024.北の薬屋にて
引き籠りの日々を謳歌しているクレールだが、少なくとも週に一回は街に出る。
といっても、訪ねるのは懇意にしている薬屋とシルヴェ・ティティアの南側にある市場くらい。それも用事が済めばすぐに帰ってしまう。
月に一度は新刊を求めて水晶城の敷地内にある図書館を訪ねることもするが、街の人間と話すことはほぼなかった。
それが余計に彼女を蛇に魅入られた物好きにしているのだが、当のクレールが気付くことはない。
「今日は、グレースちゃんはお留守番ね」
身を屈めて言い聞かせるクレールに、白蛇は不満そうに紅い瞳を眇める。尻尾で床を叩いて抗議する様は駄々を捏ねる子供そのもので、クレールは溜め息を吐く。
風は冷たいが、日差しのある外は絶好の散歩日和。クレールとしても、溺愛している白蛇を連れて歩きたいのは山々だ。
だが、愛用している籠の中には、雪が降る前にと収穫してきた薬草がこれでもかと詰まっている。
全て薬の材料ではあるが、中には素手で触れることすら躊躇われるほど強力なものもある。とてもではないが、白蛇を一緒に籠には入れられない。
「帰ったら、お散歩に連れて行ってあげるから。今日は我慢してちょうだい」
「…………」
じとっと見上げて来るつぶらな紅色を真っ直ぐ見返して頷けば、白蛇は漸く諦めたようだ。
クレールの片腕より少し短いくらいの身体を引き摺り、寝台の中に潜り込む。尻尾の先までしっかりと毛布の中に仕舞ったところを見るに、どうやら不貞寝を決め込むらしい。
「なるべく早く帰って来るから」
毛布の隅で揺れる白色を確認し、クレールは漸く家を出た。
足早にクレールがやって来たのは、彼女の家を除けば一番北側にある建物だ。
旧シリウス辺境伯家とも所縁があるとされる一族が街の薬屋として代を重ねていて、現在は老婦人が主人を務めている。
「こんにちは」
いつものように表の扉を潜るが、老婦人からの返事はない。この時分は患者待ちがてら茶を飲むか新聞を読むかをしている筈だが、奥で作業でもしているのだろうか。
クレールは静かな店の奥を一瞥すると、もう一度声をかけようと口を開いた。
それと時を同じくして、背後から鈴の音がする。扉に着けられた、来客を報せる音だ。
此処に来るということは、患者だろう。そう思いながら振り返ったクレールは、相手の容貌を見て目を瞠った。
「……あ」
「うん?」
赤銅色の髪に、翠の瞳。黒いローブを纏う長身は濡れていないが、間違いない。
「ずぶ濡れ覗き魔」
「違う」
間髪入れずに反論してきた男は、秀麗な顔を顰めた。気不味そうにクレールから視線を逸らすと、そのまま明後日の方向を見る。
「いや、違わないんだが……」
「どっちよ」
「違わないんだが、違うんだ……」
男は苦虫を嚙み潰したような顔をしているが、クレールには訳がわからない。
「今日は濡れていないのね?」
「あれは成り行きで濡れているだけで、好きで濡れている訳ではない」
何をどうしたらずぶ濡れになる成り行きになるのか。クレールは男を凝視したまま、これでもかと首を傾げた。
クレールの家の周りは、ほぼ何もない場所だ。夏なら手前でラベンダーが一面を覆っているが、この時期は本当に何もない。雪すらまだない。
静謐の森に用事かとも思ったが、街に入った時点で森に立ち入らないように言われている筈だ。仮に街の住民の目を盗んで入ろうとしても、わざわざ足元が悪くなる土砂降りの日に入りたいものだろうか。
胡乱を隠そうともしないクレールに、男は気不味げに視線を逸らす。
「ねえ」
「なんだ?」
「詰所と城、どちらがいいかしら」
「兵に突き出さそうとしてくれるな……」
ふと、鼻先を何とも言えない香りが撫でていく。振り向くと、ちょうど老婦人が店の奥から出て来た。
「なんだい、蛇っ娘。珍しく騒いで」
「オリーヴィエ」
ポットとカップを乗せた盆を持った老婦人は、店の入り口で項垂れている男に気付いて僅かに眉尻を上げる。
「おや、魔術師様ではございませんか」
「邪魔をしている」
どうやら老婦人はこの男が誰かを知っているようだ。
クレールはポットから溢れる不可思議な匂い越しに、老婦人に訴えた。
「聞いてちょうだい、オリーヴィエ。この男。この前の雨の日に、勝手にうちに入って来た覗き魔よ」
「勝手に入って来たのなら侵入者だろ? どうして覗き魔になるんだい」
「うっかり雨で濡れたからって、ちょうど着替えていたのよ」
「それは……まあ」
オリーヴィエは憐れむような視線を向ける。何故かクレールではなく、男の方に。
女二人相手に、男も流石に居たたまれなくなったのだろう。
「その節は本当に俺が悪かった」
初めて見る男の後頭部に、ふんっとクレールは鼻を鳴らす。
「最初から素直に謝ればよいのに」
「謝ってなかったか……?」
「突然の来訪に対する謝罪しか受け取っていないわ」
棘をたっぷりと含ませて斜に構えれば、男は困ったように眉尻を下げた。
ともすれば情けなさを感じる振る舞いは、この男がするには何処かちぐはぐだ。クレールはほんの少しだけ罪悪感を覚えつつも、唇を尖らせる。
「それ以上に虐めて差し上げるのはおやめ……その御方は身元が確かだ」
「そうなの?」
「ほら、夏の終わりに王都からいらっしゃった」
「……ああ」
世俗に疎いクレールでも、それだけで男が何かを悟った。何せ、今も窓から翠に光る塔が見えている。
言われてみれば、彼の纏っているローブは街で何度か見かけたことがあるものだ。
灰青の双眸に宿っていた不審が解けたことに気付いたのだろう。
男はひとつ咳払いをして身を立て直すと、改めてクレールへとその秀麗な顔を向けた。
「エドガーだ。よろしく」
「……クレールよ」
微笑みかけて来るその翠色がなんだか懐かしいような気がして、クレールは無意識に唇を噛み締めた。




