恐霊 - 朧月 悠①
コツコツコツ……
あまり日の差さない薄暗い廊下の突き当たりにある生徒指導室に向かって僕は歩いていた。
“__待ってくれよ。内申点とやらのために私を売るのか?”。
彼はいつもと同じく、僕の脳に直接話しかけてくる。
彼というのは、僕の左手首にずっと着いている“僕以外には視えない腕時計”のこと。
僕もいつもと同じように、腕時計に意識をやり念を送るような感覚で返答した。
“__大丈夫………力を見せるだけ”。
彼は臆病すぎる。ある理由によって、僕が力を使うことを常日頃から怖がっていた。
どういう理由でかは知らないけど、人間離れした能力を証明できた生徒は内申点を貰えるらしい。
数日前に起こった鬼ごっこという名のテロ。あれが何か関係している気がするけど、それを言うと“危険だ”とか言って反対されるから伏せておく。
そんなことを考えていると、もう生徒指導室のドアの前だ。上手くいけば力を見せるだけで内申点を上げられる。
コンコン
水瀬「どうぞ、入ってください」
僕はドアをノックし、生徒指導室内にいる人の返答を聞いてから入室した。
“__頼むから、目立たないようにしてくれよ”。
僕の脳に直接語りかけてくる腕時計の形をした彼。
そういえば、彼が腕時計になったのっていつからだっけ?
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僕の名前は、朧月 悠。
両親の顔は見たことない。物心ついたときには既に都市部の孤児院で暮らしていたんだ。
10人か20人か…、それぐらいだったかな? 僕と同じように親がいなかったり、面倒を見てもらえなかったりする子供たちがこの施設に集まってくる。
そして、里親が見つかった子たちはこの施設から離れていった。
僕に興味を持ってくれた大人も何人かいたと思う。
だけど、僕は……恐がられた。
何才の時だっけ?
室内の遊び場の隅っこに、あの子が現れるようになったのは。
僕は明るく元気な性格でもなければ、運動や工作を楽しむような子どもでもなかった。
みんながお昼の時間に遊んでいる光景を、表情1つ変えることなく眺めているだけ。
自分から話しかけることもなければ、声を掛けられたからといって元気良く返すこともない。
そんな感じの子どもだったから、特に仲良くしている子もいなかったと思う。
僕は馴染んでいないこととか全く気にしていなかったんだけど。親の代わりを務める施設の人が気を遣って、僕を皆の輪に入れようとしてくれたんだ。
いつの話だったかは曖昧だけど、この出来事自体ははっきりと覚えている。
「みんな~! 悠ちゃんも仲間に入れてあげて!」
子どもの僕は、その女の人に手を引かれみんなのところへ向かっていた。
ここで1つ疑問が浮かぶ。
僕は手を引かれながらも、後ろに振り返った。
遊び場の端っこで表情1つ変えずに突っ立っているあの子が目に入る。
僕と瓜二つなあの子は、真っ直ぐこちらを見つめていたんだ。
施設の人が僕に声をかけて、あの子にはかけない理由は何なんだろう? 輪に入ろうとしている僕を見ているということは、あの子も仲間に入れてほしいと思っている?
「ねぇ……、あの子は………遊ばないの?」
気になった僕は部屋の隅を指さしながら、手を引っ張るその人に質問した。
次に発した彼女の言葉に僕は思わず首を傾げたのを覚えている。
「何言ってるの…? 悠ちゃん、あそこには誰もいないよ?」
子どもの僕を見る彼女の表情は強ばっていた。周りから恐がられるようになったのは多分この日からだと思う。
自分にだけ見えて周りには見えない男の子。
当時は自分に霊感があるとか、あの子は幽霊だとか、そんなことは全く思わなかった。
彼に対して“怖い”という気持ちは湧かなかったし、足が透けているとかそういうのもなく鮮明に見えていたから。
「積み木…………やってみる?」
「粘土は………? 楽しいよ…………手……汚れるけど」
「これは……ミキサー車ってくるま……こっちは………ショベルカー」
あの日以来、僕は部屋の隅にいる彼に話しかけるようになっていた。
見た目や雰囲気が自分に似ていて興味があったんだと思う。
来る日も来る日も彼に声を掛けていた。最初は無反応だった彼も次第に耳を傾けるようになったけど。
ここであることに僕は気づく。
彼は声を出すことができないらしい。口を動かして話そうとはしているみたいだけど、それが音にはならない。
でも、あまり気にはならなかった。
