4.謎の友情破棄宣言
アデリーナがフィリクスに過剰なスキンシップを控えるように進言した後、フィリクスは本当にそれらを控えるようになった。
それまでのフィリクスは、並んで歩く際は不自然なくらい近い距離感であったり、お茶の時は何故か横並びで座ったり、誰かにアデリーナを紹介する際は友人に接するように肩を抱き寄せたり、嬉しい事があった際はその喜びの表現としてアデリーナに抱き付いたりと、女性に対する接し方としては、いささか問題視される行動が目立っていたのだが……。
アデリーナに注意されてからは、適切な距離感を守り、エスコートも手を取るのみ。お茶の時間も向かい合わせで座るようになり、感情が大きく揺れ動いた際も表情のみで表すように心掛けている様子だ。
このようにすぐに問題点を改善できる部分は、流石学習能力が高い優秀な王太子と言われるだけはあるフィリクスの長所だ。
しかし、アデリーナは何故かその状況に寂しさを覚えた。
今までアデリーナの姿を見ると走り寄って来る大型犬のようだった王太子が、現在では澄ました表情をし、落ち着いた雰囲気でアデリーナを出迎えてくる。
改善して貰わなければいけなかった部分とはいえ、自分に異様に懐いていた王太子の巣立ちを感じてしまったのだ。
同時に他の人間には滅多に見せなかったあの無邪気な微笑みが見られなくなった事は、非常に残念だとも感じていた。
無表情の多かったフィリクスのあの警戒心を全て解除したような微笑みは、それだけの破壊力を持っていた。
そもそも初めてその表情を見た際に一気に心を持って行かれてしまったアデリーナなのだから、その表情を見られなくなる状況を自ら選んだとは言え、後悔しかない……。
しかし、今の二人の関係からすると、これが一番正解なのだ。
フィリクスがアデリーナに求めているのは、深い友情だ。
しかしアデリーナがフィリクスに求めてしまっているものは、男女間で生まれる愛情なのだ。その事をフィリクスに知られてしまえば、折角極度の人見知りの改善に効果を発揮した自分達の友人関係が壊れてしまうかもしれない……。
そう考えたアデリーナは、この先フィリクスが友情を求め続ける限り、自身の恋心を封印する事を決意する。
そんな政略的な婚約者同士ではよくある当たり障りのない距離感を二人で維持していたら、あっという間に半年の月日が経った。
その頃にはフィリクスの方もすっかりその距離感に慣れたのか、以前のような子供っぽい接し方をして来なくなった。
だがアデリーナにとっては、その変化が逆にフィリクスとの距離を感じてしまう結果になってしまっている。
16歳になったフィリクスは、今ではもう人見知りを彷彿させるような気配は一切ない。初対面の年の近い令息令嬢達でも問題なく交流をし、社交場でも一人で来賓客に対応出来るようになり、常に周りに人だかりを作っている。
反対にアデリーナの方は、孤立している事が増えてきた。
未来の王太子妃と目されていたアデリーナだが、社交性に磨きが掛かったフィリクスならば、もうアデリーナの助けなどいらない。その為、婚約者の見直しをされる可能性が出て来ているのだ。
打算的な貴族達は、すでにその事に気付いているのか、アデリーナへのご機嫌伺いの必要性はないと見切りをつけている人間も増えてきた。
その間、フィリクスがアデリーナを邪険にしていた訳ではない。
夜会等の参加時は、率先してアデリーナのエスコートに務めてくれていたのだが、それでもフィリクスの周りには、すぐに人だかりが出来てしまう為、どうしてもアデリーナを一人にさせてしまう状況が増えてしまうのだ。
その事はアデリーナも理解し受け入れている。
だが、アデリーナと親しい友人達は、その事に対して腹を立てていた。
「アデリーナ様、ごきげんよう」
