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晩恋  作者: サエキタケヒコ
3/11

3 時間が止まった日


「いらっしゃいませ」


 ドアを開けると汐里の声がした。


「あら」

 

 私の顔を見て少し驚いた顔をした。


「昨日来た上田です」


「また来て下さったんですね」


「昨日のお料理がとても美味しかったんで、今日も食べたいと思って。でもここスナックですよね。そういう飯屋みたいな感覚できちゃだめかな」


「そんなことないですよ。褒めていただいて嬉しいです」


 まだ開店したばかりの時間帯の店に客はいなかった。


 私は、カウンターの中央に座った。


 汐里は今日も黒いブラウスに黒のスカートだった。


「お疲れ様」


 温かいおしぼりを手渡してくれた。


 仕事が終わって帰って、こんな風にお疲れ様なんて言われて迎えられるのはいったい何年ぶりのことだろうと思った。


「何にします?」


「とりあえずビールで」


 汐里は白く凍ったグラスを私の前に置くとビールを注いでくれた。


 私はビールを口にした。


 何の変哲もないただの瓶ビールだったがうまかった。


 汐里は小鉢からお通しのつまみを盛り分けてくれていた。


 胡瓜と茗荷を刻んだものと鶏皮をポン酢あえたものが出てきた。


 茗荷の風味と千切りにした胡瓜の食感がよかった。


 さらに揚げ出し豆腐をレンジで温めて出してくれた。


 こうした家庭料理を食べるのは久しぶりだった。


「料理が上手だね」


「おばあちゃんに仕込まれたんです。昔ながらの古い人で、『女は料理だ』って言うんですよ」


 そう言って笑った。


「今どき、そんなことを学校や会社で言ったら、ジェンダーがどうのこうのって言って、大変ですよね」


「ああ、全くそうだ」


「ところで恋活はどんな具合ですか」


「昨日、佐々木に教えてもらったアプリをスマホに入れたんだけど、なんだかああいうのは苦手だ」


「上田さん、本当に恋活とかされるんですか」


「こんなおじさんは、そんなことするだけ無駄かな」


「そうじゃなくて、誰かいい人がもういるんじゃないですか」


「だったらいいんだけどな」


 私は苦笑した。


「ところで、汐里っていう名前だけど、これは自分でつけたのかい」


「とんでも無い、親がつけました」


「えっ?」


「自分で自分に名前を付ける赤ちゃんはいないですよ」


 可笑しそうに汐里が笑った。


「すると本名なのかい?」


「ええ」


「てっきり、お店用の名かと思っていた」


「違いますよ。源氏名じゃありません」


 汐里が笑った。


 それを聞いて私は動揺した。


 汐里というのは妻が流産した娘に私が付けようと思っていた名前だったからだ。


「どうかしましたか?」


 思わず過去を追想して黙ってしまった私に汐里が訊いた。


「いや、何でもない」


 それから、私は汐里と他愛もない世間話をした。


 1時間くらいして、4人連れのサラリーマンの客が来た。


 私は勘定をしてもらい、店を出た。


 そのまま帰ろうかと思ったが、もう一軒寄ることにした。


 昔行った店だが、まだやっていた。


 マスターが一人でやっているカウンターだけのオーセンティックバーだった。


 そこで、ロックでスコッチのシングルモルトをもらい、カウンターに肘をつくと、前に置いてあるキャンドルの炎のゆらぎを見た。


 このバーのバーテンダーは髭を蓄えた無口な中年男性で客とは最小限度以上の会話をしない。


 私にはそれが好ましかった。


 梢のママの汐里という名が本名と聞いて、思い出したくない過去を思い出してしまったからだ。




「あなた娘だって」


 妊娠7ヶ月でエコー検査で性別は女の子だと知らされた妻の喜ぶ顔を見て、私も嬉しさを隠せなかった。


 そんな幸せな時もあったのだ。


 それが暗転したのはわずか1ヶ月後だ。


 妻が流産した。


 しかも、流産の影響で子供ができない身体になってしまった。


 泣き叫ぶ妻を何と慰めていいのか分からなかった。


 ギクシャクした夫婦関係が続いた。


 私は、思いがけず仕事が早く片付いたある日、上司に午後から休みをもらった。


 早く帰って妻を驚かせ、そのあと、二人でショッピングに行き、外食をしようと思ったからだ。


 妻の喜ぶ顔を見たいと思った。


 サプライズを演出するためにわざと連絡をとらずに家に帰った。


 日が少し傾きかけた午後3時だ。


 家に帰っても居間には誰もいなかった。


 寝室で人の気配がした。


 妻が昼寝をしているのだろうと思い、寝室のドアを開いた。


 そこで私が見たものは妻が私以外の男性に抱かれている姿だった。


 しかも、相手は私の高校時代から親友だった。


 あの日から、私の中の時間が止まってしまった。





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