001.蛇と話す少女
白花歴千十四年十月二十一日 rev04
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遠くで鐘が鳴っている。
「――――」
澄んだ音に呼応して、緩やかに浮上する意識。
まるで水底から湧き出でる泡のように、思惟の水面を目指して、ゆっくりと。
段々と引き上げられる感覚に釣られて薄く口を開けば、今まで呼吸を忘れていた肺に新たな空気が入り込む。眠っていた意識が血潮に似て、肩から腕、腕から指へと伝わっていく。
そうしてクレールが足の指先まで把握した頃。まだ重たい瞼を開けば、目の前には紅く染まり切った森が広がっていた。
「――……?」
いつの間に眠りこけていたのだろう。ぼんやりとする頭を動かせば、紅い葉が目の前に落ちて来る。
「んん……?」
余程深い夢に落ちていたのか、目の前の色彩に現実味がない。だが凭れている樹の堅さも、指先に触れる落ち葉の脆さも、確かにそこにあるものだ。
もう何も憶えていない頭を、今度は霞を払うように横に振る。また一枚、紅い葉が膝の上に落ちてきた。
ふと、鼻先をくすぐる湿った風に、クレールは瑠璃色の双眸を瞬かせた。
被っているフードのお蔭で、見上げた空は狭い。だが重さを感じそうなほど厚く垂れ込めた灰色は、嫌でも目に入った。
「今日、雨降るの……?」
呆けたような呟きに応えはない。だが一層湿度の増した空気に、クレールは小さく息を吐くとそのまま勢いをつけて立ち上がった。
傍らに置かれていた籠を掴み上げ、背を預けていた樹を後にする。
「夜の海を渡る三日月舟に乗って、見えない果てを誰が目指しているの」
古い歌を口遊みながら、クレールは碌な道のない森の中を慣れた足取りで進んでいく。
「銀の針はくるくる廻る。零れ落ちた祈りを集めて、私は今宵もひとり眠る。いつか目覚めて、あなたと同じ時を刻む夢で待ちながら……っと」
顔を上げると、木々の狭間から小さな三角屋根が見えてきた。程なくして紅い世界は途切れ、開けた場所に出る。
森の終わりに建っている小屋は、そう大きくはない。大の男が三、四人両手を広げてしまえば事足りるほど。定期的に丁寧に手入れをされているとはいえ、外装からしてかなり風情のある小屋だ。
小屋まであと数十歩のところで、クレールは早歩きを小走りに変えた。慣れた手付きで裏口の扉を開け、小屋の中へと飛び込む。
そうして年季の入った扉を閉めた瞬間、激しい雨音が地面に叩き付けられた。
「ただいま」
口にした習慣に返事がないのはいつものことだ。
狭い室内にあるのは、火のない窯と片付けられた木のテーブルに素朴な椅子三脚、そして小さな食器棚くらい。
今しがた入って来た方とは反対、街側の玄関扉は固く閉ざされ、申し訳程度の水場も、布で区切られただけの寝室も、がらんとしている。
他に人影の見えない冷えた室内を見渡し、クレールは羽織っていた灰黒色の外套を脱いだ。
途端、フードの中から溢れ出す、焦がし砂糖を紡いだような柔らかな金褐色の髪。
張りのある肌は日焼けに疎い白さで、頬と形の良い唇だけが薔薇色に染まっている。
すらりと伸びた四肢は触れると折れてしまいそうなほど細く、まだ少し幼さを残した愛らしい顔立ちと相まって、まるで生きた人形のよう。
着ているものが粗末な灰色のドレスだろうが関係ない。街を歩けば間違いなく十人中九人が振り返る美貌の少女。
ただし、その大きな灰青の瞳に負けん気を滲ませ、白い手で籠の中から丸々と太った翡翠色の蛙を鷲掴みにしなければ、の話だが。
「こう、雨が続くと嫌になっちゃうわ。ねえ、グレースちゃん?」
クレールが獲って来たばかりの翡翠蛙を掲げながら問いかければ、寝台の毛布の中から小さな白蛇が鎌首をもたげて反応する。
