第二百五話
第二百五話
蠱毒のダンジョン。そのどことも知れぬ一室で、異世界より転移した勇者サイトウは短剣により切り刻まれた。
二の腕、太もも、背中。短い短剣はサイトウが着込んでいる、鎧や鎖帷子を紙の様に切り裂いていく。傷口からは大量の血が溢れ出す。サイトウは回復魔法で重要な血管や神経、筋肉を高速で修復する。だが全てを治療しきることはしない、動けるギリギリのところで魔法を止める。戦いのさなかでは悠長に全回復など行っていられないからだ。
サイトウの体を見れば、応急処置で止まっている傷がおびただしいほど刻まれていた。
満身創痍のサイトウの前に立つのは、暗殺者のカスツールであった。
サイトウがよく知るカスツールの姿は、卑屈な視線で見上げる矮躯の男であった。しかし今目の前に立つのは、サイトウを超える長身に長い手足。顔つきも酷薄な冷徹さはあるものの、目鼻がすっきりとした美男子であった。
これこそカスツールの本来の姿であり、矮躯の姿は周りを欺く偽装であった。
元の姿に戻ったカスツールは素早く、まさに目にも止まらぬほど。短剣が振るわれれば、痛みが後から来て斬られたことにようやく気付くといった具合であった。
サイトウはいいように体を切り刻まれ、全身は今生きているのが不思議に思えるほどの血まみれ。対するカスツールには傷一つなく、返り血すらついていない。
互いの姿を見れば、戦いの優劣は明らかであった。しかし……。
全身を切り刻まれ血だらけのサイトウは、自らの血で汚れた顔で笑った。
真っ赤に染まった顔の下、半月の笑みを浮かべるサイトウをカスツールが睨む。
カスツールの額には汗が流れていた。長躯となった肩も上下している。
すでに戦いが始まり、三十分以上が経過していた。その間カスツールは、数えきれないほどサイトウを切り刻んだ。ほぼ一方的な戦いだったが、カスツールはサイトウを殺しきれなかった。
「もうおわりか?」
血まみれのサイトウが嘲笑の顔を浮かべる。カスツールは苛立ちの舌打ちをして短剣を構えた。そして次の瞬間サイトウの背後に移動していた。
すれ違いざまに短剣を振るい、サイトウの腕を半分ほど切り裂いた。だが本来はサイトウの首を狙っていた。切られる寸前でサイトウが腕をあげて致命傷を防いだのだ。
腕を切り裂かれたサイトウは、即座に回復魔法を発動し切られた腕を修復する。その速度は速い。ほんの数秒の間に傷がなくなっていく。
「いったいお前は、どれだけ切り刻まれれば死ぬんだ!」
カスツールは苛立ちに怒鳴った。
先程からずっとこの繰り返しだった。どれだけ切り刻もうと、サイトウはすぐにその傷を治癒してしまう。
首や頭、心臓を突き刺せば流石に死ぬだろうが、サイトウもそこだけは守ってくる。カスツールは毒を得意とするが、これもすぐに解毒分解されてしまうため、殺し切る手段がなかった。
「どういう回復能力だ!」
カスツールは叫ばずにはいられなかった。
致命傷を避けているとはいえ、一瞬で治療できるほど浅くはない。サイトウの回復能力は、本職の僧侶を超えていた。これほどの回復を行える者など、救済協会でも一部の高僧ぐらいであろう。
「どういうと言われてもね、毎日ラケージにいびられていたら、自然にこうなったよ」
「そんなふざけた話があるか!」
サイトウのあっけらかんとした答えに、カスツールは怒鳴り返す。しかし叫びながら、思い当たる節があった。
回復魔法には、自らの手足を傷つけて治療を行う修練方が存在すると聞く。
精神を病む者が出るため、救済協会では禁じられている方法らしい。サイトウがそのことを知っていたかどうかはわからないが、ラケージの拷問とも言える行為が同じ効果を生み出したのだ。
しかもラケージの嗜虐趣味は、サイトウの精神も鍛え上げていた。
何度切り刻まれても、サイトウは慌てることなく的確に治療していた。しかし攻撃を受ければ、誰でも少しは動揺するものだ。痛みは思考を鈍らせるし、出血を目の当たりにすれば、生存本能が働き心拍が上昇する。だがサイトウにはそれすらない。
あまりに痛ぶられすぎたため、自分が死ぬギリギリの限界がわかっているからだ。
喉から音がして、カスツールは自らが固唾を飲んだことに気づいた。
カスツールは暗殺ギルドに所属していた経歴がある。命のやり取りをする暗殺ギルドの訓練は厳しく、死と隣り合わせであることは茶飯事であった。しかしここまで過酷ではない。そんな方法では訓練する者が全員死んで、ギルドに所属する者がいなくなってしまうからだ。
暗殺ギルドの訓練を潜り抜けたカスツールは、自分以上に過酷な訓練を受けた者はいないと思っていた。それがカスツールの自信の根幹であり、精神的な優位であった。しかし今、その余裕が揺らいでいた。
「ん? もう終わりか? ならこっちからいくぞ?」
戦慄するカスツールに、サイトウが剣を掲げる。
「舐めたことを言いやがる。確かにお前のしぶとさには一目置いてやるが、それだけだ。俺の速度に追いつけるつもりか?」
カスツールは鼻で笑った。速度には絶対の自信がある。サイトウに追いつかれることは決してない。
「ああ、追いつけるつもりだ」
こともなげに話すサイトウの姿が、次の瞬間消え去った。カスツールの全身から汗が吹き出す。
カスツールはゆっくりと振り返った。背後には剣を掲げるサイトウが佇んでいる。
カスツールの頬を、一滴の雫が流れる。これは汗ではない、血だ。駆け抜けた時に刃を振い、頬を掠めたのだ。
「剣を振るタイミングが遅れて外したか。ものにするには練習が必要だな」
サイトウは向き直り、剣を構え直す。
「お前、それは俺の……」
カスツールの声は震えていた。
サイトウがやってみせたのは、カスツールの持つ移動術だった。
体から極限まで力を抜き、微細な配分で闘気を体の各所に巡らせて爆発的な瞬発力を生む。カスツールの必殺技にして奥義であった。
「ああ、何度も見させてもらったからな。あれだけ見たら真似もできる」
「ふざけるな!」
カスツールは汗を流しながら叫んだ。
サイトウが他人の技や技術を盗み、力を増していることは知っていた。しかし今サイトウが盗んだのは、カスツールの奥義ともいうべき技だった。
この移動術の習得にカスツールは何年もかけ、それこそ血の滲む修練をしたのだ。ものの数十分で盗まれるなどあり得なかった。
「これぐらいできないと、ラケージに殺されるだけなんでな」
「ふざけ……るな……。俺の、俺の技が……」
動揺にカスツールの呼吸が荒くなる。
サイトウが異世界から現れた勇者であることは知っていた。しかしこれほどまでとは思わなかった。
「カスツール。おい、おい!」
考えを巡らせるカスツールの耳を、苛立ちの声が貫く。視線をあげるとサイトウが睨みつけていた。
「ほれ、まだいくつか技を隠し持ってるんだろ? 見せろよ」
サイトウは突きつける剣を、自分に招くように小さく振る。
「光栄に思え、お前の技を俺様が盗んでやる。だからお前の持っている技を全部見せろ。ただし、最後の技で俺を殺せなければ、死ぬのはお前だ」
サイトウは口を横に広げ笑った。刃のような酷薄な笑み。
「クソッタレ! クソッタレが!」
カスツールの罵倒が部屋に響いた。