唾液剣士 vs 放屁師 - 日下部 雅④
唾液を操る凄腕の剣士、剣崎怜。
彼は目にも留まらぬ速さで僕に迫り、瞬く間に僕の身体を粉々に切り裂いた。
四方に飛び散る多量の血液や肉片が、生徒たちを恐怖の色に染める。
異能対決は、剣崎の残虐非道かつ高速な剣捌きによって一瞬で終わったのさ。
彼らはかなり盛り上がっていた。
皇に煽られて…。
乗せられたと自覚している生徒も何人か居るだろうね。そして、彼らは後悔している。
“殺せ”。
“潰せ”。
“早くしろ”。
殺しを助長させる過激な発言をしてしまった自分自身に。
まぁ、僕は心を読む神憑じゃない。あくまで一般的な予想ってやつさ。
だけど、これだけは間違いなくそうだと言い切れる。
“日下部は剣崎の攻撃によって、無惨な死を遂げた”。
誰もがそう思っているとね。
それは、“BREAKERZ”や手に掛けた剣崎自身も例外じゃない。
「ふふっ…」
おっといけない。笑っちゃダメだ。
バレてしまうじゃないか。
本物の僕は今、宙屁で飛んで上空に居る。
剣崎が粉々に切り刻んだのは、僕の本体さ。
幻眼鏡屁。
僕の安くはない大事なメガネと霧状に撒いた放屁を何となく掛け合わせて自分の幻影を映し出す技。
え、いつ使ったんだって? 地上の日下部雅はいつからメガネと入れ替わっていたのか。
それはご想像にお任せするよ。
使ったのは、僕を襲ってきた神憑3人組“三叉槍”との戦い以来だね。
あまり使いたくない技なんだ。基本的には身代わりにするわけだから、使うごとにメガネが修理不可能なレベルに壊れてしまう。
メガネ代を考えると…。
1回に安くて8000円、高いと2万円くらいかかる高級な放屁だからね。
まやかしの血が着いた刀を鞘に収める剣崎。哀しそうではないけど、何とも言えない表情を浮かべている。
皆が僕の血肉だと思っているものは全てメガネの破片だ。勘のいい人は、血のわりにはベタベタじゃなくチクチクすると思っているかもしれないね。
またメガネを失ったのは痛いけど、その分この戦いの勝利は頂くよ。
誰もがメガネを僕だと錯覚しているこの状況。シラフなのは僕と、めちゃくちゃ不満そうにしているシリウスだけ。
“__ごめんね。あっさりと負けてくれなかった剣崎と、皆を煽った皇が悪いのさ”。
僕は心の声で彼に謝った。
目立ちたくないのはわかっている。だけどこれは負けられない男と男の戦いなのさ。
シリウス「手短にすませてくれ。いま君のお尻に居るのは僕だけじゃない」
渋い顔でそう話すシリウス。
僕の気持ちを尊重してくれたみたいだね。
わかっている。僕のお尻はもう僕らだけのものじゃないってこと。
彼は本当に怖がっているし弱っているんだ。だから、負担を掛けないように一手で終わらせる。
姫咲「し…、勝者……。青組……剣崎怜…。橙組の日下部雅を一瞬にしてバラバラに……うっ!」
生徒会副会長の姫咲さん、吐きそうになりながらも弱々しい声で司会を務めている。
刀を鞘に仕舞い、居合いのような構えのまま硬直している剣崎。
悲鳴が止まないオーディエンス。
僕は腕を組み、錯覚している彼らを見下ろしていた。
いけない、このままじゃ僕が負けたことになってしまう。
完全に僕が死んだと思い込んでいる今が頃合いだろう。
迅速かつ確実に剣崎を仕留める。
シューーー……!
僕はお尻の角度を変え、宙屁を強く吹かして降下した。
鞘を収めたまま動かない剣崎に、死角からなるべく音を立てずに距離を詰める。
何人かの生徒は僕に気づいた素振りを見せているけど問題ない。
彼らが声を上げる頃にはもう剣崎は墜ちているからね。
僕は迫り来る彼の背中を見据えた。
シュッ!
一瞬だけ強く噴射して、宙屁を解除。
最後は慣性のみで接近した。彼を墜とす技を出すためにね。
かなりのスピードで接近したつもりなんだけど、集中しているからだろうか。
体感ではとても遅く感じる。
ゆっくりと迫る剣士の背中。
僕は空中で身を捻り、微動だにしない剣崎にお尻を向けた。
チェックメイト。
後は思い切り放つだけ。
まぁ、最近はコントロールできるからお尻を向けなくても狙ったところに出せるんだけどね。
でも、これが原点にして最悪臭。
誇りを持って、何度でも言ってやるさ。
“これが僕の臨戦態勢”だとね。
「喰らえ__昏倒劇臭屁」
僕は勝利を確信していた。
技の名前を呟いて、放屁を放とうとするまでは…。
すんでの所で違和感を覚えたんだ。
剣崎、彼は鞘に刀を収めたまま全く以て動いていない。
言い換えれば、その体勢は…。
僕の本体を木っ端微塵にした居合いの構え。
ザッとこちらに振り向く剣崎。
鋭い眼光が僕に突き刺さる。
き……キャンセルだ…!
