パンツ批判2
5年前にも私はパンツを批判したが、あの頃の私はまだまだ青かった。パンツのことをよく知りもせず批判していた。ゆえに、私は考えた。5年間ひたすらパンツのことを考えていた。
ある時ふと思った。パンツを嫌っている私がなぜこんなにパンツのことを考えているんだ、と。普通の人の9000倍はパンツのことを考えている。1日1回パンツについての意見をメモにまとめるという作業をする。これはもはやパンツ好きの習慣なのではないだろうか。
そしてようやく、5年と3ヶ月の月日を経て結論に至った。私はパンツは嫌いではなかったのだ。⋯⋯いや、そう言うと語弊がある。やはりパンツは嫌いだ。でも好きでもある。なぜこの相反する感情が同時に存在しているのかの説明をさせてほしい。
まず嫌いという感情が存在する理由。これは自分が履くとした場合、嫌いになるということだ。私がパンツを履かない派だという事実は変わらないのだ。理由は単純明快、世間へのアンチテーゼ。私から世間への些細な抵抗なのだ。私はパンツを履かないことでレジスタンスとなっている。しかしこれは外見からは分からないため、自分の中でひっそりと決めているに過ぎない。
また、パンツはタダではないのだ。私はパンツは履く必要のあるものだとは思っていないので、削減できる費用は削減したい。ただそれだけだ。先述の通りノーパンだろうと周りの人からは分からないのだ。なんたって私はズボンを履いてるんだから。
次に好きが存在する理由。やはり人には履いて欲しい。女の子だったら可愛いパンツを履いてくれると嬉しいし、男だったらアンラッキースケベでそいつのチンチンなんて見たくないからパンツは履いて欲しい。
あなたの友達がもし、実は自分は今ノーパンなんだ。と言ってきたらあなたはどういった反応をするだろうか。ちなみに筆者も今はノーパンである。
ちなみに私だったらドン引きしますね。ノーパンが許されるのは自分だけなんだから。パンツ履けよ! って激怒すると思います。すごいですよね、激怒してる側もノーパンとは誰も思わないでしょう。