022.喪われる色
エドガーと顔を合わせるのは、病室に勤めることになった日以来だ。お互いに忙しく、時折すれ違うことはあっても、言葉を交わす余裕すらなかった。
「顔色が悪い。ちゃんと休んでいるか?」
「ええ」
クレールよりも、病の研究と薬の開発をしているエドガーの方がずっと休めていない筈なのだ。昨夜だって、東の空が白む時間まで翠の塔にある研究室の明かりが点いていたのを、クレールは知っている。
ふと、クレールはエドガーの手元に目を留めた。他の魔術師や医療士は感染対策で血液汚れがわかりやすいようにと白やそれに近しい色の手袋をしているのに、今日のエドガーは黒い皮手袋を身に着けている。
外に出かけるのだろうかとも思ったが、この時期にしては生地が薄すぎる。まるで、素肌の色を透かさないためかのような。
「エドガー。あなた」
気が付いたら、目の前の黒手袋を掴んでいた。驚くエドガーを余所に右手を引き寄せ、強引に親指の根元まで皮手袋を捲る。そして見た。
「っ……!」
右手の甲に広がるどす黒い赤は、このひと月ですっかり見慣れた色だ。だが見慣れたからと言って、受け入れられるものではない。
「そんな……いったい、どこまで……っ!」
エドガーは応えない。ただ静かな翠の双眸にクレールは唇を噛むと、エドガーの襟を掴んだ。おぼつかない手付きで釦を外し、胸元を顕わにする。
「うそ……」
濁った赤色は、既にエドガーの腕だけでなく肩や襟に隠れていた首元にまで広がっていた。
クレールは知っている。これは最早末期なのだと。エドガーは涼しい顔をしているが、本当は既にほとんどの内臓が爛れてしまっている状態で、立っていることはおろか、喋ることさえままならない筈で、もう余命幾許もないのだと。
そんな患者を、もう何十人も見送って来た。
拒絶するように緩慢に首を振るクレールに、エドガーは何処か困ったような表情で微苦笑を浮かべる。
「ばれないと思ったんだがな。強めの鎮痛剤と治癒魔術のお蔭で、殆ど痛みは感じないし」
「エドガー」
「あと二、三日が限度だろう。でもその前に、どうしても最期に君に逢っておきたかったんだ」
「エドガー!」
悲鳴じみた声で叫び、両手で耳を塞ぐ。何か言いたいのに、荒れ狂った感情が喉の奥で絡まって、音にならない。
「すまない、クレール」
そんな言葉は、聞きたくなかったのに。
エドガーが亡くなったのは、二日後の朝だった。
*****
公爵子息であるエドガーは本来、ウィリス公爵領にある一族の墓地に埋葬される立場だ。だが今回の奇病で遺体を街の外に出すことはできないと、ラクル河の向こう側、街の北東にある共同墓地の一角に埋葬されることが決まった。
あれほど毎日吹雪いていたというのに、彼の亡くなった翌日は雪が降っていなかった。
まるで狙い澄ましたかのような天気に、誰も碌に悲しむこともできないまま、埋葬が執り行われることになった。
病の治療のために奔走していた若き魔術師のことを知っている街の住民たちは、自分たちも大変ながらも葬儀に集まった。貴族でありながら、気さくで街のことをよく思って尽くしてくれた彼のことを、口々に称える。
そうして沈鬱に時折嗚咽が混ざる中、掘られた穴の中に彼の遺体を収めた棺が下ろされる。
最初に棺に土をかけたのは、彼の友人でもあるグレンだった。
「あああああああああああああ……っ!」
堪え切れなくなったのだろう。参列していた若い少女の声が、悲痛を伴って冷えた大気を切り裂く。それを皮切りに、誰もが口惜しさに声を上げて泣く。
そんな光景を、クレールは少し離れたところから見ていた。
きっと悲しくて悲しくて仕方がないのに、何故だか心にぽっかりと穴が開いたようで。
きっと泣きたくて泣きたくて仕方がないのに、何故だか涙はほんの一滴も零れて来なくって。
啜り泣く人々も、埋められる棺も、置かれる墓石も、手向けられる花も、何もかも。
目の前の光景のすべてが夢であるかのように、実感がない。
「ほら、クレール……貴女も」
「…………」
フィオナに促され、墓石の前に立つ。ずっと凍り付いた地面に立っていて動きが鈍くなっていた脚を、転んでしまうことがないようにゆっくりと動かして。
『エドガー・レイ・マギ・ウィリス』
急いで用意された石に刻まれた、真新しい名前。冬枯れの街から掻き集められた花で囲まれたその前に、森の奥から摘んで来た青白い花を置く。
クレールは彼の死に目に会えなかった。症状の進行が速過ぎるのもあって、会わせて貰えなかった。気がついた時には、既に彼の身体は固く閉ざされた棺の中だった。
だから本当は彼がまだ生きているのだと信じたいのに……跪いた土は、確かに柔らかかった。
「エドガー」
冬の初めに出逢った、風変わりな魔術師。
「エドガー」
本当は蛇も蛙もあまり好きではないだろうに、何度も彼女を訪ねてくれた、物好きな青年。
「エドガー」
同じ卓で、同じお茶を飲んで。
くだらないことで呆れて。
ささやかなことで笑って。
知らないことを、たくさん教えて貰って。
「エドガー。エドガー」
壊れた人形のように青年の名前を繰り返すクレールの姿に、参列者たちは思わず顔を背ける。この冬の間、蛇小屋に通っていた彼の姿を、街の誰もが見ていた。
「エドガー。エドガー」
どれほどそうしていたのだろう。いつの間にか、雪はまた降り出していた。
最後まで傍にいてくれたフィオナが、そっと離れていくのがわかる。その際に頭と肩の雪を払ってくれた手に、クレールはびくりと肩を揺らす。
病はまだ収束の気配がなく、治療の手は全く足りていない。大した治療ができないクレールにも、手伝いの仕事がある。だから一刻も早く、城の病室に戻らなくてはならない。
それでも、クレールは立ち上がることができなかった。
「エドガー……エドガー……」
ふと、左薬指につけた指環が目に入る。彼が魔術師として冠する彩と同じ色の石を花弁の中に抱く薔薇。春の盛りから夏にかけて咲く、祝福の花。
「春になったら、海に連れて行ってくれるって……そう、言ったじゃない……っ!」
だがその約束は、永遠に果たされることはない。エドガーは死んでしまったのだ。
もう二度と、あの翠の瞳を見ることはできない。低く穏やかな声は、返って来ない。
「エドガー……」
嗚咽を堪えるクレールを嘲笑うかのように、吹雪が強くなる。色のない風が、小さな身体に叩き付けられる。
視界が白く染まる。
色も音も熱も、白に塗り消されていく。
ただひとりの境界さえ見失ってしまいそうな世界――耳の奥で、澄んだ鐘の音が響いた気がした。
白花が舞う空を、クレールは見上げる。漸く溢れた涙は零れた傍らから凍り付き、墓石に触れた指先は、既に感覚を失って。
「ああ……」
冬が、終わらない。
*****
白花歴千十五年二月十五日 rev04 終了