剣崎「尾蛇剣舞・渾身居合打」
「フライッ…! ファート…!」
彼は刃を鞘に収めたまま、僕のお尻に向かって刀を振り抜いた。
間一髪…。違和感に気づいてなかったら僕は負けていただろう。
ギリギリの間合いで空に飛んだことで、剣崎の刀は空を切る。
お尻の右半分が焼けるように熱い。鞘が少しばかり触れたに違いない。
あの太刀筋を見た感じ…、僕のイボ痔を狙っていたようだね。とんでもない殺意だ。
試合に負けるだけなら可愛いものさ。あの力強くて速い打撃がイボ痔にクリーンヒットなんてしていたら…。
運が良くて再入院。最悪の場合、あまりの痛さにショック死する。
空中で迂回する僕の頭には、様々な思考が一瞬にして浮かんできた。
剣崎はいつ見破ったのか。
いや、そもそも__。
本体に対する攻撃には刀を抜いていた。
対して、僕への攻撃は鞘を収めたまま。
僕が致命傷を負わないための配慮だとするならば…。
__最初から騙されていなかった?
動体視力が良いのは知っている。だけど、どうやって見分けたんだ?
僕だって、よくわかっていない技なのに…。
こちらを見上げて目を細める剣崎。
集中力が研ぎ澄まされている僕には、色んなものが見えている。
君も僕と同じように、今の一撃で終わらせるつもりだったんだね。
思惑通りに行かなくて動揺している。
上手く行かなかった時の対処を考えてなくて、ただただ悔しがっているだけなら…。
今がチャンスだ。君の考えがまとまらない内に、圧倒的物量で押し切らせてもらうよ…!
ーー
鞘に収めた刀を振り抜いた剣崎と、間一髪で退避した日下部。
日下部が上空で迂回し着地するまでの時間は僅か2、3秒ほど。
本人が自覚している通り、研ぎ澄まされた集中力によって、彼の思考はほんの僅かな時間で目まぐるしく変化していた。
ーー
ザッ!
剣崎からなるべく間合いを取るため、僕は円内ギリギリの所に片膝をついた状態で着地する。
そして、すかさず両手の平を彼に向けた。
僕はもう、背中を向けなくたって臨戦態勢に入れるのさ。
神憑にしか視えない茶色の放屁が、僕のお尻から放出されて手の平に集まってくる。
はっとした表情で身構える剣崎。
残念だけどもう手遅れさ。
「昏倒劇臭屁、機砲的連続放射」
手の平に集約した茶色い放屁は無数の弾丸のような形を成し、高速で剣崎の方へ向かう。
彼にとっては、音も色もない認知及び対処不可能な攻撃となるだろう。
無数の弾丸と成した昏倒劇臭屁を1つでも吸えば即失神。
身体の何処かに当たっても悪臭がこびり付き、呼吸をするたびに意識は遠のいていく。
2本の刀を構えたところで何もできやしないさ。
彼が少しばかり特殊な体質を持った普通の人間……ならね。
僕が放った茶色い放屁の弾丸を前に、剣崎は鞘に収めた2本の刀を持ち…。
ブン! ブン! ブン!
途轍もなく真剣な表情でダイナミックに振り回し始めた。
あれは、彼がいつも練習しているオタ芸の動きだ。かなり洗練されていてキレがハンパじゃない。
そして、これが悪あがきじゃないことはすぐにわかった。
無数の放屁の弾丸が、寸分の狂いもなく彼を左右に避けているんだ。
左右に逸れた放屁は剣崎の後ろにいた生徒たちに命中し、みんな苦しそうにバタバタと倒れ始めた。
闇雲にオタ芸をしているわけじゃない。
視えないはずの放屁を着実に受け流している…?
だけど、どうやって?
恐らくあの動きで自身の前に風の流れを作っているんだろうけど…。
直線的な攻撃が来るだろうという予測?
あるいは、何かしらの感覚で放屁を認識している?
優れた動体視力と関係でもあるのかい?
