032.零れる歴史
閉ざされた狭い談話室に、少女の声だけが淡々と響く。
「当時の伯爵は、何をとち狂ったのか、自領よりも被害の少なかった辺境伯領に兵を挙げて攻め入った」
白い指先が、シリウス領とミルザム領との境界付近を軽く叩く。
一拍遅れて聞こえた紙擦れの音が聞こえる。視線を向けると、クレールの話に合わせて白蛇の尾が器用にページを捲っていた。
「結果はシリウス辺境伯の勝利だったんだな」
「ええ。辺境伯軍が完膚なきまで返り討ちにしてやったわ」
元の兵力差からして無謀だったのだ。戦争を行うには、ミルザム領は弱り過ぎていた。
加えてシリウス領は大戦後から今日に至るまで、万が一に備えて防衛のための剣を磨き続けている。ミルザムから襲撃された時も言わずもがな。
だが戦争を忘れた当時のミルザム伯爵はそれがわかっていなかった。わかろうともしていなかった。
最終的にミルザムは飢饉と戦争、併せて一万以上に及ぶ被害を出し、ミルザム伯爵の死をもって漸く戦争は終わった。
「その後、ミルザム伯爵家の本筋は取り潰しになり、家督は挙兵を反対していた傍系に移された。戦場となった領地はシリウス領が併合、伯爵位は取り上げられて、子爵位に落とされたわ。あとは貴方も知っての通りのミルザム子爵領よ」
子爵領にしては広い領土の縁を指で辿りながら、クレールはもう片方の手で頬杖を突いた。
伏せられた焦がし砂糖色の長い睫毛が、頬に影を落とす。覗く瞳は色は見えずとも、地図の上の指先には煩わしげな感情が覗いている。
「ここからは、王妹を母に持つ貴方にするには、気が引ける話なのだけれど……」
「気にしないから話してくれ」
クレールは何度か躊躇いがちに口を開閉していたが、やがて意を決したように音にした。
「この話、何が不味かったって当時の伯爵領は王家派であったことね」
溜め息交じりに吐き出された言葉に、エドガーは遠い目をした。
旧シリウス辺境伯家は、王家とあまり仲がよくない。それは直系が絶え、シリウス辺境伯家が消えた今のシリウス領になっても変わらなかった、暗黙の了解だ。
エドガーは魔術師兼領主代行としてシルヴェ・ティティアに赴任し、それまでの領主代行であったルーグィス家次期当主と面通りするまで街の住民に警戒されていた数日のことを思い起こす。
「今の子爵領はシリウス領と仲がいいよな」
「というか、この戦争のお蔭で元鞘になったというべきか……」
腕を組みながら、クレールはエドガーの怪訝そうな顔を見返す。
「ミルザム家は、初代シリウス辺境伯と共に大戦を生き抜いた騎士の家系なの。だから大戦から二百年程は、シリウス家とも仲がよかった。でも時が過ぎれば人間はそんなことも忘れてしまう」
それはひとつの蜜月の終わりだった。
少なくとも爵位を継いだ時には、隣り合う領でありながら物流があるくらいの関係でしかなかったと、クレールは感情のない声で語る。
「戦争が収まったからと言って飢饉が解決したわけではないわ。国から半ば見放されて飢えるばかりだったミルザム領を、ヘリオスは憐れんで手を差し伸べた」
『戦場で武器を取ったからと言って、悪いのでは民ではない。これは彼らを統率する立場であったミルザム伯の罪だ。それにかつて共に戦場を駆けた男の領に住まう者が苦しむのを、我らが初代はよしとしないだろう』
「ヘリオスはそう言って、シリウス領の備蓄をミルザムの民に分け与え、新しい子爵が領を立て直すまで手を貸したの」
死者が出なかっただけで、シリウス領も畑を焼かれ、戦場では腕を失くした兵がいた。戦いに勝利はしても、ミルザム領を憎く思う領民も少なくなかった。
その中で手を差し伸べたヘリオスの覚悟は、生半可なものではなかっただろう。
「以上が、私が知っているシリウス領で起こった災害と、それに関わる戦争の話よ。古い記録だけれど、今でもシリウス領とミルザム領の幼年学校で習う内容ね」
一通り話し終えたと言わんばかりに、クレールは息を吐いた。
相変わらず器用に、白蛇が領記のページを捲る。男の字で羅列されているのは、当時の被害状況だ。
「ミルザム領と違って、シリウス領の旱魃は南側の村だけだったんだな?」
「そうね、ミルザムに面した地域は特に酷かった。でもシリウス領はミルザムで旱魃の兆候があった年から備蓄を増やしていたお蔭で、民を飢えさせることはなかった。戦争だって、負傷者は出たけれども死者はいなかったわ」
「それは凄いな……」
自領も被害を受けながら、旱魃と戦争で壊滅状態だった領を立て直した。かつての辺境伯の慧眼と手腕に、領主代行として現代の領政に関わる青年は素直に称賛を漏らす。
「俺の幼馴染が白狼騎士団にいるんだが、兵士の熟練度は国軍にも劣らないと言っていたな。実際、偶に手合わせして貰うと動きに無駄がないし、的確に踏み込んで来る。当時からそうだったのか」
「あら。白狼騎士団が強いのは、千年前の大戦からずっとなのよ」
クレールの指がミルザム領とは反対側、銀雪の街を囲うように聳え立つミカレ連峰をなぞる。
「シリウス辺境伯領はミカレ連峰があるお蔭で隣国とは接しているようで接していない。それでも辺境伯位を与えられ、大きな騎士団を持ち続けるのは、かつてこの地が戦場であったから」
『大戦』と呼称される歴史は、千年も昔のことでありながら、この国の民であれば誰もが知っている。
