【批判の役割Ⅱ】
続けます。
では【批判する事の重要性】として、
ワタシではなく【実際の優れた創作者】の例を出して
物事を検証してみましょう。
毎度お馴染み『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木 飛呂彦先生は、
今でこそ当たり前ですが当時のジャンプの潮流であった
【インフレバトル】に早い段階から『疑問』を抱いており、
~前章の「強いボス」を倒したら、次は『もっと強いヤツ』を出さないと
面白くならない。でもそれじゃあ【最後はどうなってしまうんだ?】~
という、今でも存続している作品の『ジレンマ』を
何ともう【昭和の時代】から考えていたそうです。
実際連載中だった『ジョジョ』も、
少々人気に勢いが無くなってきたので
他の漫画のように『トーナメントをやったらどうだ?』
と当時の編集から打診を受けたそうです。
しかし先述の理由から、
そんな事をしたらいつかストーリーは破綻してしまう、
と思い至り、苦心に苦労を重ねソレで生まれたのが
彼の有名な【スタンドバトル】です。
『力が強いからといって、相手の能力次第じゃ敵わない』
『弱い奴は弱い奴なりに、工夫や策略を組んでくるので
主人公のような強者であっても苦戦する』
これなら相手が【無限に強くならない】ので、
ストーリーはどこまでも続けていける。
と結論に至り、ソレが『正しかった』事は作品の歴史が証明しているでしょう。
そしてこの『ジョジョのフレーム』は、
現在であらゆる漫画やアニメ、果てはゲームにまで
流用されています。
いずれにせよこの【発想】は、『批判』や『疑問』に端を発しない限り
絶対に出て来ません。
当時、まだ『若手』だった荒木先生に、
『本人は作品を面白くするため』に提案していたのですが、
しかしベテランや大御所の漫画家を【批判】するような言動に
【若僧のくせに生意気な】という風潮もあったそうです。
どうやら、【正しくても叩かれる】のが『批判の本質』でも在るようです。
しかし『批判』をせず『疑問』を抱かず
【現状のされるがまま】に作品を描いていたら、
『ジョジョのトーナメント』なんていう
誰も見たくない恐ろしい【駄作】が
歴史に汚点を残していた事でしょう。
コレはワタシの持論ですが、
【批判の無い所に成長はありません】
寧ろ、【悪事】や【謀略】といった
【マイナスの要素】が横行する場所と化してしまうでしょう。
近年の大企業や芸能事務所の【悪行】を振り返るまでもなく、
そうなってしまうのは
そこが【異論(批判)を許さない場所】だからです。
『間違ってる事は間違ってると言う』
『過ちを犯したら素直に謝る』
ソレってそんなに難しい事ですか?
或いはヤってはいけない事ですか?
ソコを有耶無耶にするから非常に低次元な物の言い合いになり、
『スタートライン』にすら立てないのではないですか?