『ライトノベル論・小説と挿絵について』《三》
続けましょう(ドアの外のピンクの某は見なかったコトにする……('A`) )
今回は、『キャラクターの精神性』について少し怖い話になるかも知れません。
前回ライトノベルのキャラの容姿を【劣化】させると
ソレはもう読めたモンじゃなくなる、という話をしました。
ではその『逆の例』を紹介しましょう。
皆様お待ちかねの『ジョジョの奇妙な冒険・第三部』です。
この作品の主人公、空条 承太郎は、『超』を遥かにブッちぎるほどの
超絶美男子ですが、しかし仮に彼が『醜男』で在ったとしても、
そのストーリーは充分『成立』します。
何故なら承太郎自身がそんなコト(容姿について)気にしていませんし、
彼の裡に宿る『正義』に見た目は関係ない。
外見がハンサムだろうが醜男だろうが
DIO様という強大な敵に立ち向かっていく『勇気』には
全く何も関係がないからです。
だから承太郎がブサイクであっても話は成立する。
寧ろ『醜男』なのに
【正義感が強く、確固とした信念を持っており、曲がった事が大嫌い】
というキャラクターなら、『逆に』読者の眼にはカッコよく映るでしょう。
キャラがブサイクになったくらいで大半のシーンが
見れたモンじゃなくなる作品とはエライ違いです。
キャラをきちんと創り込まない怠惰と浅慮の弊害は、
【挿絵の恩恵が無くなった途端】
いともたやすく剝き出しになってしまうのです。
コレが、ライトノベルに於ける『精神性の無さ』です。
ライトノベルを読んでいて、
【そのキャラの性格が好き、人格が好き、心が好き】
と想った事は存外少ないのではないでしょうか?
みんな【その挿絵が好き】で止まっている事は無いでしょうか?
少し古いアニメで『伊藤 誠』というキャラが、
ネットミームと化し未だに擦られて炎上してますが、
ソレと似たようなキャラは「ラノベ主人公」として
あちこちで散見されます。
(何なら「見た目」もそっくりなヤツいます……('A`))
【小説とは作者の精神の具現化】
表現形態が文字しか無い以上
アニメや漫画以上にこの『キャラの精神性』には拘らなくてはなりません。
しかしその一番【重要】な部分が
果たして他者の『挿絵頼み』で良いのだろうか?
文章と絵が鎮具破具ではもう作品として成立していないのではないか?
ワタシが一番危惧するのはその部分です。
ところで――。
アナタの好きな『ライトノベル作品』
どうでしたか?
【容姿を変えても】、変わらずそのキャラが好きでしたか?
PS
自分で言っておいてなんですが、
我ながら『キャラの容姿を劣化させる』という手法は恐ろしいモノです。
「挿絵」という偽りの『虚飾』が剥ぎ取られ、
その作者の内面、『精神』が剥き出しになるわけですから。
『絵の恩恵』が無くなったキャラの【醜悪】さ、
ソレはそのままそのキャラの精神の【醜悪】さであり
作者自身の【醜悪】さでもあるからです。
数年前自決した、ある思想家は云いました。
~表現者という職業は娼婦よりも恥ずかしい職業だ。
娼婦は「身体」しか晒さないが、
表現者はその『精神』まで晒してしまうからだ~
パワーストーンはただの石(≧▽≦)
御視聴ありがとう御座いました。