にいるというのに、存在が遠く遠く離れていくような。
「エドガーさん、貴方……」
クレールが何か言い返そうとする前に、談話室の扉が外から叩かれた。次いで、若い男の声が聞こえる。
「エドガー? そろそろゼファー殿が押しかけて来るぞ」
エドガーが扉を開けると、騎士の制服を纏った金髪の青年が入って来た。胸元に輝く徽章は、この青年が若いながらに隊長格であることを示している。
「用事は済んだのか?」
「一応」
騎士の青年の視線が、机に身を乗り出したままのクレールの姿を捉える。
「そちらは?」
「歴史の先生のクレールだ」
端的な紹介に、クレールは慌てて居住まいを正した。
気品の感じられる風貌からして、この青年も貴族である筈だ。しかも主人と言いつつ筆頭公爵家子息のエドガーを呼び捨てにしているとなると、高位貴族の子息に違いない。
「騎士のグレン・コールバートだ。主人が迷惑をかけてすまない」
「い、いえ」
しおらしく頭を垂れるクレールに、しかしグレンが向けるのは苦虫を嚙み潰したような眼差しだ。
「君は以前河に落ちた子だろう。フィオナ嬢が言っていた名前と一致する」
「……はい」
「ちょっかいを出したのはエドガーからだろうが、場所はもっと選んだ方がいい」
かっと、白い頬に朱が散る。そのまま言葉を継げずに肩を戦慄かせる少女を一瞥し、エドガーは幼馴染である青年を咎める。
「グレン、彼女を詰めたりするな。本当にシリウス領の歴史のことを聴いていただけなんだ」
「お前たちはそうでも周りはそうは思わない。何かあったとき、可哀想な目に遭うのは彼女の方だ」
言外に己の身分を指摘され、エドガーは目を瞠った。何かを言い募ろうとして……未だに頭を下げられたままの少女の頭に閉口する。
「エドガー、お前最近変だぞ。そういう気配り、前は一応でもできてただろ?」
「……最近忙しかったから、そこまで気が回らなかった」
エドガーは白蛇を机の上に降ろすと、代わりに領記と地図を取り上げた。
「今日はありがとう。領記と地図は俺から返しておく。この部屋は閉館時刻まで借りているから、後は君の好きにしてくれ」
「……承知、いたしました」
扉が閉められ、男二人分の足音が遠ざかっていく。
完全に足音も話し声も聞こえなくなった頃、クレールは漸く頭を上げた。
今日のことは、完全に油断していた。言われた瞬間は冷や水を浴びせられたような気分だったが、騎士の言葉は尤もだ。
だがそれ以上に、頭を下げる前に見た翠の双眸が、クレールの感情を逆撫でる。
「何が、知らなくていいのよ……」
まだ火鉢に火が残っているというのに、急に寒く感じられる談話室で、クレールは色を失った唇を強く噛んだ。