「まぁ、レイチェル様! お久しぶりでございます」
お互いに淑やかな令嬢風の挨拶を交わした二人だが、次の瞬間、同時に扇子で口元を隠し、クスリと笑みをこぼす。
レイチェルは、アデリーナの父の生家であるフレイノール侯爵家の三女だ。
よってアデリーナとは従姉同士にあたる。一つ年上である彼女とは、昔から姉妹のように仲が良いのだが、誇り高きフレイノール家の侯爵令嬢としての自覚をしっかり持っている彼女は、アデリーナよりも毒舌で意志が強い。
「アディ、よろしいの? あなたの大親友の婚約者様が肉食系なご令嬢方に囲まれていらっしゃるようだけれど?」
「心配にはおよばないわ。フィリクス殿下は、もうお一人でご対応する事が出来るもの」
「そう。でも先程から、こちらにチラチラと視線を投げかけていらっしゃるわよ?」
「友人思いの方なので、わたくしの事を気にしてくださっているのね。そんな気遣いは無用なのに……」
「ふふ! そうね。なんせあなたは殿下の『最高の親友』ですものね!」
そう楽しそうに皮肉を言って来たレイチェルにアデリーナも苦笑する。
レイチェルには、フィリクスの酷い人見知りの事をこっそり話していたのだ。
その為、アデリーナがその改善策に五年間奮闘していた事を知っている。
だからこそ、レイチェルは今のフィリクスの状況に憤りを感じていた。
それが、つい表情に出てしまったのだろう。
先程まで優雅に微笑んでいたレイチェルは、チラリと人だかりが出来ているフィリクスの方に視線をやった後、嫌悪感を抱くような表情を浮かべた。
「それにしてもフィリクス殿下は、随分と虫のいい方なのね。五年間も人見知りの改善策に貢献したあなたをそれが改善された途端、用済みのように扱うなんて。そもそも婚約者の事を嬉々として『最高の親友』と吹聴なさるなんて、本当に神経を疑うわ!」
「レイチェル、殿下に悪気はないのよ……。わたくしは殿下にとっては、初めて出来た友人なの。その分、特別性が強くなってしまって、ついそのようにふれ回ってしまっただけだから……」
「でもそれは殿下が11歳の頃のお話でしょう? いくらなんでもこの年齢になっても初めて出来た友人を称賛し過ぎるのはどうかと思うわ! その所為で、すっかりアディは殿下の婚約者ではなく、友人枠として見られてしまっているじゃない! 見なさい。あの婚約者候補に名を挙げようと必死なご令嬢方の様子を! 殿下があのような態度をなさるから、すっかり脈があるとのぼせ上がっているわ!」
そう言って、レイチェルがフンと鼻息を荒くする。
令嬢としては、あまりよろしくない振る舞いだ。
だが、そんな風に自分の為に憤りを感じてくれている従姉にアデリーナは、思わず微笑んでしまった。
「アディ? 優雅に微笑んでいる場合ではないと思うのだけれど?」
「そうかしら。でもいずれ、こういう結果にはなる可能性も考えていたの。だからそれほど、焦ってはいないわ」
「アディ……。もし殿下の婚約者を見直す動きが出てしまったら、あなたはどうするつもりなの?」
「その時は……全て殿下の一存に従うわ。貴族同士の婚約なんて所詮、政略的なものだもの。五年前は殿下の酷い人見知りで相手を務められるのがわたくしのみだったけれど、今の殿下ならば誰とでも問題なく関係醸成を成す事が出来るのだし。そもそも伯爵令嬢のわたくしが王太子殿下の婚約者というのが、恐れ多かったのよ……」
「アディ……」
半ば諦めたような表情をアデリーナが浮かべると、心配するようにレイチェルが労って来た。だが、そんな二人に低く優しい声が掛けられる。
「失礼ですが、ブルネビラ家のアデリーナ嬢でいらっしゃいますか?」
「ええ」
