第百九十九話
第百九十九話
「グゥゥ、まだ……まだぁ!」
叫んだのはサイトウであった。ラケージと対峙しながらも吠える。だがその体はすでに満身創痍であった。
体中が血塗れであり、無数の切り傷に打撲が体に刻まれていた。すでに回復魔法を発動する魔力は残っておらず、体を覆う闘気も底をついている。
それでもサイトウは、一歩前に踏み出そうとした。だがその瞬間足から力が消え失せ、糸が切れたように崩れ落ちた。
ラケージが倒れたサイトウを見下ろすと、サイトウは白目を剥き意識を失っていた。
気絶したサイトウを前に、ラケージが息を吐いた。
ラケージは自分が集中し、そして緊張していたことを感じていた。
初めサイトウと会った時、サイトウはあまりに弱かった。片手間どころか、指一本で相手をすることもできた。だがサイトウは急成長を遂げ、今やラケージを持ってしても集中せねば足元を掬われるところまで来ていた。
しかしまだまだラケージには届かない。ようやく足元に来たというレベルだ。
精も根も尽き果てたサイトウは、意識を失い眠っている。
ラケージは相手に抵抗する気力がある限りは、相手の抵抗に付き合うことにしている。しかし心折れ抵抗をやめた場合は、自分の好きにさせてもらうことにしていた。
嗜虐趣味のあるラケージは人を傷つけ弄び、泣き叫ぶ姿を見て最大の興奮を覚える。
ラケージは気を失ったサイトウの体を持ち上げると、寝台へと運んだ。
サイトウの体を横たえさせると、ラケージの白い指はサイトウの装備や衣服を脱がしにかかる。
鎧や服が剥ぎ取られ、サイトウの上半身が顕わとなる。その素肌はこれまでの戦いで傷つき、いくつもの傷跡で覆われていた。
サイトウの裸体を見て、ラケージは舌を伸ばして唇を舐める。赤い唇は艶やかさを増し、大きな瞳は愉悦に歪む。
肉食獣の如き笑みを浮かべながらラケージが、意識を失ったサイトウの横顔を見た。
その寝顔を見た瞬間だった。妖艶に微笑んでいたラケージの顔が硬直した。ラケージは目を見開き、その顔からは全ての感情が消え去る。
何を思ったのか、ラケージは手を伸ばし眠るサイトウの頬に触れた。
優しく寝顔を撫でる自分の手を、ラケージは不思議そうに眺めた。
なぜこのようなことをしているのか、ラケージは自分でもわからなかった。ただ頭の混乱をよそに、体は勝手に動きその身をサイトウの隣に横たえた。そして顔をサイトウの胸に埋めた。
白魚のようなラケージの指先は、自然とサイトウの厚い胸板に添えられる。
ラケージには、自分がなぜこんなことをしているのかわからなかった。だが胸の奥底で何かが痛み、叫んでいるのを感じた。
ラケージの瞳が潤み、一筋の涙が溢れる。
ラケージにはわからなかった。涙の意味も、胸の痛みの元凶もわからなかった。
ただ自分が何かを忘れてしまっていることに気づいた。それはかけがえのない、自分にとって大事な、幸せなものだったはずだ。しかし今はもう、何を忘れてしまったのかを思い出すこともできない。
ただ胸の空白だけが、痛みを訴えていた。
ラケージの胸にある空白。それはまだラケージが少女と呼べる時の頃だった。
捨て子だったラケージは、教会で育てられた。そして養い親である神父を助けるため、自らの腕に傷をつけ癒しの技を覚えた。しかしまだ一人前にはなっていないと、ラケージは冒険者になることを決意して旅立った。
旅立ったラケージは、運命の出会いを果たした。
それは一人の青年、いや、少年と言ってもいい戦士だった。
その戦士は幼く新米で、金も技術も名声も、何も持っていない。だが若さと野心、向こう見ずな度胸だけは人一倍であった。
共に駆け出しであったラケージと戦士は意気投合し、パーティーを組むようになった。
若いパーティーは失敗ばかりで、苦労の連続であった。だが困難は男女の距離を縮め、二人は寝台を共にするようになった。
冒険を終えて宿に戻ると、いつものように戦士は体を寝台に横たえた。そしてその傷だらけの体をラケージが癒す。
戦士は戦いの疲労と、治療の心地よさからうたた寝をしてしまう。ラケージは起こすような真似はせず、傷の治療を終えると添い寝をし、顔を戦士の胸に埋める。
これまでの戦いで、戦士の体にはいくつもの傷が刻まれていた。しかしラケージは醜いとは思わず、その一つ一つを愛おしく撫でた。
貧しく苦労ばかりの日々であったが、ラケージはこの上ない幸福を感じていた。この時間がずっと続けばいいとすら思っていた。
だが幸福な時間は、あまり長く続かなかった。
一つの手配書から、終焉は始まった。
賞金首ジャザットが、ラケージ達がいる街の近くに潜伏しているという情報が入ってきたのだ。
賞金首を倒せば富と名声が手に入る。戦士とラケージはジャザットの首を狙いに行き、そして敗北した。
ジャザットは強く、何より邪悪な男であった。返り討ちにした戦士とラケージを殺さずに捕え、隠れ家に連れ帰った。そして互いが見える状態で鎖に繋ぐと、戦士を拷問してラケージを犯した。
