『新世紀エヴァンゲリオン』 ~アニメ版と漫画版、その恐ろしいまでの乖離~《四》
さて、庵野監督と貞本先生の【作家性の違い】についてですが、
まぁ例を挙げると多過ぎてキリが無いので
ここは主要キャラの一人、『綾波 レイ』の描写について
考察してみましょう。
序盤の山場、第五使徒・ラミエルの話ですが
主人公の碇 シンジが更新されたカードを届けに
彼女の住むマンションを訪れるわけですが、
そこで風呂上りの彼女と出くわしてしまうわけです。
ここもその「前後」でかなりオカシイ部分があるわけですが、
呼びかけても応答の無い彼女の部屋に入ったシンジは、
衣装ダンスの上に置かれた碇 ゲンドウの「眼鏡」を発見するわけですが、
アニメの方はこれ自分でかけちゃうんですよ。
何気ないけどこれかなり『失礼』な行動で
他人のスマホを見つけたけど勝手にメールだのラインだの
開き出す〇〇と同じ行動です。
漫画の方は手には取りますがかけません。
で、なんで「(メガネ) かけたか?」っていうと
その後に風呂上りの綾波 レイの姿がボヤけるから、
というただソレだけの理由です。
……一体「何」に力込めてるんだ? って話ですが
ここに『助平根性』以外の理由があるというのなら
誰か教えてください……('A`)
そしてその後の展開もお察しで不自然に綾波を押し倒してしまい、
鞄の紐がタンスの取っ手に引っかかって
「彼女の下着」が大量に散乱する。
……一体【何の意味】があるんですか? コレ……('A`)
『漫画』じゃそうはなりません。
でも「ラブコメが好きな人」はソレを描いてしまう。
「嫌いな人」は絶対に描かない。
もうこの時点で【女性キャラを性的に見るかどうか?】の
多寡が『作家によって』露呈してしまうわけで、
ソレは後の主人公の「言動」や【気色悪さ】にも繋がってしまうわけです。
だから旧版のシンジは『air』の序盤でいきなり〇〇行為を始めるわけです。
「ラブコメ」=『性欲』の事なので、
そのコントロールが効かないと必然このような体たらくに陥ってしまうわけです。
本当、フロイト先生もビックリのお話で御座います……('A`)
PS
ちなみに、ラミエル戦後の『綾波の笑顔』をまともに描いたのは
貞本先生(漫画版)の方が先です。
アニメの方だとやっぱああいう「感じ」になっちゃうんですよ……('A`)
(前後の「セリフ」もかなりオカシイし)
やっぱりズレてるんですよね、あらゆる所が色々と……('A`)