職場から昼休み、そして帰路に着くまで。
毎日、自転車を漕いでいると信号が変わるタインミングや最速のルートが見えてくる。次の信号右で次は、左、真っ直ぐに行くとちょうど青だと感覚的にその場のタイミングに応じてルート変更しながら職場に向かう。
イヤホンから流れる8時ちょうどのニュースと自転車の位置関係で職場に間に合うタイミングかどうかが分かる。
今日は、なんとか職場に間に合いそうだ。行き交う高校生や小学生、いつも並行して走る会社員や主婦も目的地に向かい自転車を走らせる。この人達も一緒の一日を歩んでいる、それぞれの時間が、その人達に流れている時間は平等に流れているけど、1人1人の流れてる時間は違うのではないかと思う時がある。
カップラーメンを待つ3分とSNSをしている時の3分と小学校で3分間跳んだ縄跳び、この自転車を漕いでいる3分。その瞬間の個人が有するそれぞれの体感的な時間を時計が指し示し平等な時間として表しているに過ぎないとしたら、各個人が持っている時間感覚次第では、同じ24時間でもその人の個人では、25時間になったりもするのではないか。時間に向き合い、その時間に集中すれば、カップラーメン3分を楽しむことが出来れば、3分も短くなり、SNSの3分はより集中することで実行する量が多くなるのではないか。はたまた、その逆もしかり。時間は個人の感覚で操ることができる。そうだ苦しい時こそ楽しめば早くなる。朝のあの1時間の辛い時間も楽しくできたらきっと早い。子供達も楽しい朝にすればいいのか。でもどうやって? まずは、親から楽しまないと、でもどうやって楽しむ?
自転車を走らせ8時20分に職場のロッカーに入った。靴を脱ぎ職場の靴に履き替え急いで服を着替える。服を着替えているとガチャ!と職場のリーダーが入ってくる。この人より遅いと遅刻するぐらい時間ギリギリのタイムパーソンだ。
今日もこの人より早いからタイムカードは間に合いそうだ。ロッカーを出て階段を上がり、職場のパソコンにカードを置きピンポンと音が流れて、ギリギリセーフ、今日も間に合った。職場は自分の席がないのでパソコンは取り合いだ。なんとか一箇所空いているパソコンに座り一日の流れをメモ帳に書き一日が始まる。
朝の仕事の最中にふと頭をよぎる風景がある、それは、地元の通学路や妻と行った思い出の場所や以前、住んでいた場所など、仕事しながら頭をよぎる。なんだろう。思い出す瞬間は、仕事に集中している時とか、仕事中、ふと我に返る瞬間に頭によぎる時が多い。その時いつも思う。今の俺を支えているのは、そういう風景や楽しかった思い出なのかもしれないと。いろんな場所や友達に合っていたから今の自分があるのだと。今は地元を離れて妻の地元に住んでいるから、長い間、地元の友達には会えていないのが現実だ。みんなどうしているのだろう。地元の友達は俺を忘れていないだろうか。浦島太郎も陸に帰った時そう感じたのだろうか。俺は過去の思い出に助けられながら、今を過ごしている。
昼休みになったが、朝の業務をまとめて昼に入る。まとめる時間が休みの時間を減らしていく。なんとか終わらせて、ロッカーに弁当を取りに階段を降りる。ロッカーに到着しカバンから弁当を取りロッカーを閉めてロッカールームの扉を開けてスイッチを切る。
スイッチを切ると思うことがある。このルーティンを俺は、あと何回繰り返すのだろう。何回スイッチを切れば俺はこのルーティンから抜け出せるのだろうか。人生100年時代といわれ、70-80歳まで働かないといけない時代、俺は今30代後半、アラフォーと呼ばれる年齢になりあと人生の半分もスイッチを入れたり切ったり、このルーティンをしつづけるのか。果てしない繰り返しは、容赦がない。社会の歯車であり、時間の奴隷である。そう思う俺は、この仕事にやりがいを感じているのだろうか。確かに嫌ではないが、仕事をしている時の俺は、気が張りつめている。全く心に余裕がない。仕事=ちゃんとしなければとの気持ちが常にあり、自分を追い込んでいる。