『作品に於ける恋愛と性欲について』《二》
さて、前回よりの引き続きで
今回はその具体的な例をとして毎度おなじみ
『ジョジョ第七部/スティール・ボール・ラン』と
『HUNTER×HUNTER/キメラアント編』
を挙げますが、その編の主要キャラ、
スティール氏(53歳)とその妻ルーシー(14歳)、
キメラアントの王・メルエムと盲目の少女コムギは
【本当に肉体を介在させない究極の純愛の姿】
として体現されています。
そうするコトに拠って所謂 『愛』 と呼ばれるモノの
本当の凄さ、その壮大さが否応なく【表現】されるのです。
ジョジョの方ですと53歳初老の男性と14歳の少女など
現代なら犯罪、どうしても変態的嗜好を想起させられますが
作品を読み進めていけばこの二人は本当に心で繫がっている事が解るので、
『愛が在れば歳の差なんて本当に関係無い』と納得出来るのです。
ソレは取りも直さず夫であるスティール氏が
少女ルーシーに一切「性欲」を示さないから成立する話であって、
少しでもそのような素振りを見せたらスベテは瓦解してしまうコトでしょう。
ソレよりも更に凄いのがHUNTER×HUNTER、
メルエムとコムギの関係で、この二人は年齢どころか
『種族』さえ違う、人間と蟻という本来絶対交わらない存在、
作中でもシャウアプフが人間に見せた怒りの表情で
ソレは絶対に叶わないというコトがはっきりと描写されるのですが↓
『愛』 が在るのならその壁をも超えていける、
人間と蟻でも心を通じ合わせる事が出来る、
そもそも 『愛』 とは種族の壁すらも関係無く拡がっていく
途轍もなく大きいモノ、というコトが示されるのです。
ここに「性欲」が絡んだらスベテは台無し、
二人の美しい関係もただの悍ましい
異種族間の蹂躙劇に成り下がるだけでしょう。
まぁ『愛』だのなんだのらしくないコトを語ってしまいましたが、
結局「18禁」の作品を描くのでもない限り、
「性欲」の描写は百害あって一利なし、
本来その『必然性』が無いのです。
尾籠な表現になって大変申し訳ありませんが、
そもそも中年のおっさんの「性的願望」なんて
本来誰も見たくはない筈です。
ソレは思春期の『恋愛』と「性欲」の区別が付いて無い
未熟な子供の思考でも全く同じ事です。
「性欲」って、人に見せるモノですか?
或いは見せたいモノですか?
違うでしょう。