010.西の図書館
「今日は随分と冷えるわね……」
窓の外では、いつの間にかちらほらと白花が舞っている。雲の合間からは青空が覗いているが、このまま降り続けるようでは夜前には道が消えてしまうだろう。
髪を梳りながら、クレールは思案する。
「本格的に降る前に、本を借りて来ようかしら……グレースちゃんも行く?」
寝台の上で赤い布でできた魚と戯れていた白蛇だったが、声をかけるとすぐに外出用の籠に飛び込んでくる。その際にこれでもかと綿が詰め込まれたクッションを持ち込むことも忘れない、相変わらず器用で賢い白蛇である。
クレールは焦がし砂糖色の髪に青いリボンを結わえると、生地の厚い外套を羽織った。
シルヴェ・ティティアは銀雪の街と謳われるだけあって、雪深い街だ。冬になると別の街との行き来どころか外出すら容易ではなく、殆どの住民が家に引き籠ってしまう。
お蔭で家籠りの暇潰しが充実していて、そのひとつとして読書はよく嗜まれていた。
その後押しを担うのが、『西の図書館』と呼ばれる大きな図書館だ。
広大な敷地を有する水晶城。その北西の一角を占める小さな城のような形をした建物は、かつて初代シリウス辺境伯によって道楽で建てられた。
何百年もかけて集められた蔵書は国内随一とも謳われ、初代当主の意向もあり、開設当初から街の人間に開放されている。
雪が降っていても変わらず賑わっている街を通り抜け、装飾のなされた重い扉を潜れば、静粛な空気に出迎えられる。
クレールは入り口の敷物の上で外套を脱ぐと、受付に座っている男に声をかけた。
「こんにちは、室長さん」
「……こんにちは」
返って来る声はぎこちない。
余所の街から来たというこの壮年の男性は、以前は蛇娘と呼ばれるクレールにも普通に挨拶をしてくれていた。だがうっかり籠から白蛇が飛び出して驚かせてしまった日から、声に緊張に滲んでいるのはいつものことだ。
流石のクレールも反省して、家の外では籠から飛び出さないように白蛇に言い包めるようになった。今日も尻尾もしっかりと仕舞い、じっとしているのが籠越しに伝わってくる。
入退出記録に記名しながら、クレールは尋ねる。
「今冬の返却期限はいつかしら?」
「そうだねぇ……最近、冬が長いから。年が変わって白花歴千十五年、四月の朔日までに返してくれたらいいよ。五冊までね」
「わかりました」
今日は千十四年の十一月半ばを少し過ぎた頃だ。四ヶ月半も借りられるとなると、一冊は大戦前に書かれたとされる分厚い本にするのもいいかもしれない。
何処かで火を焚いているのか、凍て付いた森とは違って建物内は何処も仄かに温かい。
だが本棚だけが並ぶ図書館の空気は、静謐の森を歩いている時のそれと似通っていると、クレールは思っている。
特に今時分は平日の昼間とあって、利用客は少ない。いても併設されている談話室のいくつかに引き籠っているようで、ページを捲る音すら聞こえてこない。
建物の外では官吏や街の住民たちが行き交っているが、彼らの声が締め切られた図書館の中まで届くことはない。図書の官吏たちは、無法なことをしない限り、利用者に干渉してくることはない。
本の森には自分と白蛇だけ。そう思うだけで、心が浮つく。
奥の棚へ向かおうとして、クレールは脚を止めた。新書ばかりが集められている棚、収められているとある流行小説に、灰青の目を瞬かせる。
「……これ、今年の本だったかしら?」
覚えのある表紙を手に取り、クレールは首を傾げた。
書籍情報が記されている巻末を開けば、日付は今年の春になっていた。シルヴェ・ティティアに入って来る本が三ヶ月遅れなんてざらであることを考えると、ほぼ最新作だろう。
てっきり借りたことがある気がしたが、試しに冒頭を流し読んでみても覚えはなかった。
「借りようと思って、そのまま忘れていたのかしら……?」
新作がなかなか借りられないというのは、よくあることだ。人気作なんて、数ヶ月待ちなんて目ではない。
流行小説を抱えて次の棚を選んでいると、籠の縁から白い尻尾が覗く。いい加減に退屈になったようだ。
「そうね。グレースちゃんの本も借りて行かなくてはね」
子どもへの読み聞かせ用に、童話が集められた棚もある。そこなら幼い白蛇でも楽しめるものがあるだろう。
「あら……?」
本棚の前に立っている、確実に見覚えのある赤銅色の髪。今日は黒のローブではなく、政務官の制服を着ている。
「エドガー?」
小さな声で呼びかけると、紙面から離れる翠の双眸にクレールの顔が映る。
「誰かと思えば、クレールか。こんにちは」
「こんにちは」
ふと、エドガーの視線が一ヶ所で止まった。彼が何を見ているのか気付き、クレールは少し頭を傾げて見せる。
「リボン、してくれているんだな」
「私がしなかったら、サシェを飾るくらいにしか使い道がないもの」
「よく似合っている」
「……ありがとう」
気恥ずかしさに頬を淡く染めながら礼を言えば、秀麗な面差しが相好を崩す。
「折角だから、少し話さないか?」
どうやら談話室の一室を利用していたのはエドガーだったらしい。
連れられてきた部屋の机には、積み上げられた本と紙束と匙ほどの長さの細長い棒が置かれていた。羽根ペンとインク壺が見当たらないが、書き付けでも行っていたのだろうか。
部屋の中には小さな火鉢が置かれていて、広い図書室内よりも少し暖かい。換気用に窓が少し開けられていたが、何か魔術を使っているのか、冷風を感じることはなかった。
クレールは扉が閉じられたのを確認すると、籠にかけられていた毛織物を外した。途端、白く輝く蛇身が机の上に躍り出る。
「グレースも一緒だったのか」
応えるように舌を覗かせる白蛇の頭を、エドガーは指先で撫でる。
「最近はどうだ? 元気にしていたか?」
「お蔭様で」
最近の休日は彼が来なかったから、こうして顔を合わせるのは十日以上振りだ。また四回目の付き合いだが、クレールの中でエドガーの存在は思いのほか馴染みつつある。
そういえば、次に彼に会えたら話したいことがあったのだった。
エドガーの纏う政務官の制服を見ながら、クレールは口を開く。
「結局、食料品の購入は城が補助することになったのね」
クレールが店頭の食品の値段が下がっていることに気付いたのは、つい一昨日の買い物のことだ。
驚いたのはクレールだけではなかったのだろう。店主は淀みなく、差額は城が払うのだと説明してくれた。
「今年の納税はもう終わっていたからな。担当官吏と商店には手間をかけさせてしまうが、元々申請による補助の流れはできていたから、利用させて貰うことにした」
「だからって、こんなに早く対処ができるものなの?」
「筆頭公爵家の権威とマギステルの権限は伊達じゃない」
クレールは灰青の目を瞬かせた。
気安さに忘れてしまいそうになるが、目の前の男は国内でも上から数えた方が早い大貴族だ。権力の使い方は、きっとこの街の誰よりもよく知っている。
「ただ流石に対象者が多過ぎるからな――うっかり自分くらい大丈夫だろうと申告金額を詐称されても困るから、虚偽申告にはそれなりの罰則は用意してあると周知させて貰ったが」
「それなり……」
王都出身かつ生粋の貴族であるエドガーが用意した罰則なのだ。きっと雪掻きなんてお遊戯みたいなものに違いない。
大袈裟に慄いて見せるクレールに、エドガーは微苦笑を漏らした。