「いきなりお声掛けしてしまい、申し訳ございません。私はディランタール家次男のアリウムと申します。実は……二年後に選抜されるフィリクス殿下の側近候補として、ありがたい事にお声がけを頂いている状態なのですが……」
「まぁ! それはおめでとうございます!」
「いえ。まだ決まったわけではなく、あくまでも候補という状態です。ですが……私は二カ月程前まで父の領地経営を手伝っていた為、王都に上がる事がほぼ無かったもので。このままではフィリクス殿下の信頼を得られるか、少々不安なのです……。そこで、もしよろしければ婚約者であらせられるアデリーナ嬢より、殿下のお人柄などをお伺い出来ればと……」
そう言って照れ臭そうに右手で頭を軽く掻くアリウムにアデリーナが笑みを深める。五年前はよくこうやってフィリクスと側近候補である令息達の間を取り持って、関係醸成に力を注いでいた懐かしい記憶が蘇ってくる。
あの頃のフィリクスは、まるで石像のように表情が強張り、一言も発する事が出来ない状態だった。その事を思い出してしまったアデリーナの表情は、懐かしさから花が綻ぶように優しい笑みをこぼしてしまう。
「ええ。喜んで情報提供をさせて頂きます」
「助かります!」
そう言ってアリウムはエスコートの為、スッと手を差し出し、会場の休憩スペースでもあるテーブル席の方へアデリーナを誘導しようとした。その手にアデリーナが何の迷いも見せず、自身の手を添える。
その様子をレイチェルが、やや茫然した状態で見つめていた。
その視線にアリウムが気付く。
「よろしければ、レイチェル嬢もご一緒に……」
放置気味になってしまったレイチェルを気遣い、声を掛けながら彼女の方へと視線を移したアリウムだったが……次の瞬間、大きく目を見開いた。
レイチェルの後ろから、物凄い勢いで三人の元に向かってくるフィリクスの姿を確認したからだ。
「フィリクス殿下?」
アリウムの呟いた言葉にエスコートをされかけていたアデリーナもこちらに向かってくるフィリクスの方へと視線を向ける。すると、何故かフィリクスが鋭い眼光でアリウムとアデリーナを睨みつけてきた。
「で、殿下?」
その尋常でない威圧感から、少し怯えながらアデリーナが声を掛ける。
すると、フィリクスは鋭い眼光のまま大きく息を吸い込んだ。
「アデリーナ・ブルネビラ嬢!!」
会場中に響き渡る怒声で、いきなり名を呼ばれたアデリーナが体を強張らせる。同時に周りの夜会参加者達の視線が、一斉に4人の方へと集中した。
すると、フィリクスは一度だけアリウムに取られているアデリーナの右手に蔑むような視線をチラリと向けた。だがその視線は、すぐに射貫くようにアデリーナの方へと戻される。
「私はこの場を以て貴女との友情を破棄する!!」
その瞬間……会場中が静まり返った。
「ゆ、友情……?」
思わず間抜けな声を上げてしまったアデリーナだが、それは隣にいるアリウムやレイチェルも同じような反応だ。二人共、茫然としている。
同時にその様子を窺っていた夜会参加者達にも困惑の表情が浮かび始めた。
だが、そんな雰囲気になっている事に気付かない程、フィリクスは苛立っていたのだろう。突き刺す様な視線をアデリーナに向けたまま、更に言葉を続ける。
「君との友情はここまでだ!! もう君とは友人として接するつもりはない!! 今後は友人以外の接し方で私に扱われる事を肝に銘じておくように!!」
まるで制裁を下すように声高らかに宣言したフィリクスは、物凄い勢いで肩を怒らせながら、会場から出て行ってしまった……。
その状況にアデリーナ達三人だけでなく、来場者全員が茫然と立ち尽くす。
だが、次第に会場全体から、密やかなざわめきが広がり始めた。
「友情破棄って……何だ?」
「破棄するのならば婚約破棄ではないの?」
「そもそも友情は、契約書等で交わすものではないのだから、破棄って言い方はおかしくないか?」
