2 新宿荒木町
「ここです」
佐々木は荒木町の飲み屋街に入って行った。
狭い路地になっていて飲食店が立ち並んでいる。
今どきチェーン店ではなく、個人でやっている店がこれだけ並んでいるのは圧巻だった。
奥の路地裏の店の前で佐々木は立ち止まった。
「ここです」
『梢』という看板が出ているスナックのような店だった。
「いらっしゃいませ」
佐々木の後をついて店に入ると、若い女性が迎えてくれた。
他に客はいなかった。
「また来たよ」
佐々木が軽い調子で言った。
「ありがとうございます」
私は店内を見回した。
内装は昭和の面影を残すスナックだ。
大学を出て社会人になりたての頃、よく二次会で上司に連れて行かれた店を思い出した。
「よく、こんな店を見つけたな」
「東信商事の影山部長と来たんですよ。もっとも影山部長は今のママの代になる前からこの店に通っていたらしいですけどね」
「はいどうぞ」
店の女性が熱いおしぼりを手渡してくれた。
「あ、ありがとう」
彼女はショートカットで鼻筋が通っており、日本的美人だ。
黒いシャツに黒のスカートをはいていた。
「この店のママの汐里さんですよ」
「初めまして。汐里です」
私は汐里という名前に戸惑った。
「こちら上司の上田さん。今日は上田さんの恋活の援助をしなくちゃならないんだよ」
「恋活?」
「上田さん、独身で彼女もいないんだよ。だからアプリの使い方を教えてあげようと思って」
佐々木はペラペラと余計なことをしゃべる。
私の自己紹介まで、佐々木がやってしまった。
「ゆっくりしていってください」
汐里が奥に行くと、佐々木が少し声を落として言った。
「汐里さんはまだ20代前半らしいですよ。前のこの店のオーナーから居抜きで借りてからまだ半年もたたないらしいです」
「ずいぶんくわしいな。彼女のことを狙っているのか」
佐々木がはぐらかすように笑った。
「ここ料理が美味いんですよ」
「料理?」
どう見てもただのカラオケスナックだった。
昭和レトロの赤いビロードの椅子に、カラオケのセット、カウンターとボックス席が数席あるだけの店だ。
「つまみは手作りなんですよ。それが結構美味しいんです。それにカラオケも歌えるのに安いんですよ。飲んで歌って食べても4千円くらいなんです」
そんな話をしているうちにお通しがきた。
「どうぞ」
枝豆をもった皿に、豚の冷やしゃぶ、卵豆腐、それに大根のサラダまでついていた。
大根のサラダを口にすると、ごまと梅肉としその酸味と風味が口に広がった。豚の冷やしゃぶもポン酢とゴマダレと両方がついていた。
「うまい!」
「でしょ」
とてもお通しというレベルのものではない。
普通、この種の店のお通しといえば、業務用スーパーで売っている徳用の袋に入った柿の種とピーナッツのたぐいだ。それでいて椅子に座っただけで結構な額のチャージを取られる。
「いい店でしょ。彼女のルックスもさることながら、料理の美味さとコスパの良さがこの店の魅力なんです」
「佐々木さん、まだ食べられます」
「大丈夫、どんどん出して」
佐々木が汐里に言った。
汐里が奥でなにかを炒め始めた。
「そうそう、飯を食べに来たのじゃなくて、アプリの使い方を上田さんに教えるために来たんですよね」
佐々木はそう言うと私のスマホを預かり、何やらアプリを入れ始めた。
私はカウンターの向こうで調理をしている汐里の姿を見ていた。
偶然とは言え、汐里という名前は私にとって特別な名前だった。