彼は自分で遊ぼうとはせず、僕が遊んでいるのを興味津々といった感じで眺めているだけだったから。
一方的に僕が話すだけで何の問題もなかったし、密なコミュニケーションを取る必要なんてなかった。
だけど、僕のこの行動は傍から見るとよほど不気味だったらしい。
毎日、部屋の隅へおもちゃを持っていってはぶつぶつと呟いている姿に、知恵熱を出す子や、気味悪がって関わりたがらない職員も出てきた。
このままではまずいと思ったのか、施設の管理者は僕を別の孤児院へ移すことに…。
あぁ、もうあの子とは遊べないんだな。
移動する当日。他の施設からやって来た車の前で僕はそう思った。
「ごめんね、悠ちゃん。別のところでも元気でね!」
あの時、手を引いてくれた女の人。車の前でそう言って、僕を乗せようとドアを開ける。
ガチャッ
後部座席のドアが開いて中が見えた瞬間、僕は多分……“嬉しい”という気持ちでいっぱいになったんだ。
僕から見て奥側の席。彼がいつもの表情でこちらを見据えていたから。
歓喜の余り、僕は奥の席を指さし、笑顔で女の人に問いかけた。
「ねぇ、あの子も一緒なの?」
今思えば、この人の前でニコリと笑ったのはあれが初めてだったのかもしれない。
迎えに来ていた別の施設の人、僕の手を引いてくれた人、そしてその周りも。
あの凍りついた空気。僕を見るあの目。
僕がこれらを忘れることは多分ないだろう。
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あれから孤児院を転々としている間に、気づけば僕は中学生になっていた。
僕の里親になってくれる人は相変わらず見つからないままだ。
やっぱり僕の持つ雰囲気は怖いみたい。
どういう理由なんだろう?
感情の起伏や表情の変化がないから? それとも…。
今は学校の帰り道。日はとっくに沈んでいて街灯がない限り、辺りは真っ暗だ。
僕は薄暗い曇り空の下、人気のない狭い道を歩いていた。
そして、チラッと後ろを振り返る。
僕が怖がられるのは、いつも通り着いてきている彼が原因でもあるのだろうか?
僕と瓜二つで誰にも見えない彼は、常に後ろから着いてくる。授業中は教室の隅っこで突っ立っている感じ。
お互い出会ったときと比べて、背が伸びたり顔つきが変わったりしているけど、やっぱりほとんど同じ見た目だ。
“ねぇ、君はいったい何者? 本当は人間じゃなかったりする?”。
「ハハッ、そう怒んなって! ちょっとで良いから俺らに付き合えよ!」
彼にそう聞こうと思ったとき、前方から大きな張りのある声が聞こえてくる。
みんなが怖がるから、中学に上がって以来は彼に話しかけていなかった。周りに人がいない今なら話しても大丈夫かなと思ったんだけど…。
僕は後ろに捻っていた首を前に向けて足を進めた。
ずっと下を向いてたからか、近くに人がいるなんて気づかなかったんだろう。
僕の10歩先くらいで、1人の女の子が3人の男子に囲まれていた。
見た感じ、みんな僕と同じ中学生だと思う。でも、多分男子の方は年上だ。
3人共、僕より背が高く体格もしっかりとしているから。
多分さっき声を張ったのは、1番筋肉質で横をがっつり刈り上げているあの人だろう。
他の2人はそうでもないけど、あの人だけはヤンチャで危なそうな雰囲気をしている。
「中学に上がってから男がやたら寄って来るのはなんでかしら? 悪いけど代わりはいくらでもいるの。貴方たちと遊んでいる暇はないわ」
ふんわりとした口調でそう返す彼女は、ふっくらとした頬に、背中まで伸びたボリュームのある髪が特徴的な女子だ。
彼女の返事に憤りを感じたのか、筋肉質な彼は怪訝な顔をして2人の方へ向く。
「おい、どうする? 無理やり連れてくか?」
この発言で場の空気が一気に重くなった。
困惑した表情をしながらも、中性的な顔をした男子が口を開く。
「無理やりはダメだよ、氷堂。問題になったら内申点に響いちゃう」
「尼寺の言うとおりだ。当初はナンパの練習で声を掛けるだけだっただろ。もう夜も遅いし、そろそろ帰ろう」
尼寺と呼ばれた人に続いて、もう1人の細くて背の高い男子も氷堂って人を制止した。
不服な顔をする氷堂と、彼らを気にすることなく普通に近づいて通り過ぎようと思っていた僕。
足を止めて話を聞いているわけじゃないから、彼らとの距離は徐々に縮まっていた。
「無理やりね…。できるものならやってみれば? アタシに指1本でも触れたら…」
触れたら……どうなるんだろうか?