「絶交宣言……? でも、まさかフィリクス殿下に限って、子供同士の喧嘩のような事をわざわざ公の場で宣言等されないわよね?」
「ならば『婚約』と間違えて『友情』と宣言されてしまったのか?」
「いやいや。先程、確かに殿下は『友人として接するつもりはない』とおっしゃっていたじゃないか。やはりこれは立派な友情破棄宣言では?」
「立派な友情破棄宣言って何だよ……。子供かっ!」
「いや。殿下に限ってそのような幼稚な行動などなさらぬはずだ。この友情破棄宣言には、きっと何か重大な意図があるはず……」
「この場合、ブルネビラ嬢は名誉を傷付けられた事になるのか……?」
「まぁ、公の場で王族に絶交宣言をされたのだから、そうなるのだろうな」
「だけど殿下のお言葉では、今後もアデリーナ様とお付き合いを継続される様なお話しぶりではなかった?」
「友人関係は一切しないが、王家と伯爵家との付き合いは続けるという事か?」
「その場合、お二人のご婚約はどうなってしまうのかしら……」
ざわめきから微かに聞こえる会話にアデリーナの顔色が青くなる。
極度の人見知りを克服したフィリクスは、元々王太子としての能力の高さだけでなく、社交関係も優雅にこなす完璧な王太子として周囲から称賛されていた。
しかし、つい先程の謎の『友情破棄宣言』の所為で、王太子としての評価が急降下しているのだ……。
そもそも何故フィリクスが、あのような幼稚な宣言をわざわざ公の場でもあるこの夜会で行ったのか、アデリーナには全く理解が出来ない。
だが、あの行動で確実にフィリクスの評価は下がり始めている。
「アディ……」
あまりにも顔色を悪くしてしまっているアデリーナを心配したレイチェルが、そっと近づき、少しでも安心させようと肩を撫でだす。
すると……アデリーナの手を取っていたアリウムが何故か、突然吹き出した。
「ふっ、はっ! で、殿下は……フィリクス殿下は……大変面白い方のようですね! っ、くふっ!」
「「え……?」」
アデリーナとレイチェルが怪訝そうにアリウムを見やると、必死で笑いを堪えている所為か、息苦しそうにお腹を抱え、前屈みでプルプルと震えだしていた。
「アデリーナ嬢……。その、差し出がましい事を申し上げますが、急いでフィリクス殿下の後を追いかけられた方がよろしいのでは? このままでは殿下が……くはっ!!」
何がそこまで彼の笑いのツボに入ってしまったのか、アデリーナ達には分からないが、目の前のアリウムはいつの間にかエスコートしていたアデリーナの右手を解放し、涙まで浮かべ必死に笑いを堪えている。
「ア、アリウム様……?」
「ふはっ! ゆ、友情を破棄って……王太子がそんな宣言するなんてっ!!」
ついに我慢の限界を超えたのか、アリウムは声を上げて笑い出す。その様子に呆気に取られていたアデリーナだったが、何故かアリウムに白い目を向けていたレイチェルが、ポンとアデリーナの肩を軽く叩いた。
「アディ。この笑い死にしそうなディランタール伯爵令息の介抱は、わたくしが引き受けるわ。だから早く殿下の元へ行っておあげなさい!」
「で、でも……」
「フィリクス殿下は、皆が思っている程、そこまでメンタルがお強い方ではないのでしょう?」
「ぶはっ!!」
レイチェルの言葉で、アデリーナは先程の様子がおかしかったフィリクスの事を思い出す。しかしアリウムの方は、レイチェルの言葉で更に笑いのツボを刺激されたのか、前屈みになって膝まで叩き出した。
「ここはいいから! 早く殿下の元へ行って!」
「え、ええ!」
「ふはっ! あはははっ!! 殿下、メンタル弱っ……うっ、ゴホッゴホッ!!」
笑い過ぎて咽せ始めたアリウムの介抱をレイチェルに任せたアデリーナは、足早に会場を出て、城内のフィリクスの自室へと向かった。