考えている余裕はなさそうだね。
どっしりと腰を落とし、大胆に舞う剣崎だったけど…。
彼のオタ芸は少しずつコンパクトになっていき、こちらに向かって1歩を踏み出した。
放屁の弾丸は、変わらず彼の両脇をすり抜けていく。
1歩、2歩、3歩と歩き出し、駆け出した時にはもうほとんどオタ芸のような動きはなかった。
放屁の捌きに慣れたとでもいうのかい?
両手に刀を持って、普通にこちらへ迫ってきている。
僕の目にはそういう風にしか見えないよ。あまりに速い剣捌きを目で追えてないのかもしれない。
だけど。とにかくこのままではまずい。
僕の放屁は無限じゃないんだ。ガス欠を起こすし、無茶をするとイボ痔にも響いてしまう。
機砲的連続放射が有効打にならないのなら、別の方法を…!
僕は剣崎に向けていた両手を閉じて即座に立ち上がった。
ザッ!
「…………! 速い…!」
茶色い放屁が消えた瞬間、彼は一瞬にして僕の目の前にやって来る。
「宙屁!」
ここはもう一度空へ…!
きっと彼も…。
ダンッ!
すかさず僕に着いてくる。
自前の脚力でね。
宙屁で飛び上がった直後、剣崎も地面を蹴って僕に着いてきた。
さっき着地してから攻撃したからね。
飛んでいる間は攻撃できない、あるいは隙が生じると彼は踏んだだろう。
剣崎「尾蛇剣舞翔式…」
空中で居合いの構えをとる剣崎。
刀身どころか、普通にパンチが届きそうなほどの至近距離だ。
“空中では僕に隙が生じる”。
それは半分正解とでも言っておこうか。
間違ってはないよ。同時に異なる放屁は使えないからね。
理由は至ってシンプル、お尻の穴が1つしかないからさ。
宙屁を放出中に、別の放屁で攻撃することはできない。
だから工夫が必要なんだ。一瞬だけ飛ぶのを止めてから、別の放屁に切り替える。
これがそこそこ面倒でね。
咄嗟にできるかと言われると中々難しいものがある。
特に剣崎のような速い攻撃で不意を突かれたりなんてしたら致命的だ。
半分正解と言ったのは、“準備ができてなかったり意表を突かれると空中では対応できない”ということ。
言い換えれば…。
“意表さえ突かれなければ対応は可能”なわけさ。
僕は剣崎の行動を予測していた。
僕が空に飛んだとき、すかさず追いかけてきて刀を振るうと。それも大怪我をさせないよう鞘に収めたままね。
君の攻撃は凄まじく速い。
だけど…。
「蟲翬屁」
キィーーーーン!
剣崎「ぐっ…!」
飛んで放屁を喰らう唾液の剣士。
先を読んでいた僕の攻撃はもっと早い。
鼓膜を攻撃する音の放屁。
怯んで耳を塞ぐ剣崎の両手から血が滴り落ちる。
至近距離だからね。
鼓膜が破れたのだろう。
なるべく傷つけたくはなかったけど仕方ない。
怯んだことで一瞬できた彼の隙。ここで確実に放屁を当てる…!
恐らく1発だけなら何をどんな風に放っても喰らうだろう。
だけど、彼は人間離れした身体能力を有している。お尻を向けている間に体勢を立て直してもおかしくはない。
かなり消耗するけど、あのやり方で確実に仕留めよう。
頼むからまともに喰らってね。
僕は両手に拳を作り胸の前で腕を交差させ、両膝をぐっと折り曲げた。
お腹に溜まっていたガスが全身に行き渡るのを感じる。
このやり方で放屁を放つ時…、僕は“全身が臨戦態勢”となるのさ。
墜ちろ、剣崎…!
「爆散型・昏倒劇臭屁」
ボオオオォォォォォン!!
耳を劈くかのような爆発音。
それは、僕が空中で大の字に手足を広げると同時に発生し周囲に響き渡った。
視界は高濃度な茶色い放屁に覆われ、何も見えなくなる。
放屁が視えてしまうことをこんなに煩わしく思ったことはない。
剣崎は墜ちただろうか?