「隣国がミラ・ブランシェに攻めて来て、十年近く戦争する羽目になったんだろ」
「ええ」
「当時はミカレ連峰がただの小高い山で、隣国が容易く攻めて来易かったと聞いた。だが大戦終結時に急に噴火が起こって、一年で連峰になったんだったか」
エドガーがその話を初めて聞いた時、眉唾だと講師の話を疑った。一緒に講義を聴いていた従兄王子も
、地形とはそうも簡単に変わってしまうのかと同様の反応だった。
そもそも王城に残っている記録では、ミカレ山は火山ですらなかった。それが十年の戦争を終わらせる噴火をして、敵国とを隔てる絶壁に等しい連峰となった。
今この瞬間窓から北を見たとしても、元が人間が容易く進軍できるような山だったとは思えない。火山ではなかったというのなら、何故千年後の今日に温泉まで湧いているのだ。
「観光客も皆、実際にミカレ連峰を見てはそういうわね。でも本当の話よ」
「まさか、噴火も精霊の気紛れか?」
「まあ、人間の仕業ではないことは確かね」
エドガーは釈然としない面持ちで地図に描かれた連峰を睨め付ける。
だが睨め付けたからと言って伝え継がれて来た歴史が変わる訳でもなく。エドガーは零しかけた溜め息を呑み込んで、強引に納得させる。
「そういう訳で現代ではシリウス領が戦場にならないわ。でも他領や国軍に騎士を貸すことがあるから、鍛えるに越したことはないのよ」
「なるほど……」
ふと、白蛇がエドガーの手に頭突きする。尻尾の先で本の端を突くのを見るに、どうやらページを捲るのに疲れたらしい。
エドガーが次のページを捲ってやると、ヘリオスによる戦後の状況が記されていた。ミルザムを半ば放り投げた王家に対する愚痴のようなものが、幾重もの建前に包まれて綴られている。
「そういえば、何故王家とシリウス領は仲が悪かったんだ?」
「え、知らないの?」
本気で驚いているらしく、灰青の双眸が丸くなる。
まさかそんな反応をされるとは思わず、エドガーは首を傾げる。
「何故か仲が悪かったとは聞いている。だが普通に人間は行き来しているし、王家に近しい俺も赴任できている。過去にルーグィス家の者が登城した際にも露骨に対立しているようには見えなかったんだが、単純に反りが合わないのか?」
「王家は、遺さなかったのね……」
「何を?」
灰青の双眸があからさまに泳ぐ。饒舌に歴史を語り、なんだかんだでミルザム領がかつて王家派であった下りすら開け広げにしておきながら、少女は口籠る。
「ゼファーも教えていないのなら……聞かない方がいいと、思うのだけれど……」
「それは街の子供でも知っていることか?」
「……知っている子は知っているわね」
「では教えてくれ。ついでに解消しておきたい」
クレールは小さく呻き声を零すと、談話室の入り口を一瞥した。
一番奥の部屋とあって、閉じられた扉の向こうを人が通る気配はない。それでも机の上に身を乗り出して口元に手を添える仕草を見せるクレールに、自然とエドガーも耳を近付ける。
「初代シリウス辺境伯が王の庶子だったのは知っている?」
エドガーは王家の系図を脳裏に思い浮かべた。幼少時に散々叩き込まれたそれを浚い、該当する名前を引っ張り出す。
「側妃の子ではなく……?」
「違います。王が狩りで赴いた先で見初めた娘との子が、初代シリウス辺境伯です」
それが事実なら、彼が覚えた王家の系図の信憑性を揺るがしかねない。
エドガーは秀麗な顔を顰めようとし……しかし今は話題の先が気になるもので、努めて平然に見える表情を作る。
「それで?」
「王の正妻、当時の王妃は、彼をこの上なく厭うていたそうよ。妾の子の癖に、魔法も剣も上等に扱えたから……開戦から五年後の冬、まだ十二になったばかりの彼を戦場だったこの地に追いやった」
だが思惑に反して、疎まれた王子は死ななかった。それどころか大戦を終わらせた英雄となり、序列の高い辺境伯の位まで与えられてしまった。
「その後に王妃が産んだ王子が王位を継いだのもあって、ずっと犬猿。というか、王家がシリウス領を一方的に敵視して、シリウス領が辟易している感じね。王家は旧シリウス辺境伯領が妙に栄えているのも、今ではシリウス家の直系が治めていないのも気に食わないらしいわ」
「初めて聞いたんだが……」
「表立って言えないでしょうよ。千年も昔に辺境に追いやった格下の子供の末裔が目障りです、だなんて」
確かに、第三者が聞けば未だに固執しているのかと思わなくもない。王妹を母に持つエドガー自身、少し呆れてしまったくらいだ。
クレールは手を外すと、椅子に座り直す。
「ミラ・ブランシェは王政だけれども、精霊の国でもある。この地の精霊は初代女王の末裔ではなく、ミラ・ブランシェを護った初代シリウス辺境伯に膝を折った。だから王家はシリウス辺境伯家が疎ましくても手を出せなかったし、貴族位を持たないルーグィス家相手にも口出しできないでいた」
歴史を語るその声は相変わらず饒舌で、歌うように澱みがない。
「三百年くらい前からは緩和しているから、今の王家は昔より相当ましらしいわね。実際、王都の学園に通う子がやっかまれるのは、王家というよりも王家派に属する家の子かららしいわよ」
「それでよく、俺は受け入れられたな」
「貴方は例外中の例外。他の誰でもない、ゼファーが歓迎したのでしょう? ならよいのよ」
そう嘯く少女の瞳には、エドガーの知り得ない銀雪の街の道理が詰まっていた。




