026.純白の猫
その初冬の昼間、クレールは静謐の森の中をラクル河に沿って歩いていた。
今朝はそこまで冷え込まなかったからか、夜更けに降った雪は大して積もっていない。加えて今日は晴れているのもあって、いくらか溶けている。
それでも地面は黒い方が少なく、誤って河へと滑り落ちてしまわぬようにそろそろと歩を進める。
外套に覆われた華奢な肩元から顔を覗かせるのは、白蛇の小さな頭だ。
好奇心旺盛な白蛇は外に出たがる割に、雪の上を歩くのはあまり好まない。
そもそも寒さに弱いのだ。今日もクレールの首元に陣取って、踏み締められる雪音に耳を傾けるのに忙しくしている。
一時間ほど歩いただろうか。氷華を付けた木々が途絶え、視界が開ける。森の外れに来てしまった。
「……あら?」
森の外れよりも下流側、クレールの足で四半時間以上先の河辺で、黒いローブを纏った集団が集まっている。
彼らの声は一切聞こえないが、吹き曝しの河辺に綺麗に手入れのされた黒ローブの集団というのはよく目立つ。今日は公休日の筈だが、魔術の実験でもあるのだろうか。
見覚えのある赤銅色を見つけ、クレールは目を細めた。
「何をしているのかしらね?」
白蛇の小さな頭へと小首を傾げたクレールは、返って来ない声に訝しんだ。
「グレースちゃん?」
感情豊かな白蛇が返事をしないことは滅多にない。不満があってもクレールにだけ聞こえる声で訴えて来る。
一体何に気を取られているのか。つぶらな紅い瞳が見つめる森の中へと目を凝らすと、雪とは異なる銀色が煌いた。
「氷熊……」
日の光で溶けることのない氷針の毛並みに、大きな口から覗く牙と丸みを帯びた四肢の先に備わる鋭い爪――静謐の森の奥に棲む熊の魔物だ。
自分の背丈の倍以上はあろうかという巨躯に、クレールは息を呑む。
「此処まで出て来られる筈がないのに、どうして……」
氷熊は黒曜馬と違い、人間が飼い馴らすことのできなかった魔物だ。
餌も魔力も豊富な森の奥であれば襲ってくることはないが、逸れるような個体はそうでないことが多いとされている。現にシルヴェ・ティティアでは、逸れ氷熊が見つかれば数日はオリーヴィエの薬屋より北側を出歩かないように喚起が出される。
このまま真っ直ぐ出れば、下流にいる一行が見つかってしまう。いくら魔術師とはいえ、魔物相手に上手く立ち回れるとは限らない。
黒曜馬ほどではないが足が速く、腕力も強いのが氷熊なのだ。しかも他の魔物同様、元になった熊よりも賢く、精霊ほどではないがちょっとした魔法も使える。
幸いにして人間の味を覚えた個体はここ数百年出ていない。
このまま何事もなく、森の奥へ引き返して欲しい。
その願いが通じたのか、氷熊はクレールを凝視していたが、やがて興味を失ったかのように踵を返した。
白い巨躯が、雪の上に大きな足跡を残しながら、木立の向こう側へと消えていく。
重さの感じられる足音が完全に聞こえなくなったのを確認し、クレールは漸く息を吐き出した。
「よかった……」
今回は立ち去ってくれたが、念のため街に氷熊の出現を報せた方がよいだろう。
これから雪祭りが近付けば、真白い雪を求めて森の近くまで来てしまう者も偶にいる。その時に氷熊と出くわしてしまうことがあれば、居たたまれないどころではない。
クレールは街へ向かおうと身を翻した。だが踏み出した足へと返って来たのは、雪を踏み締める感触だけではない。
「え……えっ!?」
雪よりも更に下、地面が脆く崩れる。一瞬の浮遊感の後、身体が倒れていく先は、滔々と流れる河の上だ。
「うそ……っ!」
一難去ってまた一難という言葉があるらしいが、いくら何でもこれはあんまりだ。
クレールは首元で慌てている白蛇を掴むと、岸へと放り投げた。突然空中に投げられた白蛇は目を白黒させていたが、無事に枯草の上に落ちていく。
その確認を最後に、クレールは音を立ててラクル河に呑み込まれた。
苦しい。苦しい。
着込んでいる服が水を吸って、余計に重い。
岸に上がろうと藻掻けば藻掻くほど、水面が遠ざかっていく。
まさか、このまま死んでしまうのだろうか。誰にも気づかれないまま、冷たい川底に沈んで。
「っ……」
喉で留めていた息が、口から逃げていく。入れ替わるように、冷水が気管を焼く。
心臓が一層縮み上がり、胸が痛くて。耳の中が、流音で煩くて。
「――だいじょーぶ」
何かがクレールの背中に当たり、そのまま水面へと押し上げる。
「っ、はっ!」
気が付くと、固い地面の上で身体を折り曲げていた。何とか水を吐き出し切れば、頬を伝う雫を冷たく感じる余裕が生まれる。
そんなクレールの視界の半分を覆うのは、眩いばかりの純白だ。
一番近い姿をしているのは、恐らく猫だろうか。だが純白の毛に覆われたその体躯は、先程見た氷熊と変わらぬ大きさだ。
氷熊の銀毛よりも柔らかそうな毛並みと、すらりとしなやかな四肢。頭の上には、ぴんっと立ち上がった三角耳を備えている。
大きな瞳は、澄んだ青色。背後に広がる空をそのまま硝子玉に映し込んだような双眸で、真っ直ぐにクレールを見つめていた。
「……ロ……シュ……」
巨大な白猫は薄紅色の鼻で軽くクレールの頬に触れると、空に溶け入るように姿を消した。
それと入れ替わるようにして、複数の足音が聞こえてくる。慌ただしい先頭にいるのは、赤銅色の髪の青年だ。
「クレール!」
「エドガー、さん……」
黒いローブが濡れるのも構わずに、エドガーは横たわっていた上体を抱き起す。彼の背後では、魔術師が動揺した様子で何処かへと走っていくのが見える。
「しっかりしろ! 何があった!?」
大きな手に触れられた箇所から、じんわりと熱が広がっていく。
真っ直ぐな翠の双眸と身体に直接響く低い声に、河底へ引き込まんとする流れから逃れられたことを実感する。
「…………い」
「うん?」
ぶるりと華奢な肩が大きく震える。薄らと覗いた灰青の双眸には、河の水とは異なる透明が幕を張る。
「クレール?」
「さ、さむい……」
青白い顔で奥歯を鳴らし始めたクレールに、エドガーは慌てて己のローブを被せかけた。




