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銀のカルーセル  作者: 白毬りりま
クレール・ネージュは春を告げる

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023.不測の邂逅

白花歴千十四年十月二十一日 rev12




*****




「――ねえ、起きて」


 また冬が始まるわ。






*****






 遠くで鐘が鳴っている。

 高く澄んで、森を越えて街まで響く音が、その時を報せるために。


「――――」


 不意に何かが頬に触れた。

 ひんやりとして、けれども思ったよりも冷たくない。何処からか現れたそれは、ゆっくりと頬を伝っていく。


「…………?」


 どうしてか、瞼が重い。上と下の瞼がくっ付いて、なかなか離れない。頭も鈍い痛みを訴えていて……まるで泣き過ぎた時のよう。

 全身も怠く、上手く腕が上がらない。


 そうして何度か身じろいで四肢を把握した彼女は、紅い森の中で目覚めた。


「ぁれ……?」


 余程深い夢に落ちていたのか、目の前の色彩に現実味がない。だが凭れている樹の堅さも、指先に触れる落ち葉の脆さも、確かにそこにあるものだ。

 もう何も憶えていない頭を、今度は霞を払うように横に振る。


 ふと、鼻先をくすぐる湿った風に、彼女は瑠璃色の双眸を瞬かせた。

 被っているフードのお蔭で、見上げた空は狭い。だが重さを感じそうなほど厚く垂れ込めた灰色は、嫌でも目に入った。


「ああ、雨か……」


 呟いた声は掠れていて、まるで自分のものでないかのように遠い。

 雪に似て舞い落ちる紅い葉も、湿った空気も、柔らかな土の感触も、何もかも違うと感じる。


 不意に、一滴の雨が落ちて来る。

 頬を叩いたその冷たさに彼女は何度か目を瞬かせ――漸く灰青色を瞠らせた。


「雨!?」


 傍らに転がっていた籠を掴むと、クレールは勢いをつけて駆け出した。




「ただいま!」


 激しい雨音と共に飛び込んだ小屋の中は、まだ日があるというのに随分と薄暗い。


 すっかりと濡れてしまった灰黒色の外套を脱げば、湿った焦がし砂糖色の髪が露わになる。使い古した灰色のドレスも、上から下まで見事に色を変えてしまっていた。


「もう! どうして寝ちゃったのかしら!」


 何度も森に入ってはいるが、このような失態は初めてだ。

 暖炉を兼ねている竈の前にしゃがんで考えてみるが、どうしても眠る前のことを思い出すことができない。自分が気付いていないだけで、それほど疲れていたのだろうか。


 クレールはドレスを脱ごうとして、一瞬だけ動きを止めた。だがすぐにどうせ誰も来ないと襟元を緩め、そのまま一気に灰色のドレスを脱ぎ捨てた。

 髪を纏めていた黒いリボンを解き、左薬指から翠の石を抱く金薔薇の指環も外して、失くさないように卓の上に並べる。


「やだもう……下着まで濡れちゃってる」


 これはもう風呂に入った方が早いのではないか。

 下着姿で部屋の中を右往左往していると、視界の隅で煌めく鱗が過った。氷咲水晶に似たそれは、彼女の愛する愛蛇のものだ。


「どうしたの、グレースちゃん」

「――クレール!」


 突然開いた玄関扉と、叫びながら飛び込んで来た長身。

 安穏を打ち破らんばかりの状況に、クレールはびくりと華奢な四肢を強張らせながら振り返った。


「…………」


 若い男だ。恐らく、二十歳になるかならないかくらいの年頃。

 肩に付かない長さの赤銅色の髪と切れ長の翠の双眸は、銀雪の街ではあまり見ない色彩。

 何処か慌てた顔はそれでも秀麗で、クレールよりも頭ひとつ以上大きな体躯には、緻密な金刺繍のなされた黒いローブを纏っている。


 ただし、そのどれもこれも、雨でぐっしょりと濡れそぼっていた。


「…………」

「………………」


 クレールにとって想定外の事態なのだが、男にとっても似たような心境なのだろう。玄関扉を開けた態勢のままで固まり、クレールを凝視する翠色は驚きで見張られている。


 果たしてこの男は、暴漢か、強盗か、はたまた押し売りか。それにしては身形がいい上に、雨に濡れても損なわれない気品がある。

 鍵は何故開いたのか。いつも開閉と同時に必ず閉めていた筈だ。まさか、壊れたのか。

 ほんのひと瞬きの間にそこまで思考を巡らせたクレールは、取り敢えずこの膠着状態を打破しようと唇を動かした。


「あの」

「う、うん?」


 石化から解けたようにぎこちなくだが、男から返事がある。相変わらず翠の双眸には混乱が渦巻いているが、どうやら話はできそうだ。

 クレールは過度の緊張を面に出さないように気を払いながら、未だ玄関扉を掴んでいる手を指差した。


「着替えているから、せめて扉を閉めて欲しいのだけれど」


 この家は街からかなり距離があり、前を通る者はほぼいない。とはいえ、着替えの最中に玄関扉を開けたままにされるのは、酷く居心地が悪い。

 本当は家から出て行って欲しいが、この時期の雨だ。クレールの家にも庇はあるが、濡れたまま外にいるのは寒いだろう。雨脚だって、先程よりも強くなっている。


「……あ」


 男は目線を余所にやりながら、片手で顔を覆う。よりにもよって玄関扉を掴んでいた方の手だったものだから、押さえを失った扉が鈍い音を立てて男の肩にぶつかる。


「あの、大丈夫? 結構痛そうな音がしたけれど」

「……大丈夫」


 顔を背けたまま、男はよたよたと後退を始める。釣られて玄関扉も徐々に閉まっていく。


「すまない……出直してくる」

「は?」


 引き留める間もなく、男はまた雨の中を走っていく。


「ええ……?」


 玄関扉が完全に閉まったのを確認し、クレールは首を捻りながら鍵をかけた。問題なくかかるのを見るに、不用心にもかけ忘れていたようだ。

 念のため扉の小窓から外を覗くと、男の後姿は雨と夕闇に紛れて既に見えなくなっていた。


「……なんだったの?」


 まるで嵐か精霊の気紛れに遭ったかのよう。否、嵐や精霊の気紛れの方が、まだ受け入れようがある。

 眉を顰める家主に、さあ? といつの間にか扉の脇にいた白蛇は首を傾げた。


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