身体が重力に引っ張られているのを感じた僕は、宙屁を少しばかり吹かしながらゆっくりと着地した。
爆散型、身体中の毛穴から放屁を四方に拡散する発射方法さ。
僕の近くに居る人は敵味方関係なく放屁を吸引することになる。
まさに全身が臨戦態勢、仲間が近くに居たら使えない。
さて、そろそろこの茶色い霧も晴れるだろう。
身動きに制限がかかる空中かつ至近距離で放屁を爆散したんだ。
その上、彼は怯んでいてまともに動けやしなかった。
普通に考えたら、剣崎はあまりの悪臭に気を失っていて僕の勝利ってことになるんだろうけど。
この霧は僕にしか視えない。つまり、僕以外の生徒には剣崎の容態がわかるはず。
ザワつく声は聞こえるけど、決着がついたにしてはいまいち盛り上がりに欠けるね。
そして、司会の姫咲さんも何も語らない。
まだ剣崎は墜ちていないと考えるのが妥当かな。
茶色い霧が薄れていき、前方に人影のようなものが窺える。
「さすが…。どう躱したのかはわからないけど、直撃を免れたんだね」
僕は、口と鼻を手で覆い肩で息をしている剣崎にそう言った。
目が充血している。辛うじて焦点は合っているみたいだ。
まともには喰らってなくてもかなりの量の放屁を吸ったと考えられる。
気を失うのも時間の問題だと思うよ。
だけど、油断はいけない。彼をまともな人間だと思っちゃダメなんだ。
最後の大詰めと行こう。恐らく意識は朦朧としていて、判断能力は著しく低下している。
僕は体操ズボンのポケットから新品のメガネを取り出して、隣にふわっと放り投げた。
背に腹は変えられない。勝つためには必要な出費なんだ。
「幻眼鏡屁」
無臭の放屁をメガネの近くに誘導し、僕は自分自身の幻影を作り出す。
剣崎「はぁ……はぁ……!」
息遣いの荒い剣崎に僕はこう告げた。
「この放屁は幻影を作り出すだけじゃない。僕のスペックをそのまま引き継いでいるのさ」
今から彼に語るのは全て真っ赤な嘘だ。
だけど彼は見破れない。正常な判断能力を失っているからね。
「僕にできることは、メガネにもできるということ。つまり単純に戦力は2倍、2対1の状況ってわけさ」
メガネには目もくれず、彼はこちらを見据えている。
僕はゆっくりと歩いて、メガネから離れながら話を続けた。
「ようやく必勝の技を使える。君は速いから使う隙がなくてね。境域型って聞いたことはあるだろう? この円内を臭い放屁で蔓延させる。君が取れる選択肢は2つさ。放屁を吸わないように場外へ避難して負けるか、放屁を吸って苦しんで負けるかのね」
僕が話を終えると、メガネはゆっくりと手を空に掲げてこう呟く。
「境域型・昏倒劇臭……」
バキッ!
一瞬で間合いを詰めて鞘に収めたまま刀を振るう剣崎。
サッ!
メガネが叩き割られるのと同時に、僕は剣崎に手の平を向けて昏倒劇臭屁を勢い良く発射した。
シューーーーーー!!
一直線に向かう茶色い放屁が、刀を振り抜いた彼を呑み込む。
ありがとう、ブラフに引っかかってくれたね。
直撃をこの目で確認させてもらったよ。
これで僕の勝利は確実に…
…………え?
剣崎が目の前に…。
どういうことだい?
たった今、放屁に呑み込まれて…。
まさか…、残像…? 速すぎて…?
今まで最高速じゃなかったのかい?
てっきり、既に唾液を使って…。
ブン!
僕のこめかみに向かって刀を振り抜く剣崎。
痛みも何も感じることなく視界が真っ暗になった。あぁ、負けたのか。
彼も後で気を失うだろうけど、流石に引き分けということにはならないだろうね。
少しずつ遠のく意識の中、誰かの声が微かに聞こえたような気がした。
“バトンタッチだ、日下部雅”。
__________________
ーー
剣崎「刀が……止まった?」
常軌を逸する速度で間合いを詰めて、日下部のこめかみに打撃を加えようとした剣崎だったが…。
反発するような力が働き、こめかみに直撃する寸前で刀が止まったのだ。
視えない剣崎が即座に理解するのは難しいが、視える者たちにはすぐにわかる。
彼が振り抜いた刀の鞘には、赤い放屁が纏わり付いていた。
「危ないよ、剣崎怜。打撃なら死なないと思ってのことかい?」
そう語るのは、日下部雅。
「その威力で殴れば人間の頭蓋骨は間違いなく陥没する。失神じゃすまないよ」
いつもとさほど変わらない口調や振る舞い。
僅かな違和感に気づく者は何人居るだろうか?
剣崎「出て来る可能性は低いと踏んでいたが…。目立つのはお嫌いでは?」
少なくとも、額に汗を滲ませている剣崎は気づいているようだった。
「そうだね。だけど、日下部雅に死なれると色々と都合が悪いのさ」
ドン!
ザザァ──!
日下部らしき者は彼の問いに答えた後、手を軽く振って赤い放屁で剣崎を押し出した。
お互いに、ちょうど試合開始直後の位置に立つ1人と1柱。
「刀を抜くと良い」
穏やかに微笑んだ彼は続けてこう言う。
「僕は、シリウスだ」
ーー
 