彼女はゆったりとした口調を崩さずそう言って、穏やかに笑う。
ザッ…
ちょうどこのときぐらいだ。僕が彼らと普通の声で話せるくらいまで接近し、彼らが僕の気配に気づいたのは。
氷堂「うっ…! 何だよ、ビビらせんなよ!」
彼ら3人は引き攣った顔をして、こちらに振り向いた。
びっくりさせたつもりはないんだけど、やっぱり僕は怖がられるみたいだ。
後ろの2人はただ警戒しているような顔をしているだけだけど、氷堂は両手をぐっと握り締めていた。
ほとんどの人は恐怖を感じたものに対して、逃げたり緊張して動けなくなったりすると思う。
だけど、中には自分の中にある恐怖を掻き消そうとして、逆に飛びかかる人もいるんだ。
あの人は多分、そういう性格。
氷堂「お、おい……。何とか言えよ。な、何メンチ切ってんだよ…!」
そう言う彼の声はか細く、握り締めた拳の震えもだんだんと大きくなってきている。
このままだと殴られてしまうかも。でも、ここを通らないと今いる施設へ帰れない。
僕は後ろにいる彼に少しだけ目をやって考えた。
より強い恐怖を与えれば、飛びかかってきそうな氷堂でも逃げてくれるだろうか?
3人とも僕のことが怖いのかもしれないけど、僕だって殴られるのは嫌だし怖い。
故意に怖がらせるのは初めてだけど、試しにやってみよう。
僕は親指で自分の背後を指さして、こう言った。
「君たちにも………見えない………? 僕に……着いてくるあの人……。小さい時から………ずっと」
場の空気が一瞬にして凍りつく。
「きゃーーーー!」
甲高い悲鳴を上げ、向こう側へ逃げていく女の子。
氷堂の後ろにいる2人も彼女に続いて逃げようとしているみたいだけど…。
尼寺「氷堂、伊集院! 逃げよう、あいつはヤバい」
伊集院「そ、そうだな。あれは呪いか何かの類いだ。帰ろう、氷堂!」
より強い恐怖を与えると逃げだすっていうのは半分正解で半分は間違っていた。
氷堂「う、うおおおぉぉぉぉぉぉ!! 殺すうぅぅ!」
彼は今にも泣きだしそうな顔をしながら、僕の方へ向かってくる。
元々あった飛びかかってくる性格を助長させてしまったみたい。
それに“殺す”って彼は言っている。
僕のことを人間じゃない呪い的な何かだと思っていたら、本気で殴り殺そうとしているかもしれない。
逃げるか戦うか選ばないといけない状況なのに…。
「…………!」
こんな危ない状況にあったことのない僕は、突っ立ったまま身体を強ばらせ、飛びかかってくる彼から目を背けることしかできなかった。
当然、目を閉じたせいで何も見えない。
もうすぐ殴られるんだろう。下手したら死ぬかもしれない。
あぁ、もしかすると“怖い”ってこういう気持ちなのかな?
…………。
目を閉じてから数秒。
何も起こらない? 殴られるのって結構痛いと思うんだけど、そんな感覚しない。
そもそも、何だろうこの感じは…?
目を閉じてから、やけに辺りが静かになった気がする。もちろん、最初から静かな場所ではあったんだけど。
静かになったというより…、
音が消えた?
そういえば、氷堂はこちらに向かって走ってきていたはず。足音の1つや2つ聞こえてこないと変だ。
僕は意を決して、恐る恐る目を開いた。
「え……これは………?」
そこに広がっていたのは、現実ではありえない異様な光景だった。
こちらに走ってきている氷堂の身体……いや、この世界そのものが止まっている?
僕は驚きながらも辺りを見渡した。自分以外の時間が止まっているかのような感覚に陥る。
でも、完全に動きが止まっているわけではないようだ。
よく目を凝らすと、向かってきている氷堂の身体は、ほんの少しだけどゆっくりと動いてはいる。
僕以外がスロー再生されているような…。
いったい僕の周りで何が起こっているんだろうか?
「私の力…? 悠が発動させたのか?」
目の前で起こった不思議な出来事に困惑していると、すぐ後ろから自分と同じような声が聞こえてくる。
もしかして、彼の声?
僕が後ろに振り返ると、こちらを見据えていた瓜二つな彼と目が合った。
「話せるの?」
そう聞いた僕に対して、彼は目を見開いて驚いているような顔をする。
「私の声が聞こえているのか?」
うん、はっきりと聞こえるよ。声まで僕にそっくりなんだね。
僕は声での会話ができたことに少し嬉しさを感じながら深く頷いた。
「すまない。ずっと謝りたかった」
すると、彼は辛そうな顔をして僕に謝ってきたんだ。続けて彼はこう言う。
「君の本来の人生を壊してしまったかもしれない」
ずっと着いてきていた彼との初めての会話は、このゆっくりと流れる世界で始まった。




