【物語の欺瞞】
はいどうもこんにちは。
『国定 忠治』という人物を御存じでしょうか?
その名前くらいなら一度は耳にした事があるかも知れません、
よく戯曲や演劇の演目とされ、“弱きを助け強くを挫く”という
勧善懲悪の『義賊』として描かれる実在の人物です。
だが歴史上の人物が『正鵠』に描かれる事は無いという例に漏れず、
実際の処は現代で云う処の【反社会勢力】に於けるヤ〇ザであり、
“弱きを助ける”どころかその「弱き者」の家に徒党を組んで押し入って、
略奪、強〇、暴行、殺人の限りを尽くし、
その最後は磔、獄門に処されたと云う、
もうフォローのしようが無いただの【悪党 (外道)】です……('A`)
しかしコレが「歴史」の不思議な処というか「暗部」と云っても良いのですが、
この『国定 忠治』、現在では「盗んだ物を貧しき者に分け与えていた」
等と云うありもしない『ストーリー』が独り歩きし、
その素性を知らない者には『英雄』として祭り上げられています。
この原因となったのは先ほど言った「戯曲」や「演劇」
所謂『物語』の所為であり、その中で『美化』『正当化』されれば、
まるでソレが【史実】のようにでっち上げられてしまうという奇妙な現象が起こります。
「何か」に似てると想われませんか? というまでもなく
その答えはお決まりの「ライトノベル」です。
これまで話してきたようにある種のラノベ作家は
【自分を主人公】にするパターンが非常に多いのです。
その際に、“あるがままの自分”を“客観的に”描く者はほぼ皆無で在り、
当然、過剰な『美化』や『正当化』の限りを尽くす事となります。
コレが『物語』の『創作』の怖さであり、
ワタシのように端から『懐疑的』な者なら騙されはしませんが、
“物事を疑ってかからない人々”は容易くソレに騙されてしまいます。
極論、『挿絵』が上手ければその「中身」は誰が書いているかという
【事実】すら、どこぞに吹き飛んでしまいます。
正に先述の『国定 忠治』然り、アメリカの『ビリー・ザ・キッド』然りなのです。
ただの【鬼畜外道】ですら『物語』の力では『英雄』扱いされてしまう。
「覗き魔」「盗撮魔」「不埒漢」「卑劣漢」を『善人』として
描く事も、論理的には充分に可能となってしまうのです。
この騙そうする部分が
何よりも醜悪で悍ましいとワタシは考えますが、
「書いてる本人」はその事には気づかない、永遠に。
ともあれ、文章を読む際には「理屈」よりも『感覚』従った方が
得策であるという事がよく解るとは想います。
【作品には作者が全て出る】
その醜悪な本性、「その本人」が描いている限り、
『自分自身』からは決して逃れる事は出来ないのです。