第二百話
第二百話
寝台で目を覚ましたサイトウは、天井を見上げて息を吐いた。
最後の記憶は、ラケージと戦っていた時のものだ。だが勝った覚えはない。つまり自分はまた負けたのだ。
積み重なる敗北にため息しか出ない。しかし妙だった。意識を失ってから気づくまで、拷問された記憶がない。
ラケージを前にして抵抗する気力を失えば、嗜虐趣味に溢れたラケージのこと、思いつく限りの拷問を施して楽しむはずだ。
だがサイトウは意識を失ってからというもの、痛みで覚醒した覚えがない。ラケージの拷問に遭えば、気絶していても痛みで意識を取り戻す。そして苦痛で気絶するという過程が何度も繰り返されるのだ。
今日は途中で目覚めた記憶がない。それともあまりの痛みに、脳が拷問された記憶を消し去ってしまったのだろうか?
サイトウは自分の体を改めようとして身を起こした。するとギョッとした。
自分の右隣、まるで添い寝をするようにラケージが眠っていることに気づいたのだ。
一体何があった! 俺は何をされた!
サイトウは慌てて、自分の体を確かめた。
サイトウの上半身は、鎧や服を剥ぎ取られて裸となっていた。しかし下は無事で、ズボンを履いていた。また眠るラケージも衣服を身につけている。
もっともラケージは丈の短い胴衣に同じく短なスカートと、半分裸のようなものである、しかし服を着ていることに間違いはなかった。
安堵に胸を撫で下ろしたサイトウは、改めて眠るラケージを見た。その寝顔は子供のようにあどけなかった。眠るラケージを観察していると、サイトウは再度ギョッとした。
眠るラケージの顔、その頬に涙の跡があったからだ。
この女、泣いたのか?
サイトウは信じられなかった。
ラケージは残酷で冷酷、その精神はまさに怪物そのものと言えた。当然涙を流すような女ではない。
サイトウは驚き、ラケージをまじまじと見た。
長いまつ毛に覆われた目は伏せられ、涙の跡が残る頬はふっくらと丸みを帯びている。肌は白磁のように白く、滑らかできめ細かい。小さな顔にある赤い唇は、息をするたびに震えていた。
サイトウは生唾を飲み込んだ。そしてその寝顔に見惚れてしまう。
次の瞬間、サイトウの背筋に悪寒が走った。自分の中に、何か得体の知れないモノが入り込んだ気がしたからだ。
まるで劇薬を飲み込んだような気がして、サイトウは不吉さからラケージのそばを離れた。そして逃げるように寝台から抜け出す。
サイトウはその足で風呂場へと向かった。風呂場といってもこの部屋にシャワーはない。脱衣所の横にある小さな風呂場には、排水のための穴が床に空いており、手桶と体を拭くための布が置かれていた。
サイトウは服を脱ぎ捨て風呂場に入ると、魔法で水を生み出し桶に溜めた。そして頭から水をかぶる。
冷水が頭から全身に滴る。やろうとおもえば水を適温の湯にすることもできたが、サイトウは湯にしなかった。そして何度も水を生み出して、何度も頭から冷水を浴びた。
体が冷えると共に、頭もすっきりとしてくる。胸にドロリと入り込んだ何かも、水と共に洗い流された気がした。
サイトウは布を手に取り体の水分を拭い、下着を身につけズボンを穿いた。そして上半身裸のまま、頭を拭きながら風呂場を出た。
部屋に戻ると、すでにラケージも目を覚ましていた。寝台に腰掛けるラケージを見て、サイトウの胸が大きく高鳴る。だが腰掛けるラケージの顔に、もはや涙の跡はなかった。
「空いた? なら私が入るね」
寝台から立ち上がると、ラケージはサイトウの脇をすり抜けて風呂場へと入っていく。
いつもと変わらぬラケージの態度に、サイトウは安堵の息を漏らす。扉を一枚隔てた脱衣所からは、ラケージの衣擦れの音が聞こえてきた。
サイトウは聞こえてしまった音を振り払うように、その場を離れた。そして食料庫へと向かう。
食料庫の扉を開けると、中にはカゴに盛られたパンと干し肉、チーズに加え野菜と果物、瓶に入った牛乳などもあった。
この部屋はラケージが勝ち取った部屋であり、ここにある食料も彼女のものだ。
勝手に手をつけるのは本来なら礼儀に反する。だがサイトウは遠慮なくパンや干し肉を手に取り、勝手に食べた。
食事を終えたサイトウは上着を着て、装備の手入れをすることにした。
武具の汚れを拭き取り、刃こぼれや破損を確認する。部屋には砥石も置かれているので剣を研いでいると、風呂場からラケージが出てきた。
濡れた黒髪から水滴を滴らせる彼女は、食料庫から牛乳が入った瓶を取り出し、口をつけて飲み始める。
口の端から牛乳がわずかにこぼれ、筋となって口から喉へと伝う。
サイトウは白い牛乳の筋に気づいたが、意図的に無視して刃を研いだ。
武器を整備するサイトウの隣で、ラケージが食事を始める。そして食べ終えると、ラケージも無言のまま武具の手入れを始めた。
戦いの中で信用できるのは、自分の技量と武具のみである。入念な整備は欠かせなかった。
サイトウがすっかり武具の整備を終えた頃だった。頭上から鐘の音が鳴り響いた。
鐘の音に驚いたサイトウは、つい同じ部屋にいるラケージに目を向ける。すると彼女もサイトウを見ていた。
この鐘の音は、闘技場での戦いの開始を告げる音だった。しかし闘技場での戦いは、毎日あるものではない。一度戦えば数日は部屋に閉じ込められるのが常だった。
サイトウが竜と戦ったのは昨日のこと。まさか今日も戦うことになるとは思わなかった。
やや不可解であったが、戦いが始まるというのであれば準備せねばならない。
サイトウとラケージは無言のまま装備を身につけ、そして外へと出た。