プロローグ ①
俺の人生において、特別親しいと言える人間はそう多くない。片手で数えられる程度であり、そのほとんどが家族で埋まる。
父さんと母さん、昔からの友人がひとり。そして、妹を含めた四人だ。妹とは歳が近く、特に親しい仲だったと言えよう。
小学生の頃なんかは可愛くて仕方がなかった。あの頃は今以上に友達もいたし、妹と仲良くしていた記憶も残っている。『お兄ちゃん待って待って』と、どこまでも着いてきていたものだ。子分を得たような気持ちと言うべきか、幼少期の俺は充足感に満ちていた。
しかし、時は過ぎ去る。
時間というのは残酷で、妹も人間だ。気付けば変化を遂げ、今では『お兄ちゃん待って待って』ではなく『兄貴どっか行って』と言う始末。兄という称号は蔑みのそれへと変貌を遂げ、いたく嫌われてしまった。理由はてんで分からない。反抗期だろうか、それにしたってもの悲しい。
なお、これを理由に俺は妹を嫌いになってはいない。
この切なさをいかにして分解するべきか、妹はもうにこやかに微笑みを向けてはくれないのか?ちくしょうお兄ちゃんともっと仲良くしようよぉ!?
「…と、俺は兄としての自信を失いかけているんだ。いやはやまったく嘆かわしい……」
放課後の昇降口で、そんな意味のことを昔からの友人である平地丸に話した。退屈そうな顔で、そいつは言う。
「僕がその話を聞いたの、何回目だと思う」
「いい話は何度聞いてもいい話だろ」
「…ああうん。どうでも、いい話ね」
こいつめ、マトモに聞くつもりがないな。
下駄箱から靴を取ると、平地丸はそのまま続けた。
「要は妹さんが反抗期になって、歳頃のあしらいをするようになったんだろ。そしてそれが悲しい。妹トーク、マナブの常套句じゃないか」
靴のかかとに指を入れつつ、俺は言葉を返す。
「未だに信じたくないんだよ。あんなに可愛かったミノルが俺を嫌ってるのが」
「シスコンじゃん」
返事は聞こえなかったことにした。俺は靴を履き終え、校門へ向かおうとする。平地丸はやれやれといった調子で後についてきた。
門口を抜けると、校庭は春らしい暖かな空気に満ちていた。運動部や吹奏楽部の喧騒が止まない、実に放課後といった雰囲気のなか、俺こと棚角マナブは、最愛の妹のことで頭を悩ませていた。
この平地丸紅という男は、俺の旧友にあたる。昔の友達ではなく、昔から親しいという意味だ。外見はひょろりと小柄であり、その髪は黒く短い。
一見すると気弱な男なのだが、しかしその見た目からは想像できない、なんとも大雑把な性格をしている。
中学で知り合ってからというもの、なんだかんだとその仲は続き、今に至る。
校門をとっくに抜けた帰り道の途中、その平地丸がまた口を開いた。
「話は変わるが、ミノルさんがうちの高校に来るらしいじゃないか」
「なぜ知ってる」
途端、平地丸はしてやったりと言った表情を見せた。至極気にくわない顔だった。
「ホントにそうだったとは。マナブが妹の話をするのはいつものことだけど、しきりに嫌われたことを悔いるような物言いが増えたからね」
少し溜めて、
「何かあったんじゃないかと踏んだのさ。それで、時期を考えて適当に挙げてみた」
「紅、俺を嵌めたな…」
「分かりやすすぎるんだよ。こと妹さん絡みとなれば、マナブはすぐに見ていられなくなる」
信号機が赤になり、俺たちは歩を止めた。
「仕方ないだろ。兄として、ミノルと仲良くしたいって気持ちはあるんだ」
「でも、ミノルさんはそれを本気で嫌がるかもしれない。その意思も、可能性も尊重してあげたいって?」
じとり、とした目を平地丸に向けた。そんなことは分かりきっている。だからって得策が浮かばないのは、そうなんだが。平地丸は俺の視線など意に介さず続けた。
「学年が違うんだし、僕なら気にしないまま、それで終わりなんだけどな。マナブはどうにも解消したい訳だ。その蟠りを」
「お前は何もかも適当なだけだろ。だがまあ、そういうことにはなる。しかし……」
信号機が青を指す。言葉の途中で歩みを再開させると、平地丸の口もまた開かれた。
「いいか、マナブ。行動しなくちゃ現状は何も変化しない。ってことで、そんなに気になるなら話しかけてみるのはどうだい。ミノルさんも反抗期とはいえ、話が成り立たない訳じゃないでしょ」
「どうだかな。ミノルが中学生になってから、マトモな会話があったかどうか…」
平地丸はなおも続けた。
「だからこそ、じゃないか。もしかしたらミノルさんも、マナブと同じように考えあぐねているかもしれない」
「あの仏頂面が?」
「そうだとも」
「はあ?ミノルに仏頂面なんて言葉は似合わない。バカにしてんのか」
「…どっちがバカなんだかねぇ」
平地丸は苦そうに笑みを浮かべていた。しかし、その言葉は密かに俺の背中を押していた。妹に対して、コンタクトをとる。単純なことだが、妹を思えばこそできなかったその行動。
腹を決める、当たって砕ける、なんとでも言えるが、とにかく俺は決意を固めた。嫌われていたなら、その時はその時だと。帰路の最中、俺は腹を括ったのだった。妹に、ミノルに話しかけてやるぞ、と。