第二百十六話
第二百十六話
灯りを落とした室内で、カイトは長椅子に腰かけた。
柔らかな椅子の背もたれが、カイトの体を受け止めてくれる。目の前に置かれた膝丈のテーブルには、透明なグラスに琥珀色の酒が注がれていた。
ここはカイトが予約したカジノホテルの一室だった。メリンダに対する日頃の感謝もあり、最高の部屋をとった。値段も最高だったが、お値段以上に最高の部屋だった。
床に敷かれている絨毯から始まり、置かれている家具やテーブルと言った調度品はどれも素晴らしく、王侯貴族になったような気さえする。
カイトは寝台に目を向けた。そこには妻のメリンダが絹の掛布を纏って眠っていた。金色の髪を無造作に投げ出し、掛布の隙間からは太ももからつま先が顕わになっている。
妻の寝姿に笑みを向けた後、カイトは窓の外を眺めた。
全てが素晴らしい部屋だが、特に気に入っているのが窓からの眺望だった。
地下に作られたダンジョンのホテルだと言うのに、どういう仕掛けか部屋には窓があり、外を眺めることができた。ただし窓に映るのはロードロックの景色ではない。カイトの知らない湖が、窓の外に揺蕩っている。
陽も落ちた夜。新月の空は星々の舞台であった。無数の星が瞬き、空が割れているかのようだ。風もない水面は止水となり、鏡のように星空を映し出している。星々に境目はなく、双極の満天がそこにあった。
ただただ息を呑むばかりだ。このカジノダンジョンがなければ、一生見ることがなかった光景だろう。いや、これだけではない。この部屋や昼間に見た施設のどれもが、カジノダンジョンがなければ存在すらしなかったものばかりだ。しかもカジノダンジョンはさらに発展を遂げており、今後も新しい何かを常に生み出していくだろう。
カイトはテーブルに置かれたグラスを手に取り、酒を煽った。
アルコールが喉を焼き、体がわずかに熱を帯びる。
強い酒だ。樽のいい香りが鼻を抜けていく。数年前まで、こんな上等な酒を飲むなんて思いもしなかった。そもそもこれほどの酒は、まず市場に回ってこない。貴族たち特権階級だけが楽しめる嗜好品だった。それが今ではコインさえあれば、誰でも手に入れることができる。
カイトはグラスをテーブルに置いた。その音が大きかったのか、寝台で眠るメリンダが寝返りを打った。
「カイト?」
つぶやきと共にメリンダが顔を上げ、乱れた髪の隙間からこちらを見た。
「悪い、起こしたか?」
「どうしたの? 眠らないの?」
メリンダは掛布で体を隠しながら、寝台の上で身を起こす。
「少し考え事をしていてね」
カイトは視線を窓の外へと向けた。
カイトは神剣ミーオンを所持し、四英雄と行動を共にしている。そして四英雄は、カジノダンジョンを攻略することを、ひそかな目標としていた。
カジノダンジョンを攻略してしまえば、今ここにある物も、そしてこれから生み出されるであろう物もすべて失われる。それは人類にとっての損失と言えるだろう。
それにカイトは、このカジノダンジョンのことが好きだった。
カイトはカジノダンジョンに最初に足を踏み入れた人間であり、それ以降もカジノの変化をつぶさに見てきた。誰よりもカジノダンジョンに詳しいという自負がカイトにはある。
カイトはカジノダンジョンを攻略することに、誰よりも抵抗を感じていた。
「カイト……貴方はこのダンジョンを潰したいの?」
メリンダに問われ、カイトは内心驚いた。
四英雄の真の目的を、カイトはメリンダにすら教えていなかった。しかし妻はカイトの悩みを見抜いているのだ。
カイトはメリンダの言葉に答えなかった。答えられなかった。
本心で言えば潰したくはない。だが潰さねばならないとする、四英雄の言うことも理解できた。
カジノダンジョンは強大になりすぎた。生まれてまだ数年しかたっていないと言うのに、その規模は八大ダンジョンに匹敵する。さらに勇者サイトウを撃退し、列強各国と同等、いやそれ以上の存在感を世界に示しつつある。
それに四英雄が言うには、カジノダンジョンの地下には、四英雄に匹敵する最強のモンスターがいると言う。おそらくこれは事実だろう。
カイトでも、同じ立場なら自分を守る最強の手駒を作っておく。だが以前であれば、これは大した問題にならなかった。
どれほど凶悪で強大なモンスターがいたとしても、高々数体のモンスターだ。最悪ロードロックと、周辺の村々が滅ぼされるだけで済む。しかし今やカジノダンジョンは、世界各国と転移陣を通じて繋がっている。四英雄が恐れるほどの脅威が、世界中に飛び火するのだ。
カイトはカジノダンジョンの主であるマダラメと、個人的な知り合いであった。
スケルトンを通しての会話がほとんどだが、理性的で落ち着いた人物であることは知っている。
彼はカジノダンジョンを危険視されることを恐れており、人を傷つけると言うことをしない。ダンジョンを攻略しようとした勇者サイトウですら、装備品を奪いはしたが傷つけることなく返した。
マダラメが人を殺したことはおそらく一度もなく、むしろカイトのような冒険者の方が、よほど人を傷つけ殺しているだろう。
ダンジョンマスターマダラメは、信頼に足る人物である。カイトは誰に聞かれても、そう答えるだろう。だが事ここに至っては、もはや善悪や正邪、個人の好悪を超えた問題となっている。
マダラメは、今は信用できるかもしれない。だが時の流れは人間を変えてしまう。
純真無垢な子供は、十年もすれば汚い大人になる。聖徳を積んだ聖者も、老いさらばえれば生に執着する。頭脳明晰な将軍も、年をとれば鈍する。
世界を滅ぼす力を持ったマダラメが、気まぐれに世界の破滅を望まないと誰が言えるのか?
カジノダンジョンが無くなれば、それは人類にとって大きな損失となるだろう。だが人類滅亡の天秤の対には軽すぎる。
人類とダンジョン。どちらをとるかと言われれば、カイトは人類の側にしか立てない。
カイトはカジノダンジョンを、最初に発見した日のことを思い返した。
あの時はスロットを見つけ、無邪気に遊んでいたものだ。
できるのならば、あの時に戻りたかった。