『所謂「ラブコメ」について』《二》
そもそもの話になりますが「ラブコメ描写」って
もう果たして本当に必要なのでしょうか?
「漫画黎明期」の『昭和の時代』だったらまだ解るのですが、
別に古典や伝統のように『普遍性』があるわけではないので
【未来に残す価値】は全く無いように想われます、
というか単純に気持ち悪いでしょう、ソレって……('A`)
その証拠にSNSの普及した昨今に於いては、
【主人公が叩かれる】事も含めてワンセットとなっております。
何なら「こいつはまだマシな方じゃないの? (ラブコメ主人公にしては)」
というキャラまで〇〇だの〇〇だのと袋叩きに遭っている始末です。
つまりワタシが云うまでもなく、もう【読者の方々】自体が
使い古されて形骸と化しているその『表現』に嫌気が差しているという事です。
要するにただの【惰性】或いは
ある一部の者の【性癖】でしか無いという事でしょう。
つまりは【百害あって一利無し】、
『昭和の一発ギャグ』を今やってるようなモノで、
そりゃ寒いし、滑るし、嬉々としてやってる者に
怒りや〇意も沸いて来るというモノでしょう……('A`)
(面白くないのに『自分は面白い』と思っている芸人に近い。
旧名山ざ、おっと誰か来たようだ)
さて、ここまでの内容は少々言い過ぎではないか?
と想われる方もいると存じます。
しかしこの【ラブコメ描写の有る無し】で【同じ作品】なのに
キャラクターもストーリーもテーマもスベテが
【全く変わってしまう (まるで『別モノ』)】という
稀有な例が存在します。
次回はその【超有名作品】を例にして、
よりテーマを深堀りして参りましょう。