なにか別人格の俺が仕事をしているような、一瞬、ロボットになったような感覚があり心ここにあらずの時がある。プライベートから、仕事モードに変わるスイッチを切り替える時が一番しんどいのではないか。そう思う。スイッチを押そうとするその瞬間が時間によって差し迫ると心が苦しい。スイッチを押してしまえば仕事モードとなり、まだ楽だ。そう思うと仕事中にふと見える風景は、ロボットのような感情から一瞬、本当の自分に戻る瞬間なのかもしれない。仕事モードの自分を支えてくれているのは過去の自分と思い出かもしれない。弁当を持って食堂を見渡し空いている席があり、そこに座る。
一緒にご飯を食べている人達はどういう気持ちで仕事しているのだろうか。コロナ禍もあり食堂では、食器の音だけが響く。壁には、黙食とA4用紙が貼られていて、誰も言葉を発しない。
弁当を開けると朝レンジに入れたシーンが思い出される、昼にワープしてきたみたいだ。なんだか。弁当を通じてプライベートの自分が一瞬戻って来た感じ。ご飯もほのかに暖かい。ご飯を食べ終わり、トイレに行き、職場に戻る。
歯磨きをしながら窓の外を見ると花が咲いている。その周りにハチが飛んでいる。ふと、二重スリット実験を思い出す。観察者がいるから光の粒子は安定する。観察者がいないと粒子は波となる。太陽の光は植物により安定し、植物はハチにより安定し、植物とハチは俺によって安定している。人間の視野は広範囲だ。この広範囲の視野がこの目の前に広がる物質を安定しているのなら、俺はこの世界を安定させるために存在しているのではないか。そうなると、他者は、自分を安定化させてくれている。だから、男女があり引きつけ合っているのだろうか。この世界を安定させるために。他者との繋がりは、コミュニティーを作り、この世界をより強固に安定させるために必要不可欠な要素であり、そして、仕事は、この人間の視野を広げるだけでなく、人間が興味を持った『この地球、この世界の隅々まで知りたいと思う』欲求につながっているのではないか。人間本来の探究心は、この世界の粒子を安定させ、おのずと仕向けられた役割を担っているのかもしれない。だから、人間は自分の体および魂の粒子を安定させるために注目を浴びたいと思うのか、だから、人間は潜在的に死ぬのは悪いと分かっているのだろうか、人を助け1人でもこの世界に命をとどめ安定化させる役割があるのだろうか。そう自然がしむけているのだろうか。自然が安定するために、自分が存在するのなら、この先の未来につなげる子供達を育てることも必然だ。もしシュレディンガーの猫の箱がこの空間であるならば、自分も今、自然界での役割の一部になっているのかもしれない。
歯磨きを終えて昼からの仕事に戻る。昼の仕事を終え、明日の準備。やらなければならない仕事が多すぎるが定時で帰る人、残業する人、なるべく残業せずに帰りたい。上司の目も光っている。俺はなんとか仕事を終わらせてロッカーで服を着替えて自転車に跨がり帰路につく。保育園は、妻が迎えに行ってくれるのでありがたい。
帰りは、街中を通らずに海よりの道を通る。坂道が多いが、夕焼けがキレイで坂道を下りながら風を感じる瞬間が一日の中で一番好きだ。ああ良かった。と思える瞬間。空や海、夕日を見ると地球は今日も1日回っている。
日々のルーティンは地球がおりなす産物であり、昔からずっと続いて来た賜物だ。地球からすれば、俺たちは、この地球の時間のほんの少しの時間を一緒に歩めるにすぎない。地球から頂いたこの時間をどう自分が歩むのか、使用するのか、どんな感情で過ごすのか、地球からみるとちっぽけで短いけど、俺は『少しでもなりたい自分』へと、この時間を、この体を使って歩んでいきたい。
なりたい自分になるために、すべては自分で選んでいる。その選択肢をどんな過程、どんな結果になっても受け入れる自分でありたいと思う。すべて自分が選んでいる。きっと大丈夫。地球は今日も回っている。そう夕日を見ながら自転車を漕ぎ帰路につく。これもまた、日々のルーティンだ。