花の王国ミラ・ブランシェの北側に位置する、銀雪の街シルヴェ・ティティア。その住人であるクレールは、俗に言うところの『変わり者』だ。
まだ十六、七の麗若い少女の身でありながら、街の北側に広がる不可侵地域『静謐の森』の手前にひとり居を構え、滅多に街の人間の前に姿を現さない。
時々森で得た薬草を卸しに街に来たとしても、いつもその顔を隠すようにフードを被り、商売相手の薬屋の老婦人以外とは真面に言葉も交わさない。
その癖、飼っている白蛇にだけはしょっちゅう話しかけ、しかも会話が成り立っているかのように相槌を打ったりもしている。
お伽噺に出て来る動物と会話する魔法使いならまだしも、野良魔術師ですらない少女の奇行は、薄気味悪さを醸し出す。
折角の可愛らしい顔をしているのに着飾りもせず、異様に美しい白蛇に魅入られた頭の可笑しい少女。それが街の人間のクレールに対する評判だ。
「そりゃ、季節の変わり目だから仕方がないのでしょうけれど……でも雨に濡れるとしょんぼりしちゃうの。洗濯物だって乾かないし。グレースちゃんも濡れるのは嫌でしょう?」
今日も今日とて、静かな小屋の中で愛しの白蛇相手に花を咲かせる。
椅子に腰かけ、膝に乗せた白い鱗に覆われた麗尾を撫でれば、それだけで雨で憂鬱な気分も晴れ渡っていく。
傍目には愛らしさが霞むほどの不気味な言動を取る少女に、基本的に誰も近付きたがらない。元々住んでいる小屋が街道から離れているのもあって人の往来も殆どないのだが、それにしては度が過ぎている。
最後に訪ねて来たのだって、月一の警邏の巡回を除けば、夏に肝試しと称してやって来た街の子どもたちだけだった。
今日この時までは。
「……誰か来た?」
地面を叩く雨音とは別に聞こえてくる、規則的な水音。段々と近付いて来るそれは、人間の足音に似ている。
そう間もなく、街側の扉を叩く音が狭い室内に響き渡った。
「――誰かいらっしゃるか?」
玄関扉の向こうから聞こえて来たのは男の声だ。それほど歳は取っていない、張りのある若い青年の声。
目隠し布をかけた硝子窓に映る影からして、恐らくひとり。シルヴェ・ティティアの警邏は二人一組が規則であるからして、いつもの巡回ではない。
「グレースちゃん、隠れていて」
ちょうど掴んでいた翡翠蛙を差し出しながら言うと、賢い白蛇は一瞬で丸呑みにした。そのまま流れるような動作で素早く少女の膝から降りると、森側の窓辺に置かれていた籠の中に潜り込む。
クレールは見目だけは良い年頃の少女だ。街の男から好色な目で見られたことは一度や二度ではない。その上身寄りのないものだからと、それ目的で押しかけられたこともあった。
その誰も彼も、彼女の白蛇に睨まれた途端、怖気づいて逃げ帰って行くのが常だが、できれば麗しい彼女に煩わしいものは見せたくない。耳障りな人間の声を聞かせるなんて、白蛇が可哀想すぎる。
ふと、左薬指が目に入る。
翠の石を抱いた、金の薔薇の指環。魔除けの効果があるらしいからと日頃から唯一身に着けている宝飾品に、クレールは暫し動きを止めて逡巡する。
この小屋の中で唯一と言っていい金目のものが、この指環だ。もし仮に相手が盗人なら、指環に気付いて奪っていくこともあり得るかもしれない。そうなったとき、殺されないという保証は何処にもない。
クレールは念のため指環を外してポケットにしまい……ついでにと干してあったフライパンを後ろ手に隠しつつ、扉を少し開いた。
「どちら様でしょうか?」
蛇小屋に来るような人間なのだ、今回もきっとろくでもない客なのだ。
だが予想に反して扉の外に立っていたのは、盗人や暴漢とは程遠い気品を漂わせた、ひとりの青年だった。