二人はボロボロになるまで弄ばれたが、ジャザットは一日の終わりには必ず二人を同じ牢屋に入れた。
ラケージは乱暴された体を引きずり、自分よりも先に拷問された戦士を癒した。そして強姦される際も、自ら媚を売り腰を振った。
自分が犯されている間は、戦士が拷問されないと考えたからだ。
全ては戦士を愛していたからこその行動だった。だがラケージは気づかなかった。自分の行動が、どれほど深く戦士を傷つけているのかを。
傷が癒やされれば、また拷問が開始される。そして愛した女が、自分を拷問する相手に媚を売り、腰を振っているのだ。
苦痛と絶望が戦士の心を塗りつぶしていった。
次第に戦士は自らの死を願うようになった。ラケージは希望を失わないでくれと懸命に声をかけたが、もはや戦士には届かない。毎日死を望み、殺してくれと懇願された。
ついにラケージの心も折れた。だがラケージに、愛する者を手にかけるようなことはできない。ラケージはジャザットに、戦士を楽にしてやってほしいと懇願した。だがジャザットは戦士を殺さなかった。そんなに殺したければ自分で始末しろと、ラケージに一本の短剣を渡した。
これは毒の刃である。かすり傷一つで毒が回り死ねると。
ラケージは短剣を握りしめ、三日三晩悩んだ。そして悩んだ末、戦士を楽にすることに決めた。
毒の刃を手にしたラケージはほんのわずか、針の先ほどの傷を戦士の体につけた。
これで戦士を楽に死なせてやれると、ラケージは苦しみながらも一方で安堵した。だがラケージは気づくべきであった。ジャザットの邪悪さに。
確かに短剣には毒が塗られていた。しかしジャザットは楽に死ねるとは言っていない。
短剣に塗られていたのは七日毒と呼ばれるもので、かすり傷一つで毒が全身に回る。だがすぐに死ぬことはない。
激痛と共に体中の皮膚がただれ、手足が腐り落ちる。そして七日七晩苦しみ抜き、ようやく死ぬことができるのだ。
七日毒に侵された者には、長く苦しい死が待っている。
そのことを知らぬラケージは、苦しみのたうつ戦士を見て驚き、話が違うとジャザットを詰め寄った。そして戦士を楽にすべく、止めを刺そうとした。だがジャザットはこれを許さず、ラケージを縛り付け、七日かけて戦士が死ぬのを余すことなく見させた。
なにもできぬラケージは、戦士に泣いて謝り続けた。一方毒に苦しむ戦士は、原因となったラケージに怒りの矛先を向けた。そして怒鳴りちらし、心にある不満を全てぶちまけた。あらん限りの罵倒と、蔑みの言葉をラケージに投げつけた。
ジャザットは泣いて謝罪するラケージと、罵倒する戦士を酒の肴にして七日間楽しんだ。
ついに七日後、戦士は毒で死んだ。死ぬ間際、戦士はラケージに対し、お前と出会わなければよかったと、全てを否定してから死んだ。
戦士が死にラケージの心は砕け散った。嗜虐趣味のあるジャザットは、最後にラケージを拷問して責め殺し、終わりにしようと考えていた。だが心が壊れたラケージは、思わぬ変化を遂げた。
ラケージはジャザットに拷問された時、その痛みを楽しむようになったのだ。
これはジャザットも驚く変化だった。
元々ラケージには倒錯したところがあった。極度に痛みを怖がる臆病な性格である一方で、回復魔法の習得のために自らの手足を傷つけて癒す方法を選んでいた。
やや常軌を逸した性質に加え、ジャザットに嬲られ精神が疲弊し、そして長く拷問に苦しむ戦士を見続けた。これによりラケージの精神は奇妙なねじれを見せ、苦痛を快楽であると思い込むようになったのだ。
ジャザットはラケージを面白がり、殺さずに生かすことにした。そして自分の賞金を狙ってやってきた冒険者を捕え、ラケージに拷問させた。
痛みを快楽であると思い込むようになったラケージは、進んで拷問するようになり、ジャザットも舌を巻くほどの嗜虐趣味を見せるようになった。
ジャザットはラケージを連れ歩くようになり、戯れに鍛えもした。魔法に闘気の扱い方、剣術や格闘術も教え込んだ。
もちろんジャザットのことであるから、それらの訓練は拷問に等しい過酷なものだった。
しかしラケージは、すでにジャザットの純然たる拷問を潜り抜けている。血が滲む訓練も、ラケージにとっては拷問の種類が少し変わった程度でしかなかった。
並の冒険者であれば一日で逃げ出すような過酷な訓練を、ラケージは難なく耐え抜いた。そしてラケージは強くなった。その力はいつしか、ジャザットを超えるほどまでになっていた。
ジャザットより強くなったラケージは、戦いを挑み勝利した。
ジャザットを下したラケージはすぐには殺さず、ジャザットの手足を切り落として一年ほど飼育した。そして最後ジャザットに七日毒を投与し、苦しむ姿を七日七晩見て楽しんだ。
ここにラケージは完成した。
禍々しい毒花となって、その才能は開花したのだった。
ラケージが出来るまでのお話